第18話「存在」
団員全員との夕食から一夜明けた翌日。空が晴れ渡る日中、レオナルトはクラウスと共に山道を走っていた。
レオナルトは苦戦を強いられ、苦しさのあまり顔が歪む。アルバのアジトがある山道は、走るには厳しい状態であるからだ。
道は街のように舗装されていない。小石だらけの凸凹な道のため、走りづらくてしょうがない。
それだけではない。平地より高い位置にある山中で空気が薄いことに加え、勾配があったと体力が余計に消耗される。
そんな状況下のため、レオナルトの身体は汗だくになり、かなり息が上がっている。しかし、彼はそれでも足を止めず走り続ける。
クラウスはレオナルトよりずっと先を走っている。それにも関わらず、息はそこまで上がっておらず、表情に苦しみが色濃く浮かんでいない。レオナルトに比べると、まだ余裕あるようにさえ見える。
レオナルトは遠くにいるクラウスを見て、崩れた表情を引き締める。
--まだクラウスみたいに余裕を持って速く走れない。今は最後までやり切って、徐々に差を埋めていくしかない。
「よしっ」
そう気合いを入れ直し、前へ進んでいく。
走り続けていると、前方に森の出口が見えてきた。そこを抜ければ、アルフォンスが待つ平地に出る。
ゴールまであと少し。それが分かると、気力が湧いてくる。レオナルトは最後の力を振り絞って、ゴールを目指して行く。
クラウスは、ひと足先に森を抜けた。抜けた先の平地に、アルフォンスが腕組みをして立っている。アルフォンスは固い表情のまま、目の前まで来たクラウスを労う。
「お疲れさん。前より早なったな」
「何回もやれば、そうなるだろ」
「辛抱強いわれやから、こうなってん。素直に喜ばんかい」
「ふん。うっせぇよ」
クラウスはそう呟くと、そっぽを向いた。眉を顰め、口をへの字にしている彼の顔は、少し赤くなっている。
その態度と表情は、クラウスの照れ隠しである。それを何度も見てきたアルフォンスは口角を上げ、心の中で呟く。
--相変わらず、かわいいな。
クラウスへの愛らしさを感じながら、しばらくじっと見つめていた。
クラウスはその場であぐらをかき、休息を取り始める。一方のアルフォンスは森を見つめたまま、レオナルトの到着を待っている。
それから5分近く経つと、森からレオナルトが出てきた。森を抜けたものの、足を止めることなく、アルフォンスまで走って来る。
やがて、アルフォンスの前までたどり着くと、足を止めた。そして、両膝に手を突いて、俯きながら大きな呼吸を繰り返す。
空気を貪る彼を見下ろしながら、アルフォンスは呟く。
「クラウスとの距離が縮まってきたな。始めてからまだ1週間も経っとらんのに、たいしたもんや」
「ありがとうございます…」
レオナルトは息を荒げながら応じる。
1時間以上走っていたせいで、息苦しさと全身の疲労感に襲われる。そんな状態の中、レオナルトは喜びを噛み締めていた。あの厳格なアルフォンスから褒められたからだ。
レオナルトは嬉しさのあまり、口元が少し緩む。そんな彼に向かって、アルフォンスは鋭い眼光を向けて呟く。
「そやからといって気ぃ抜くんは許さんからな」
「う…」
レオナルトは恐る恐る顔を上げる。目が合った瞬間、アルフォンスの圧によって嬉しさが少し消え失せてしまった。
--相変わらず厳しいし、怖いなぁ。
「よし。しばらく休憩や」
アルフォンスはそう言うと、その場であぐらをかいて座った。
レオナルトはその場に尻もちをつく。そして、仰向けになって空を見上げる。
徐々にリラックス状態になっていく中、レオナルトは自分を褒め称える。最後までよく走り抜いたと。
