追憶の日々 〜エルザ・ロイス〜 前編
927年 北部・インネル
あと数十分で日が変わる、満月の夜。街中にある橋の下に広がる河川敷にて、エルザは膝を抱えて座っていた。
彼女の格好は、白のワンピースに茶色のサンダル。両手両足は色白くて、細長い。髪は水色で、毛先が白いショートボブ。くっきり二重の黄色い瞳といい、傍目から見れば美少女に見える。そんな彼女は虚な目をしている。
「このまま沈んで行っちゃおうかな」
目の前の仄暗い川を見つめながら呟く。口に出したものの、彼女にはそんな度胸はない。今はただ、そうしていたい気持ちだった。
ただじっと川を眺め続ける。すると、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「あっ!いた!おーい!」
真上から呼びかける声。エルザには聞き覚えがあり、眉間に皺を寄せる。
「…」
「ちょっとー!なんで無視するのよー!」
頭上から降り注ぐ非難の声。エルザが仕方なく橋を見上げると、そこには金髪の少女が立っていた。
「私が下りてくるまで、動かないでちょうだい!」
そう言うと彼女は、その場を離れて行った。
「…めんどくさ」
エルザは顰めっ面で大きなため息を吐いた。
一分も経たない内に、少女はエルザの元へやってきた。
少女の名前は、ハンナ・フロスト。真紅の赤いワンピースに黒のロングブーツ。ワンピースから浮き彫りになっている、すらりとした体型。光沢を放つ金色の長髪に、人形のような大きくて円な青い双眸。そして、右目の泣きぼくろが特徴的な少女である。
ハンナはエルザの側で立ち止まると、小さなため息を吐いてから話しかける。
「聞いたよ。隣の部屋の子と喧嘩したんだって?」
「それが何?」
エルザは川に視線を向けたまま、素っ気ない返事をする。ハンナは彼女の態度に困惑する。
「院長カンカンだよ。『これで何度目よ!』って」
「いちいち覚えてないわ。あいつがあんなこと言うから悪いのよ」
「何があったの?」
「あんたに関係ないでしょ」
エルザは立ち上がり、その場を去ろうとする。しかし、ハンナに手を掴まれ、引き止められる。一瞬の驚きの後、ハンナを睨みつける。
「離して」
「いつもそう。何も話さないで、すぐどっか行っちゃう」
「…っ!」
寂しげに細められた目と目が合い、エルザは困惑する。
「なんで私に構うの?」
「あなたがウチに来て、もう1ヶ月。その時からずっと、そんな暗い顔してる。それに同じ部屋なんだし、気になるよ」
「はっ、何それ」
エルザが鼻で笑い飛ばす。
「暗い顔、ね。別に好きでそんな顔してるわけじゃないんだけど」
「…」
「今に始まった話じゃない。私ね、父親に虐待されてたの。お母さんは元からいない。あいつはまともな食事も、愛情もくれなかった。その代わりが暴力と罵声。最悪でしょ?」
「…」
ハンナは何も挟まず、黙って聞き続ける。
「そんな奴が事故で死んだ。思わず笑っちゃったわ。あの惨めな生活がやっと終わったって。それから養護施設での生活になって、誰かと喧嘩する日々。…うけるわ」
語り終えた途端、エルザは声を上げて笑い出した。狂ったように笑い続ける彼女の姿を、ハンナは真剣な表情で見つめる。
ひとしきり笑ったエルザは、ハンナの反応を窺う。彼女は真剣な表情のまま、エルザをじっと見つめている。エルザは、その態度が気に入らず、目が険しくしくなっていく。
「何よ、その目」
「…」
「そんな目で見るんじゃねぇよ!!」
エルザは声を荒げ、掴まれた手を振り解いた。そして、ハンナを思いっきり突き飛ばした。
ハンナは地面に尻餅を突き、顔を顰める。恐る恐る見上げると、怒り顔のエルザと目が合う。
「エルザ…」
「そういえば、なんで喧嘩したのか教えてあげる。あいつがこう言ったからよ。『辛かったみたいだけど、それはみんな一緒。だから、前向いて生きよ?』って」
「…」
「お前に何が分かるんだよ。半端な気持ちで同情してくるんな。気持ち悪いんだよ!」
エルザが怒鳴り声が辺り一帯へと響き渡る。この場にいない者への怒りは、元から険悪だった空気をさらに悪化させた。しかし、そんな雰囲気の中でも、ハンナの表情は変わらない。
エルザの怒りがハンナへと向く。
「あんたもそうだよ!何が気になるからだ!偽善者ぶってんじゃねぇよ!!」
「…」
「何が気になるからだ!?こんな目に遭わされて、笑顔でいれるわけねぇだろうが!!」
「…ごめん」
ハンナは弱々しい声で呟き、顔を俯かせる。すると、エルザは彼女の前でしゃがみ込み、胸ぐらを掴んだ。
「謝るくらいなら、最初っから構ってくるんじゃねぇよ!!」
「…」
「分かるわけ、ないのよ…」
エルザの勢いが失速し始める。目頭が熱くなり、涙が出てきそうになるも、必死に堪える。
