第26話「風格」
エルザは心臓が激しく打つのを感じながら、テーブルの足元に隠れていた。
客間に並ぶ4つの丸テーブル。数種類の料理やグラスが並んでいるが、手に取る者はいない。その光景は、催事の片付けに感じる寂しさをエルザに抱かせる。
エルザが隠れるテーブルのすぐ側には、廊下に通じるドアがある。足元にしゃがんで隠れている彼女は今、透明人間である。
能力の発動により、黄色い瞳は青色へと変化している。そして、額には黒い雪輪模様が浮かび上がっている。
エルザは両膝立ちをし、顔半分を覗かせる。彼女の視線の先は、部屋の奥に置かれた四角いテーブル。そこには3人の男女がおり、一人一人注意深く見ていく。
薄ら笑いを浮かべながら座る男は、ヴェルナー・ヴァーグナー。不安な表情で彼の隣に座る女は、"10番"という名の奴隷。そして、テーブルの前に立つ長身の男は、フェルナンド・ムルシア。
エルザは"10番"の首に注目する。長い金髪が特徴的な彼女の首には、鈍色に光る首輪が嵌められている。それを見た途端、エルザは怒りに駆られる。
--逃げられないための爆弾ね。とんだ悪趣味だわ。
嫌悪感を露わにしながら、ヴェルナーへ視線を移す。彼は10番の髪を弄り《いじく》ながら、ワインを悠長に飲んでいる。
--ヴェルナー。あんただけは絶対に殺す。
怨嗟を込めた目で睨み続ける。今すぐにでも殺したいという激情に駆られるも、その場に留まるように努める。
--落ち着くの。まずは、あの護衛をなんとかしないと…。
エルザの視線がフェルナンドへと移る。仏頂面の彼は、右手に
--あいつが"ゴドナ"の大将、フェルナンド。遠くにいるだけでも、鳥肌が立つのね。
エルザの額に冷や汗が浮かび上がる。フェルナンドを纏う雰囲気は、近づくだけで身体が引き裂かれそうなほどに殺伐としているのだ。
帝国の最高戦力と謳われる"ゴドナ"の一人で、数人いる大将でもある男。そんな男を前にして、エルザは不安に駆られる。そういった類の敵と戦ったことがなかったからだ。
それだけでなく、他に2つの理由があった。1つは、フェルナンドが凄腕の槍使いだということ。もう1つは、どんな異能を扱うのかが分からないということだ。
不安要素の多さに、恐れを抱き始める。しかし、恐れに呑み込まれないように、気を取り直していく。
「大丈夫。私ならできる…」
自分に言い聞かせ、深呼吸をする。その時、脳裏に一人の女性が浮かび上がってきた。
「ハンナ
その人物の名を呟き、目をゆっくりと閉じる。そして、胸に手を置き、優しく微笑む。
「ハンナ姉、見ててね。私が絶対に仇を取るから」
そう決心を露わにすると、ヒップホルスターから拳銃を取り出す。そして、銃口をヴェルナーたちの方へ向ける。
--射撃に自信はないけど、やるしかない。
心の中で鼓舞するも、心音が聞こえるほど緊張していた。そんな状態の中でも、引き金に人差し指をかけ、精神を研ぎ澄ませていく。
護衛対象であるヴェルナーを背後に、フェルナンドは神経を尖らさせている。
宴会の最中に発生した煙騒動。その混乱に乗じて、敵は近くまで来ているに違いないと、フェルナンドは見ていた。
しんとした静けさの中、ヴェルナーがクスリと笑う。フェルナンドが振り返らずに尋ねる。
「どうされましたか?」
「いやぁ、君が頼もしく見えてね」
「…ヴェルナー様。テーブルの下に隠れるようにと、お伝えしたはずです」
「君の勇姿を見たいんだよ。そうだろ?10番」
「ええ…」
10番は、ぎこちなく頷く。唇を震わせ、怖がっている彼女を見るなり、ヴェルナーが耳元で囁く。
「口を酸っぱくして言ってるけど、私から逃げようなんて思わないことだ。君の頭が木っ端微塵になる姿はなんて、見たくないんだ」
「は、はい…」
10番が声を震わせながら小さく返すと、ヴェルナーは彼女の頭を撫でた。
--全く、困ったお方だ。
フェルナンドは表情を崩すことなく、心の中で愚痴をこぼす。危機感のない、自由奔放な主人に呆れる…、その時だった。
「っ!」
--この凍刺すような空気。殺気か。
フェルナンドの目つきが険しくなる。
「どうしたんだい?フェルナンド君」
ヴェルナーが不思議そうに見つめる。フェルナンドは質問に答えることなく、周囲への警戒に集中する。
--遠くから感じる。だとすれば…。
「ヴェルナー様。テーブルの下に隠れてください」
「うーん、それは困るなぁ。君の勇姿が見られな…」
ヴェルナーは言葉を止めるなり、目を見開く。フェルナンドから放たれる雰囲気に
「これがゴドナ大将の闘気かぁ。久しぶりにゾワっとしたよ」
「急いでください」
「うん、分かった。ほら、10番」
ヴェルナーは腰を上げると共に、10番に促す。10番は緩慢な動きで立ち上がると、ヴェルナーと共にテーブルの下へ隠れた。
主人の安全を確保し、フェルナンドは精神を研ぎ澄ませる。
--些細な物音を聞き逃すな。
そう言い聞かせながら、警戒の目を左右へ動かし続ける。
フェルナンドたちに向けられる殺気。その主であるエルザは、テーブルの側に拳銃を構えて立っている。
--なんて悪運の強い奴。銃を構えた途端に、テーブルの下に隠れるなんて。
ヴェルナーへの苛立ちに、思わず舌打ちしそうになる。舌打ちをぐっと堪え、苛立ちを振り払う。
--まさか、フェルナンドが感づいた?ほんと、ついてないなぁ。
困り顔のまま、寂しげな笑みを浮かべる。
--まずは、あいつを無力しないと。
気を取り直し、銃口をフェルナンドに向ける。
フェルナンドは、自分に気づいていないはず。エルザは、そう信じながら引き金にかけた指に力を込めていく。
--喰らえ!