そのまま身体を休めていく。その時だった。
「相変わらず厳しいですね。アルフォンスさん」
その一声に、レオナルトは上半身をゆっくりと起こす。
レオナルトたち3人は、声のした方向に目を向ける。声の主は、アルフォンスの背後からやってきたボリスであった。そして、クラウスとレオナルトを見るなり、優しい笑顔を向ける。
「二人ともお疲れさん」
「ボリス。なんでここに?」
「冷たいこと言うなよ、クラウス。団員たちの頑張ってる姿を見に来ただけだよ」
「ふっ、そうかよ」
「相変わらず可愛げのないやつだな。ま、お前らしくていいけどな。それに男前だし」
「…うるせぇよ」
クラウスはそう呟き、そっぽを向いた。眉を顰め、口をへの字にしている彼の顔が少し赤くなっている。
--そうか。俺はそんな風に見えるんだな。
クラウスは表情を変えることなく、心中で喜びを噛み締める。
ボリスはレオナルトに目を向ける。そして、側まで近づくと、その場にあぐらをかいて座った。
「レオナルト。ちょっといいか?」
「はい。何でしょうか」
「実は、君に礼を言いたくてね。本当は昨日言うべきだったんだけど」
「礼?」
レオナルトには何のことか分からず、首を傾げる。
「礼って、何のことですか」
「初任務のことだよ。お嬢が一緒だったろ?」
「ええ、ナタリーさんと一緒でしたが?」
「お嬢が撃たれそうになった時、庇ってくれたんだろ?」
「ああ。あの時ですね。そういえば、そんなことありましたね」
レオナルトの脳裏に、初任務での一場面が浮かび上がる。
標的のコスムが少女に性的暴行を加えている光景。それを目の当たりにし、激昂したナタリーは拳銃でコスムに苦しみと恐怖を与えた。
冷静さを失ったナタリー。そんな彼女に向けられる拳銃があった。それに気づいたレオナルトは、彼女の盾となって脇腹を撃たれたのであった。
一連の出来事を思い出し、レオナルトは苦笑する。
「あの時は焦りました。でも、気づけたから良かったですよ」
「ほんっとうにありがとうな!」
「えっ?」
ボリスはレオナルトの手を取って、感謝を告げる。レオナルトは突然の言動に困惑し、眉を八の字にする。
「どうしたんですか、急に」
「君は傷を負ってでも、お嬢を守ってくれた。命の恩人に礼を言わないなんて、執事失格だ。本当にありがとうな」
ボリスは優しく微笑みながら、もう一度感謝を告げる。
ボリスの深謝を受け、レオナルトは心が温まるのを感じる。人から感謝されることがこんなにも嬉しいなんて、思いもしなかった。
それだけでなく、自分が誇らしくも思えてきた。ナタリーのために取った行動が、彼女の執事であるボリスのためにもなっていたことに。
レオナルトの表情から戸惑いが消える。嬉しさと誇らしさを胸に、微笑みを浮かべながらボリスに告げる。
「とんでもないです。彼女は僕の大切な仲間ですから」
「レオナルト。お前、最っ高にかっこいいぜ!」
ボリスは嬉しさのあまり、レオナルトの肩を強く叩く。叩かれた痛みに顔を一瞬顰めるも、レオナルトは笑顔を浮かべる。
「さすがに強すぎですよ」
「悪い、悪い。つい嬉しくてよ」
ボリスはそう言うと、笑い始めた。彼の笑いに、レオナルトも笑い始めた。
仲睦ましげに笑い合うレオナルトとボリス。和やかな雰囲気をの2人を、クラウスとアルフォンスは優しい笑みを浮かべて見守っていた。
2人の笑い声が収まり、辺りが風と草が靡く音に包まれる。すると、ボリスはゆっくり立ち上がって呟く。
「さてと。そろそろ戻らないとな」
「屋敷に戻るんですか」
レオナルトが尋ねる。
「ああ。お嬢が庭の手入れするから、手伝いに行かないと」