「他人の痛みと悔しさが分かるやつなんて、この世にいないんだよ。同情なんて、傷口を抉るだけなんだよ…」
「…うん。私には、あなたの痛みと悔しさが分からない」
ハンナが俯いたまま答える。エルザは歯を食い縛り、胸ぐらを掴む手に力を込めていく。
「だったら!これ以上私に…」
「でも、すごく悲しんでるのが痛いほど伝わってくるよ」
ハンナはそう答えると、ゆっくりと顔を上げる。悲しい顔で涙を流す彼女を見て、エルザは言葉を詰まらせる。
「…な、何よ。なんで、あんたが泣いて…」
エルザは困惑する。すると、ハンナが突然抱きしめた。
「っ!」
--何なの、この感覚…。
エルザは目を見開き、呆然とする。怒りが徐々に安らぎにかき消されていく。今まで経験したことのない不思議な感覚に、彼女は抵抗する気はない。
「…ごめんね」
「え?」
「私にはこれしかできないわ。だから、これで落ち着いてほしい…」
「なんであんたが謝るのよ。八つ当たりしてた私が悪いのに。なんで?なんでよぉ…」
エルザの唇が震え始める。そして、堪えていた涙が頬を伝う。
「う、うう…」
嗚咽を漏らしながら、ハンナの胸元に顔を埋める。すると、ハンナはエルザの頭を優しく撫で始め、優しく語りかける。
「誰にだって、弱い自分はいるものよ。そんな時は、こうやって誰かの胸を借りればいいの」
「っ!」
その言葉をきっかけに、エルザは声を上げて泣き始めた。ハンナは両目を閉じ、静かに涙を流しながら抱きしめ続けた。
ひとしきり泣いたエルザとハンナは、膝を抱えて隣り合って座っていた。
「いやー、こんなに泣いたの久しぶりだなぁ」
「…悪かったわね」
ハンナの呟きに、エルザはムスッとする。
「あはは、そんな意地悪な意味で言ったわけじゃないよ。嬉しかったの」
「は?」
「エルザが自分のこと話してくれてね」
「…何よ、それ」
エルザは顔を赤くし、そっぽを向く。ハンナは、そんな彼女の反応を可愛らしく思い、笑みを浮かべる。すると、彼女は星空を眺めながら語り始める
「私ね、幸せな家族だったんだ」
「え?」
「パパと2人で暮らしてたの。生まれた時からママがいなくて寂しかったけど、優しいパパがいたから幸せだった」
「私とは真逆ね。父親しかいないっては同じなのに」
「うん、そうだね。でね、パパはお店やってたんだけど、上手く行かなくなっちゃったの。立て直そうと寝る間も惜しんで頑張ってたんだけど、無理すぎて倒れちゃって、そのまま死んじゃった…」
「…意外だわ。あんたにそんな過去があったなんて。だけどさ、なんでそんな明るくいられるの?」
「ん?」
ハンナが目を瞬く。さも不思議そうに見つめる目と合わせながら、エルザは答えを待つ。それから数秒経った後、ハンナが答え始める。
「人生なんて、嫌なことばっかりでしょ?」
「そうね」
「嫌なことって大小あるでしょ?ちっちゃいやつだと、お気に入りの服が破れちゃったとか、財布無くしちゃったりとか。それはすぐに立ち直れるものばかりだから、そんなに厄介じゃない。厄介なのは、大きいやつ」
「…」
「親から虐待されたり、大切な人が急に死んじゃったりとか。立ち直るのが嫌っていうほどの絶望を与えてくる。そんなのが理不尽に襲ってくるのが、この世界。ほんと嫌よねー」
「そうね」
「だからね、私決めたの」
「何を?」
「来るなら、どんと来い!それでも私は明るくい続けるってね」
ハンナの顔に微笑みが浮かぶ。エルザは唖然とし、次の言葉を必死に探る。
「…どんだけポジティブ思考なのよ」
「だって、いつまでも暗い顔してたら、負けたみたいで悔しいもん」
「…ふふっ」
「ん?」
「あっははは!何よ、それ?前から思ってたけど、あんたって変わってるわ」
エルザが声を上げて笑う。ケラケラと笑う彼女の姿に、ハンナは驚きで目を見開く。
--何だ。ちゃんと笑えるんだ。
ハンナの表情が驚きから安堵の笑みへと変わる。笑いが静まったエルザに向かって、こう告げる。
「ふーん。笑ったらそんなにかわいいだ」
「は、はぁ?何言ってるのよ」
エルザは動揺し、そっぽを向く。彼女の反応が面白く感じたハンナは、意地悪な笑みを浮かべて続ける。
「ひょっとして照れてる?」
「そんなんじゃない!」
そっぽを向いたまま否定する。しかし、否定するエルザの頬は、嘘を示すように赤くなっていた。そんな彼女を可愛らしく感じながら、ハンナは優しい笑顔で見つめ続けた。
夜風が2人の身体に吹き付ける。そろそろ帰らなくてはと思い返したハンナは、エルザに呼びかける。
「帰ろっか」
「…うん」
「まずは喧嘩した子、それから院長に謝ろ」
「…うん」
エルザは顔を曇らせて返す。ハンナは彼女の肩に手を置き、こう告げる。
