第19話 環状線都市-3

 香織をリングバーンに差し出すなんて出来るわけない。

 だけどわたしがわたしを選んだ後でも、香織が無事に助かるなんて思えない。


 茉莉伽さんの言葉を信じるなら、目の前に立つ制服姿のぼんやりした女の子の顔の邪悪は、香織のせいで『正しくなくなった』からわたしが死んだって言いながら、香織を街に食べさせるんだろう。

 その次はお母さん、お父さん、拓――。


「そんなふうになるんだったら……」


 最悪の想像を思い描いて、わたしの目頭はかあっと熱くなり、わたしは勝手に口走る。

 熱いのは目頭だけじゃない。

 スカートに突っ込んでいたままの右手の内側――握りしめた丸い車掌鋏が自分の体温と別の熱を手のひらに伝えてくる。

 わたしの肌より少し暖かい程度だったのが、瞬く間に火傷しそうなくらいに熱する。

 それでも手はほどけるどころか、より強く、鋏を潰すような勢いで握っている。


 胸から目頭に込み上げ、自然とほっぺたに落ちてく熱さは止まらない。

 金属音は嫌でも耳に入ってくるぐらい大きくなっている。リングバーンの環状線の茶色い電車はもうホームに進入しかけていた。


「そんなふうになっちゃうんなら……」


 ただ身体が熱くて、息苦しくて、胸と目頭を中心に、身体のあちこちに向かって伝わる、重くて激しい衝動の波がわたしを突き動かす。

 右手が意図しないままポケットを突き出して、空気に晒される。


「わたしは変わる! 変わってやるっ!」


 言葉と共に車掌鋏を握っていた手が、最高潮の熱さと共にと明らかに異なる重みと感触を伝えてくる。


 ぎりぎり、ぎいぎいと環状線の古ぼけた茶色い電車は耳障りなブレーキを鳴らし、わたし達を照らし続けた夕陽を遮るようにしてホームに停車した。

 香織を拐うために、電車のドアが一斉に開く。


 わたしはと言えば、胸の鼓動が収まってやっと言葉を絞り出せるようになったのに、ほっぺたを伝ってく涙を全然止まられないままいた。


「香織だけだったんだよ……何にもない、鈍くさいだけで、いっつもその他大勢でしかないわたしのことちゃんと見てくれた友達。『百瀬さん』でも『百瀬』でも『桃太郎』でもなく、『灯里』って読んでくれた友達」


 もうわたしの手に握られたそれは車掌鋏じゃなかった。


 市獣の手にする銀灰色の大きな拳銃と対象的な、わたしの手にすっぽり収まるほど小さくて無骨な、見るからに頼りない白銀色の拳銃。

 だけどわたしの心はこの頼りない銃が、わたしの涙の出どころを、わたしの大っ嫌いな少女の顔をした獣にぶつけられるものだと理解していた。


「そりゃさ、友達になった切っ掛けだって『高校最初の日に隣の席になったから』ってマンガみたいな理由言い出すしさ。人のこと全然考えないで勝手な約束したり、勝手に振り回したりするしさ。そのせいでわたしと香織がみんなを失望させたり、お母さん心配させたりしたよ。でもわたしのこと見捨てないで、構い続けてくれた友達は香織だけなんだよ」


 わたしの言葉は止まらない。胸の熱は冷めない。


「ねえ、わたしも質問して良い? 香織を殺して良いくらいの『正しいこと』って何?」


 香織と握っていた手を離して、銃のお尻のレバーを引く。

 硬い感触と共に、かちり、と銃弾が装填される音。

 そして躊躇ためらうことなく右腕を――銃口を、電車のドアに足をかける香織の胸に向ける。


 わたしの問いに、女の子は何も答えない。

 答えられるわけない。わたしだってその正体なんか知るわけないんだから。


 わたしは銃口を絶対に香織の胸から逸らさない。

 わたしの込めた弾丸は香織を殺せないことを、今まさにわたしが香織の心と向き合っているのを拳銃が教えてくれているから。


 照門と照星――拳銃が教えてくれた狙いを定める部品越しに、香織の胸の中の狙うべき場所がうっすらと浮かび上がる。


 左胸のさらに内側、灰色に染まってる香織の『心』。

そこをしっかり照星に合わせると、引き金を引き絞った。


「お前が答えられない『正しさ』なんかでっ、わたしの親友を殺させるもんかっっ!」


 ぱぁぁんっっ!