「っ!」
--殺気が一気に濃くなったな。
フェルナンドがそう感じた瞬間、室内に銃声が響き渡った。
轟音の後、しんとした静かさに包まれる。銃撃したエルザは、驚きに目を見張る。
「嘘でしょ…」
エルザは信じられない気持ちで呟く。彼女が引き金を引く寸前、フェルナンドが急にしゃがんで避けたからだ。
フェルナンドの背後から口笛が鳴る。
「さすがは僕の護衛」
そう呟いたのは、ヴェルナー。テーブルクロスを捲り、下から除き見ていた彼は、フェルナンドの常人離れした反応に感服する。
フェルナンドが平然とした表情で立ち上がる。狙撃されたにも関わらず、動揺する素振りは見られない。
--4つのテーブルのどれかにいるな。
フェルナンドの鋭い視線が左から右へと流れていく。エルザのいるテーブルへ視線が向いた時、彼女は背筋が凍る感覚に襲われる。
--もう気づかれたの?さっきの反応といい、とても人間とは思えないわ…。
エルザに動揺が走る。怪物を相手にしていると思い知らされ、手が小さく震え始める。しかし、彼女は負の感情に支配されないように、自身を鼓舞する。
--弱気になっちゃダメ!みんな頑張ってるんだから、私も力にならないと!
落ち着きを取り戻したエルザは、再び狙撃を試みようとする。
フェルナンドは冷静に状況を見ていた。
--次の狙撃を阻止しなければ、まずい。仕留めに向かいたいところだが、ヴェルナー様から離れるのは危険だ。その間に向かわれたら命の保証はない。
状況の悪さを認識し、打開策を考え始める。
--…あれを使うか。使ったのは随分前だが、仕方ない。
決心したフェルナンドは、精神を研ぎ澄ませていく。すると、身体の内側から力が溢れていくのを感じる。それと共に、彼の青色の両眼は、鮮血のように真っ赤な瞳へと変色した。
フェルナンドの変化を見たエルザは、目を見開く。
--目が赤くなった。てことは、心臓がコアね。問題は、どんな能力を使ってくるかってことね。
エルザは固唾を飲んで見守る。すると、フェルナンドが握り拳の左手を胸の前に突き出した。
--あれは、一体…。
「"拒絶する我が
エルザが訝しむ中、フェルナンドが呟く。彼が左手を開いた途端、目に見えない圧が前方へ放たれた。
「っ!!きゃあああ!!」
エルザが突然、悲鳴を上げる。彼女は辺りにあるテーブルらと共に、後方に吹き飛ばされたからだった。
皿やコップ、テーブルらが壁にぶつかって破壊されていく。食器の割れる音やテーブルが軋みを上げながら砕けていく音が連続する中、エルザは壁に背中から叩き付けられた。
「かはっ!」
エルザは目を見開き、呻き声を発する。打ち付けられた背中から生じる痛みと痺れが、全身へ伝わってくる。
「うう…」
--今のは、一体…。
少しぼやけた視界の中、その場に凭れかかる。
床に散らばるフォークやスプーンといった食器。さらに、壁際にはガラス片とテーブルの残骸が散らばっている。荒れた光景を作ったフェルナンドは、疑問を抱く。
--女の悲鳴と衝突音。確かに聞いたが、どこにも姿が見当たらない。
フェルナンドは訝しながら、辺りを見渡していく。人が隠れられる物は無くなり、開けた空間となった客間だが、誰の姿も見られない。
--敵の姿が見えない。…まさか、自身の存在を見えなくする能力…?
非現実的な考えだと一瞬思うも、フェルナンドは納得がいった。
--俺と同じ"
フェルナンドは開いたままの左手を再び握る。そして、見えざる敵に殺気を放ちながら呟く。
「どちらが強いか、試そうではないか」
身体を蝕む痛みと痺れが徐々に和らいでいく。ぼやけてた視界も回復し始めた頃、エルザは自分の身に起きたことを思い出す。
--手を開いた瞬間、私は吹き飛ばされた。周りの物を吹き飛ばすのが、あいつの異能ね。
エルザは顔を顰めながら、ゆっくりと立ち上がる。痛みと痺れがまだ残っているものの、いつまでもそうしているわけにはいかなかった。フェルナンドが握った左手を胸の前に突き出していたからだ。
--また、あれが襲ってくる。その前に阻止しないと。
エルザは足元に転がっている拳銃を拾う。再び狙撃しようするも、迷いが生じる。
--ここで撃ったら、私の位置がバレるかもしれない。不意打ちの銃弾を避けるほどだし。
敵の強さを目の当たりにし、唸り声を上げる。
--奴の武器は槍で、私のはダガーナイフ。接近戦になれば、ほぼ無理ゲー。だけど、一撃でも当てられれば、勝機はある!
エルザは右太腿のレッグホルダーからダガーナイフを手に取る。その刃には、掠めるだけで動きを鈍らせる毒が塗られている。
ダガーナイフを前に構え、腰を低くする。勘付かれないように気配を消しながら、フェルナンドへと忍び寄って行く。
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