「そうなんですか。どうか、お気をつけて」
「ああ。ところで、レオナルト」
「はい?」
「お嬢と仲良くしてくれるか?」
突然の問いに、レオナルトは口を噤む。
「お嬢は強気で素直じゃないけどさ、根は優しいんだ。だから、仲良くしてくれると嬉しい」
「もちろんですよ。口は悪いし、顔は怖いです。ですが、本当は優しい人だってのは、任務で分かりましたから」
「ははは。お嬢聞いたら、間違いなく怒るぜ」
「うう…。彼女には言わないでください」
「分かってるよ」
苦笑いを浮かべるレオナルトに、ボリスはウインクをして返す。
「あとさ、俺のことは"ボリス"でいいよ。これからは、タメ口で話そうぜ」
「そんな、先輩にそんな無礼は…」
「俺がそうしたいんだ。ダメか?」
「っ…。分かりました。いや、分かった。改めてよろしく、ボリス」
「おお!いいねー。一気に距離が縮まった気がするぜ」
ボリスは表情を明るくし、右手で親指を立てる。その反応を見たレオナルトは、歯を見せて笑う。
ボリスはアルフォンスに目を向け、話しかける。
「アルフォンスさん」
「なんや」
「厳しすぎない方がいいですよ。ただでさえ顔が怖いんですから、余計に逃げられますよ」
「ふん。やかましいわ。早う戻れや」
「はーい。クラウス、レオ。修行頑張ってな」
ボリスは2人に手を振ると、その場を去って行った。アルフォンスは振り返ることなく、ふっと小さく微笑んでいた。
遠ざって行くボリスを見つめるレオナルト。その一方で、クラウスは言いたげな表情で彼を見つめていた。
--あいつ、初めて会った時からずっと俺にタメ口だよな。一応先輩なんだけど。
複雑な感情を抱いたまま、レオナルトを見つめる。しかし、彼は全く気づく様子もなく、ボリスを見届けていた。
その日の夜。場所は変わって、帝都—グルト。
アドラ帝国軍の最高戦力集団—ゴドナの一人であるフェルナンド・ムルシアは、とある屋敷の客間で紅茶を飲んでいた。
彼の髪型は、左右が耳までの長さで、後ろはうなじまでの長さ。前髪は左後ろにかきあげ、オールバック風に整えられた黒髪である。
切れ長の青い目に仏頂面といった、見る者を萎縮させるような顔つきである。
彼の黒い軍服姿には、様々な特徴がある。膝丈まであるロングコートの両肩には黄色を基調とし、上下左右と赤く縁取られた腕章。そして、左胸には羽を広げた黄色い鳥の徽章がある。
黒い軍服姿に黒の軍靴。黒一色の格好で目立つ腕章と徽章といったものらは、ゴドナの中で7人いる大将の証である。
フェルナンドは対面に座る男に目を向ける。その男の名前は、ヴェルナー・ヴァーグナー。アドラ帝国に複数いる大臣の1人である。
白髪のないオールバックの黒髪に、つぶらな青い瞳。年齢は39歳であるが、顔の皺がほとんどなく、精悍な顔つきであることから、実年齢よりも若く見られることが多い。
皺のない白シャツに綺麗に締まった赤いネクタイ。のりの効いた黒いスーツを身に纏うヴェルナーは、口角を吊り上げて話始める。
「いやぁ、心強いもんだ。この家に国の最高戦力が護衛として来てくれるなんてね」
「光栄です」
「しかも、私と付き合いのある君と来た。運命の赤い糸だね」
「単なる偶然です」
「ははは。相変わらず無愛想だな」
仏頂面のフェルナンドに、ヴェルナーは笑って返す。
「1ヶ月もしないうちに、もう40歳になるのか」
「おめでとうございます」
「これはどうも。しかし、困ったもんだよねぇ。平穏に初老を迎えようというのに、命を狙われてるかもしれないなんてねぇ」
「そうですね」