「だいじょーぶ!私も一緒に謝るってあげるから」
「なんで?あんたは関係ないでしょ」
「とか言ってー、本当は一人で謝りづらいくせにー」
「うっ…」
図星を突かれ、エルザは歯を食い縛る。ハンナが面白く感じていると、別の話を持ち出した。
「てかさー、エルザって何歳だっけ?」
「12だけど。それが何?」
「ふーん。私の方が1個上だね」
「そうなんだ」
「それに、私の方が長くいるわけだから…」
「何をぶつぶつと…」
「よし!これから私のことは、"ハンナ
「はあ?何なの、急に…、ん?」
エルザが困惑していると、ハンナが右手を差し出した。優しい笑みを浮かべる彼女の意図を察し、エルザは彼女の手を掴む。そして、立ち上がって目を合わせる。
「これからもよろしくね、エルザ」
「よろしく、ハンナ
エルザは口角を上げる。2人は微笑みながら、じっと見つめ合う。それから程なくして、彼女らは施設へと戻って行った。
その日以降、ハンナは積極的にエルザと関わるようになった。
エルザが自室で浮かない顔をしていると、ハンナは相談に乗った。
「みんなと仲良くなれないって?うーん、言っちゃ悪いけど、猛獣に近づこうとする人なんていないもん」
「はっきり言われると傷付くわね…」
「あはは、ごめんごめん。まあ、みんなを避けて、喧嘩ばっかりしてたんだから、しょうがないよ。最初の印象は簡単に拭えないから」
「どうしたらいいのよ」
「真逆のことをし続けて、塗り替えるしかないわね」
「真逆のこと?」
「そ。困ってる人がいたら助けてあげる。例えば、泣いてる子を見かけたら優しく声をかけてあげるとか。ここだと、泣いてる子がいないなんて日はないでしょ?」
「なるほどね」
「あとは、表情ね」
「表情?」
「うん。あなた、いつもムスッした顔してるから、みんな近寄りにくいのよ」
「マジ?」
「大マジ。あなただって、そんな人には話しかけづらいでしょ?」
「言われてみれば。でも、どうすれば」
「嬉しかったり、楽しければ顔に出すことよ。それと笑顔の練習をしなさい。あなたは笑うと可愛いんだから。ほら、試しに笑ってみて」
「…こ、こうかな?」
「…硬すぎるな、うん。まあ、練習していけば自然と形になるわよ」
「何よ、その反応」
エルザが不満げな表情で呟く。それに対し、ハンナは困り顔で笑い続けた。
エルザが病気で寝込んでいると、ハンナは付き添って看病した。
「体調はどう?」
「ゴホッ、ゴホッ。最低の気分よ。身体の節々が痛いし、頭がぼーっと出して怠いし」
「風邪と言えど、38度も熱があれば、しんどいよね」
「ゴホッ、ゴホッ。あー、しんど」
「しんどい時に、こんなこと言われるのは変かもしれないけど。ありがとね」
「は?」
「川遊びして溺れた男の子助けてくれて。エルザがすぐに飛び込んでくれたから助かったのよ」
「その代わり、私が風邪引く羽目になったんだけどね。ゴホッ、ゴホッ」
「本当にごめんなさい。そして、ありがとうございます」
「怒ってるわけじゃないよ。むしろ、良かったわ」
「…私、嬉しいわ。以前のあなたとは大違いよ」
「そうかな?…まあ、以前の私なら、見捨ててたでしょうね。ねえ、ハンナ
「ん?」
「私こそありがとう」
「え?」
「こうして側にいてくれて。すごくほっとするわ」
エルザはハンナに笑みを向けて呟く。それに対し、ハンナも笑みを向けて返した。
エルザが誕生日を迎えると、ハンナは施設の園児や職員らと共に祝福した。
「誕生日おめでとう。エルザ」
「ありがとう!ハンナ
「どう?私のプレゼント、気に入ってくれた?」
「うん!この赤いワンピース、とっても素敵だわ。何だか着るのがもったいないわ」
「服は着るものでしょうが」
「だって、使い古すのに抵抗あるんだもん。せっかくもらったものだし」
「ふふ。そんなに喜んでもらえると嬉しいわ」
「うん。…ねえ、ハンナ
「ん?」
「私、とっても幸せだわ」
「え?」
「こんな風に多くの人から祝われるなんてなかった。生まれてきて良かったって、心から思えるわ」
「変わった甲斐があったね、エルザ」
「うん。ハンナ
エルザは満面の笑みをハンナに向ける。その瞬間、ハンナは目頭が熱くなっていくのを感じる。やがて涙が溢れ出てくると、顔をくしゃくしゃにして泣き出した。
辺り一体が騒然とし始める。周囲の園児や職員たちが心配そうに見つめている中、エルザは優しい笑顔でハンナを慰め続けた。
こうしてハンナとこうして過ごしてきた日々は、エルザにとって幸せな記憶となった。「いつまでもこんな日々が続いてほしい」、エルザは常に願ってきた。しかし、そんな日々はずっと続くことはなかった…。
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