崇高な愛 3
部屋に戻ったフィーネは洗面所に引きこもり、胃液が逆流してくるのをどうにか抑え込んで水を飲みながら耐えていた。嗚咽に生理的な涙が浮かんできて、それでもずっとそうしているわけにもいかず、自室へと戻った。
そうすると、カミルが部屋の明かりをつけてフィーネの事を待っていて、明るい中で見るカミルは、それほどその存在に違和感がなく、淡く光っているのも光の中ではわからなくなっていた。
『落ち着いた?』
「ええ……大丈夫」
頷いて、困ったような元気のない笑みを浮かべるフィーネをカミルは、少しだけ可哀想に思った。
彼女は、ふらついた足取りで執務机に腰かけ、口元をハンカチで覆って浅く呼吸をしている。そのそばに寄って、座ったことによりカミルより低くなった頭を胸元に抱いて、両手で抱きしめた。
前のフィーネにはよくこうしてもらっていたので、カミルは落ち着くようにと、自分にされたことを返してあげたつもりだった。しかし、カミルの突然の行動にフィーネは驚きながら硬直して、そろりとカミルの事を見上げた。
その瞳は涙にぬれていて、顔も青白く見るからに、体調が悪そうだった。
「……カミル?」
『大丈夫じゃなさそうに見えたから』
「そう?……きっと晩御飯を食べすぎたせいね」
『……』
フィーネは自虐的にそういって、それから、自分より小さな男の子に慰められているのを情けなく思いつつも、そのぬくもりを手放せずにいた。
そんな、罪悪感があるとは知らないカミルは、実はこちらの年齢では確かに十三か、十四なのだが、前の記憶を丸々引き継いでいるので実はそれなりの年齢であった。
それでも、カミルの言動が幼いのは、その生きてきた年数のうちで他人と関わることができた回数が少なかったせいであり、非常にちぐはぐな存在なのだ。けれどもそのどちらも知らないままフィーネは、小さく鼓動するカミルの心臓の音に耳を澄ませた。
『……前の君がやり直しを望んだ理由、ちゃんと理解できた?』
「できたよ。実感はわかない、けれど……まるで、扉の向こうに見知らぬ化け物でもいて、その恐ろしい生き物が、この世で聞いた中で最も醜い会話を二人の声でしているみたいな、そんな現実味の無さがあったけれど」
『……』
カミルから離れつつ、心底真面目にそういうフィーネの言葉にカミルは変なたとえ話だと、奇妙に思いつつフィーネの言い分を聞く。
「それに、裏側が醜悪なのに綺麗なもので取り繕っているって知った時、ただ単に醜悪なものを見せられた時より、ずっと忌避感が増すのはなんでなんでしょうね」
とこれまた、回りくどい事を言う。それなのに表情は普通に、体調が悪そうなだけの精神状態は普通の女性に見えるのだから、さらに奇妙である。
しかし、”白の魔法”を使って、彼女のことをよく見てみれば苦しい気持ちと、恐怖と不安が入り混じってなんとも嫌な気持ちになっていることが理解できる。
きっとフィーネが口に出していることは、彼女が思っていることで間違いはない。しかし、それは普通の人間よりもとても回りくどくて、本来、すごく嫌な気持ちだと一言で済ませられるストレートな嫌悪なのだ。
『ごめんね。フィーネ。きっと、君は記憶をみたって、実感するまでに時間がかかると思ったから』
「……カミルは悪くないわ。優しいだけ、本当はお礼を言わなければならないくらい、なの。私の方こそ謝らせてごめんなさい」
カミルを責め立てることが一番、簡単に楽になる方法なのに、フィーネはそれをせずに、逆に謝った。
そんな彼女にカミルは、ふっと笑みを浮かべる。フィーネがこういう性分の人間なんだとわかっていてもそれを目の当たりにすると面白いもので、フィーネはいつだって誠実でまっすぐで、カミルのことを助けてくれた前の彼女と同じだった。
『っふふ』
「私、なにかおかしなことをいった?」
『いーや?フィーネはフィーネだなって思っただけ!』
「……それは、いい意味?悪い意味?」
『モチロン、いい意味』
「ありがとう」
すこし、懐疑的な表情をしながらも小さく微笑む彼女は、やっぱり少し変わっていて、それでいて心根の優しい人だった。
……こんなフィーネがつまらないなんてベティーナもあの人も見る目がないな。
こんなに、面白い人なのに。
カミルは先程の二人の会話の中で引っかかっていた部分に、頭の中だけで言い返して、さっさと頭を切り替える。
フィーネのやり直しにおいて、カミルにできることはそう多くない、だから、出来ることをできるだけ精いっぱいするしかない。
『それで……そろそろ、君が望んだやり直しのために、何ができるか考えられそう?』
「……そもそもまともに考えるのなら、なぜこんな未来の記憶を得るなんてことが起こっているのかというところからさらって行きたいのだけど」
『それ重要?』
「……」
『デビュタントまで、一年間しかないんだ、すぐにでも準備始めた方がよくない?』
「…………」
もっともらしいことを言ったが、前の記憶をフィーネが手に入れた方法についてはカミルからは言えない事になっている。
だから聞かれても答えられないし、何より、時間がない。もうすでにやり直すのに必要な前の記憶はあるのだから、そこを深堀しなくたって、問題はないはずだ。
フィーネはその夕日のような瞳を重たい束になったまつ毛で少し陰らせてから、ぱっとカミルのことを見上げた。
「カミルの言う通りね」
『でしょ?じゃー早速!対策を考えちゃう?』
「……うーん、それはそれで早計だと思う」
急げ急げとどんどん話を進めるカミルに、フィーネはいたって冷静にそういった。
その瞳は傷つくことに尻込みしている弱気な瞳ではなく、いつもの冷静沈着なフィーネの瞳だった。
「まずは、前の私の記憶から、どの方向にやり直すのか大まかに考える必要があると思う」
『分かった!それで行こう!』
フィーネの言葉に同意して、深夜の時間帯だというのに、二人して作戦を立て始めた。彼女はまだまだ、前向きに自分の意志でやり直しを進めていくわけではない。
けれども、カミルに言われたからだとしても、まずは納得して、思考を放棄せず、考えることを選んでくれたことをカミルは喜ばしく思って、全力でサポートするぞと、新たに決意をした。
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