 自分の喉から出たのか疑いたくなるぐらいの絶叫と、乾いた音が長く余韻を残してホームいっぱいに響く。


 銃口を飛び出た金色の弾丸が、真っ直ぐ香織の胸に向かって飛んでゆくのが映る。

 弾丸は制服と皮膚を突き抜けて香織の胸の内側に飛び込むと、そこで動きを止めて、胸の中ですうっと消えていく。


 数秒の後に、キン、とはじき出された空薬莢がコンクリートに当たって軽い金属音を立てたと同時に、香織は崩れ落ち、お尻からホームの方に倒れる。


「あいたっ!」


 どさっ、とお尻から着地した香織は派手な声を上げ、そのままいたた、と手で痛めたお尻をさすってから、再び立ち上がるのだった。


 良かった。間一髪成功したんだ。わたしは構えた右腕を降ろして、息を大きく吐く。


「なんで? 香織の心は確かにわたしが眠らせたはず……」


 空虚な声でそう呟く市獣。

 とろんとした眼はそのままだけど、呆気にとられた口調のおかげで、彼女にとってありえない物を見ているんだろうというのがすぐわかった。


「だからわたしがなんとかした。わたし自身の魔法で」


 わたしはは銀色の拳銃をもう一度両手で思い切り握りしめ、市獣を睨む。


「……なんか、ずっと寝てるか起きてるかわかんないような感じだったけど、灯理の声で思いっきり目ェ覚めたよ」


 完全に立ち上がった香織は、ばつが悪そうだけど、それでいて誇らしげな表情だった。


「親友って言い切ってくれて、ありがとね。あたしもどうかしてたわ」


 とん、と握った拳でわたしの肩を叩いたと思うと、香織はわたしの顔をした邪悪の方を向き直って、口を開いた。


「あんたの話もずーっと聞いてたけど、あたし、はっきり言ってあんたのコト大っ嫌いだ」


 香織は憎々しげに――さっき千里さんやわたしに見せた表情の何十倍も怒りの籠もった表情で――低い声であいつに言葉を投げつける。


「『正しい』とか『正しくない』とか言うけど、結局それ誰がジャッジしてんの。警察? 裁判所? 灯里のおばさん? 周りのみんな? んな訳ないでしょ」


 香織の低い声は言葉を吐き出すごとに落ち着きを失って、勢いを増してく。

 呼応するように市獣の灰色に濁った瞳が、不快そうに狭まる。


「結局あんたの言う『正しい』って、ただ周りの反応が怖いし申し訳ないしで、自分抑えつけるの正当化してるだけのジャッジなんだろ。他の奴の勝手な期待や心配とか、正論っぽい話とか、言いたい放題に、しなくてもいいのに良い子ぶって。それも全部弱くて『正しくない』自分が悪いからって誤魔化して。あたしはあんたの――灯里のそういうとこがマジで大っ嫌い!」


「……だから香織はわかってないんだよ」市獣が不愉快そうに口を開く。「『正しく』生きていかないと潰れちゃう弱い子だっているんだよ」


「そんな弱い奴がさ! なんで銃持った奴に立ち向かって、あたしを助けられるんだよ!」


 市獣の言葉に反応した香織の声はもう殆ど吼えるようだった。


「あたしの好きな百瀬灯里は! 引っ込み思案だけど優しくて真面目で、たまに毒舌だけど、いっつもあたしのバカや我が儘に本気で笑って付き合ってくれる子なんだよ! 心だってお前に立ち向かえてる時点ですっごい強い! 弱いんじゃない! 真面目すぎるから、心折ってくるもの全部本気で受け止めちゃって、本気で悩んでるだけだ!」


 香織がそこまで叫ぶと、すん、と鼻を啜る。香織のほっぺたにも、涙の筋が伝っていた。

 香織の言葉が胸を震わせる度、わたしの心の中にもあった灰色の部分が、色を取り戻していくような気がした。

 そして止めの一撃が、香織の口から放たれる。


「『正しい』って言葉で全部自分が悪いコトにして! 自分に嘘つき続けて! その結果があんたみたいなゾンビ女なら! そっちの方が何の価値もない!」


 わたしの中の灰色の最後の一片が砕ける音が、左胸から銃を伝って、耳に届く。


 それとは正反対にわたしの顔の少女は今までの無表情ぶりが嘘のように口元を憎悪で歪める。

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