「私がいなくなったら、この子の世話は一体誰がしてくれるんだろうね。そうだろ?10番」
ヴェルナーは左を向く。そこには、赤いドレスを身にまとい、背中まで伸びた艶のある金髪が特徴の女性が俯いて立っている。
フェルナンドはその女性に注目する。彼女の首には灰色の首輪が嵌められ、表情から怯えているのが窺える。
「彼女は一体」
「最近買ったんだよ。私が手がける奴隷売買の一環で、彼女に会って一目惚れしちゃったんだ。田舎出身の小娘だけど、かわいいでしょ?」
「前の女性はどうされたんですか?」
「ああ、9番ね。処分したよ」
ヴェルナーは爽やかな笑顔で、明るく答えた。
「言われたこと全然出来ないし、物覚えも悪い。まして夜の営みも一向に上手くならなかったから、愛想尽きたんだ。四肢を切断して、庭の池に放り込んだんだ。面白かったよ。手足がないのに、陸地まで必死にジタバタしてる光景がね」
そう語るヴェルナーの笑みは、醜悪なものだった。
話を聞いているフェルナンドの気分が害される。しかし、顔に出すことなく、無表情を貫く。
気分を落ち着かせるために、紅茶を飲む。その一口で空になったことに気づいたヴェルナーは、女性に目配せする。
「お客様のカップが空になったよ。注いであげて」
「は、はい…」
女性はぎこちない返事をする。彼女の表情は固く、身体が小さく震えている。額に冷や汗を浮かばせながら、テーブルに近づく。そして、中央にある白い陶器のポットを持つ。
フェルナンドのカップに、ポットの注ぎ口を近づける。女性は手を震わせながら、紅茶を注いでいく。半分まで注いだところで、離そうとする。しかし、注ぎ口から数滴溢れ出てしまい、テーブルクロスにいくつかの丸いシミが浮かび上がる。
女性の顔が引き攣る。ポットを元の場所に戻し、ヴェルナーに深々と頭を下げる。
「申し訳ございません!どうか、お許しを!」
「10番」
ヴェルナーは優しげな笑みを浮かべる。
「最初に謝るべきは、フェルナンド君だよね?」
ヴェルナーは女性を一瞥する。
その目は冷たく、女性は心臓が握りつぶされる感覚に襲われ、息が荒くなっていく。
ヴェルナーはフェルナンドに向き直る。
「大丈夫かい?フェルナンド君」
「問題ありません」
「それは良かった。だけど、教育が必要だね」
そう言った途端、彼から殺気に似た恐ろしいオーラが放たれていく。
「あ、ああ…」
女性は恐怖に顔を歪めながら、身体の震えを大きくする。
見るに耐えぬ光景。そう感じたフェルナンドは、ヴェルナーに告げる。
「その辺にしてあげてください」
「ん?」
「これ以上、咎めないで下さい。私は平気ですから」
「…そう。分かったよ」
ヴェルナーの身体から、恐ろしいオーラが消える。そして、女性に優しく語りかける。
「良かったね、10番。もう下がっていいよ」
「…はい。フェルナンド様。大変申し訳ございませんでした」
女性はぎこちない動きで、フェルナンドに深々と頭を下げる。
彼はゆっくり頷いて見せる。女性は少し安堵した顔を浮かべると、もう一度頭を下げた。そして、緩慢な動きで2人から離れていった。
女性が部屋を出ていったのを見てから、ヴェルナーは小さなため息を吐く。
「君は優しいね」
「そんなことありません」
「謙遜するなよ。話が逸れちゃったね。とにかく、護衛よろしく頼むよ。フェルナンド君」
「お任せ下さい。如何なる者であろうと、この私が排除いたします」
フェルナンドは真っ直ぐな目で告げる。そして、内に秘めた部下の敵討ちという思いを燃やす。
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