第1章 幸せな出会い
01 病名『幸せ』
◆◇◆◇◆
「すみません、もう一度言って下さい」
真っ白なその心療内科の診察室は、カーテンを閉め切っているせいか人工的に作られた蛍光灯の明りが煩かった。机の上に置かれた二つの黒いデスクトップパソコンも、僕の病状が書かれているであろうカルテも何も気にならないぐらい、僕は医師の放った言葉に耳を疑った。
「だからね、君のそれの病名は『幸せ』なんだよ」
と、医師は子供に言い聞かせるよう言う。
ここで「はい、そうですか」と納得できるはずもなく、僕は頭を抱えた。
「それが、僕の病名なんですか」
「そうとしか、言いようがないね」
「……つまり『奇病』ということですか」
そう僕が聞けば、医者は静かに首を縦に振った。
何てことだ。
酷い頭痛が頭を蝕むと同時に、笑いがこみ上げてきた。笑うことでしか、自分を落ち着かせる方法がなかったのだ。
奇病――――それは、数年前のある日、突然、世界中で現れ始めた奇怪な病気の総称を指す。これは、一般的に化学では説明のつかない病状の患者につけられた病名で、不思議なことに似たような病状はあっても一人として全く同じ症状を持った患者はいない。つまり、治療方法のない唯一無二の病気と言うことだ。
この奇怪すぎる病気のことはたちまち世に広まり、奇病虐めだの、奇病差別だのが始まった。
理由は単純だ。奇病を発症する患者の殆どが心を病んだものだったから。奇病は甘えだの、精神が未熟だの、ネット、現実世界を問わず叩かれた。そうして、奇病の患者はますます社会で居場所を失い、奇病の自殺者はここ数年で一気に増えた。
心の病みが、奇病を引き起こす。
例えば、自分には価値がないと強く思い込み病んでしまった人は身体の一部が灰になったり、スマホ依存症が激しい人は手とスマホがくっついてしまい、その人自身も充電をしなければ生きていけなくなったりと、人によっては様々だ。
その様子はあまりにも歪で恐ろしいものが多いため、人々から嫌悪の目を向けられるようになった。
「奇病を取り扱う科は日本にはなくてね。うちや、精神科が奇病の患者を診ることになってるんだよ。奇病に関して詳しいことは言えないし、想像の範囲でしか話せないんだけどね、君のそれは『幸せを感じる』と身体に異常がでる奇病だ」
「……『幸せを感じる』とですか?」
僕が聞けば、医者は再度首を縦に振った。
確かに、何となくだけどそんな気がしていた。でも、面と向かってはっきり言われても、やはり実感はない。
(幸せを感じると身体に異常がでる……か)
僕はちらりと自分の手首を見た。自傷行為をしたいわけでも自殺願望もないのに、まるでリストカットしたような痕が僕の手首には痛々しく刻まれている。医者がいったように、少なからずこれは「幸せを感じた」時に現われた傷だった。確か、宝くじの四等が当たったときだっただろうか。自分の名前が四葉であるにも関わらず、生れてこの方運がよかったことなんてなかった僕は、そんなことですら幸せを感じてしまったのだ。別に、幸せを感じるのはいいことだし、普通のことだと思う。
しかし、今、医者に「幸せを感じる」と身体に異常がでる奇病だと診断され、普通の幸せすら望めなくなってしまった。痛い思いをしてまで、幸せを感じようとは思わなかった。幸せになろうと望めなかった。だが、そうなると娯楽が全てダメになるのではないかと、僕は医者の顔を見る。
医者もやはり奇病とは珍しい病気であるが故に、僕以上に頭を悩ましているようだった。何だか申し訳なくなり、僕は俯いた。ギュッと拳を握れば手首の傷がぱっくりと開き痛むようで、僕は顔をしかめる。
「何か、心当たりはないかな?」
「えっと、心当たりですか。その、この奇病を発症した心当たり……?」
「そう。きっと何かあるはずだ。まあ、分かったところで、奇病は発症したら生涯治らないし、一生の付きまとう傷みたいなものだけどね」
と、医者はやれやれと言った感じに首を横に振っていた。
奇病は治療法がない以前に、治ることのない不治の病だ。
心の病気である故に、奇病を引き起こすトリガーとなった出来事や思いがあって、それは一生その人に残り続ける。トラウマが消えないように。
僕は医者の言葉を受けて考えた。この「幸せ」の奇病を引き起こした理由を、十九年間の人生を振返りながら。
「あっ」
僕は思わずそう声を上げた。
医者は、少し驚いたように目を丸くしたが、「理由があるんだね」と一言言うと、それ以上は何も聞いてこなかった。デリケートな問題であると理解しているからだろうか、トラウマを掘り起こしたら症状が悪化すると考えたからだろうか。どちらにせよ、医者は無理に聞き出そうという気はないようで、僕は少しだけ安心した。
僕には一つだけ思い当たる点があった。
「まあ、そこまで深刻に考えないで……といえる立場じゃないけど、君のそれはまだ一見分かりにくい部類の奇病だから」
「はい」
「世の中には本当にたくさんの奇病が存在するからね。その人にしかその痛みは分からないから、私達医者はその症状が悪化しないようにサポートすることしかできない」
医者はそう言って持っていたボールペンを置くと背伸びをした。僕より二回り年の男性の医者は、またいつでもおいでと言葉をかけてくれた。
「『幸せを感じる』と身体に異常がでるみたいだから、こういうのを言うのは、本当に苦しいけど、恋なんてしちゃダメだよ。きっと凄く幸せになっちゃうからね」
「はい……」
「もし、一杯幸せを感じたら、それこそその手首みたいな傷ではすまないかもしれない。もしかすると、命に関わることにも……ね」
と、医者は最後言葉を濁しつつ、分かるよね? と目で訴えかけてきた。
僕はその言葉にはい、と頷くことしかできなかった。
僕にできることは、この奇病を悪化させないことだ。それが簡単なことじゃないことは分かっている。でも早死にはしたくない。奇病を発症した身であれど、寿命は全うしたい。
「ありがとうございました」
僕は、彼に頭を下げて診察室を出た。
ドッとそれまで張っていた気が一気に重くなり、足下もふらついた。それまでも、先の見えない道を歩いていたのに、さらにお先真っ暗になってしまい、どうすれば良いのかと胸が苦しくなった。
だが、「僕は、奇病なんだ」なんて簡単に切り出せる内容ではないため、一人抱えていかなければならない。奇病の窓口なんてものもあるけど、気休めだ。
僕の「幸せになってはいけない病」は、僕の人生を、身体を強く蝕む。
僕は病院の廊下の手すりにつかまりながら会計までいき、お金を払い病院を出た。この後バイトが入っていたことを僕は思い出し、少し遅れますと連絡を入れてバスに乗り込んだ。
秋風が寒く、もうすっかり冬の準備ができた自然を見て僕は後何年生きられるんだろうと、バスの一番後ろの席に座って目を閉じた。
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