第8話 優しくて意地悪2
「なにか食べたいものある?」
理一郎さんにディナーの希望を聞かれる。デートって言ったらきっとオシャレなレストラン。彼とのいつもの食事だってだいたいそういうお店。
だけど、本当はそういうお店はもう行き飽きてる。
「……たまにはラーメン、とか」
私の言葉に理一郎さんは「あはは」と笑う。
「まさかラーメン屋じゃないよね?」
「いえ、まさかそんな。中華とかもいいなって」
ええ、御曹司からしたら〝まさか〟なのよね。御令嬢にとってもまさかですもの。お嬢様らしい笑顔で返す。
一年前に再会してひと月くらい経った頃、筒井くんがラーメン屋さんに連れて行ってくれた。
***
『こんな近所に有名店があるのに来たことないなんて』
『なによその言い方〜』
人生で初めて座ったラーメン屋さんのカウンター席で筒井くんに哀れまれた。目の前の小引き出しにヘアゴムなんかも用意されてておもしろい。
『まあ、女性一人でラーメン屋ってハードルが高いとは言うけどね』
『そうなの? 私、ラーメン屋さん自体が初めてだからよくわからない』
『マジか……小夜ちゃんて本当に箱入りのお嬢様なんだ』
嫌味なのか感心なのかよくわからないけど、フツーの女子をしてたつもりがそうでもなかったんだなって思い知らされた。
小学校からエスカレーター式のお嬢様校だったから、学校帰りにどこかに立ち寄るなんて経験もない。
『そうよ。お嬢様はラーメン屋さんに行ったらいけないの』
『それをラーメン屋のカウンターで言わないで欲しいけど』
筒井くんは苦笑いしてた。
『〝いけない〟なんてことないよ。小夜ちゃんは自分で自分をお嬢様の箱に閉じ込めてる』
『だって』
生まれたときからそういう人生って決まってるのよ。
『小夜ちゃんが勝手に〝ダメ〟って決めつけてやってこなかったこと、俺がいろいろ教えてあげるよ』
それから筒井くんは本当にいろいろ教えてくれた。
宅配ピザだって自分で注文したのは初めてだったし、回転寿司だって食べたことがなかった。公園で缶のお酒を飲むとか、コンビニで買った肉まんを食べながら歩くとか、いろいろ。
***
思い返したら食べ物のことばっかり。思わずクスッと笑ってしまった。
「小夜子?」
「あ、ごめんなさい」
またやっちゃった。理一郎さんとのデート中だし、私はもう彼の彼女なのに。
理一郎さんと結婚しても斑目さんと結婚しても、どちらにしろ、もう一生ラーメン屋さんなんて行けないのかもしれない。
高級中華料理店の優しい味の麺を静かに啜りながら思う。
筒井くんに、もっといろんなこと教えてもらえば良かったな。
筒井くんとも、こんな風にデートなんかもしてみれば良かったな。
それから夜景を見て、理一郎さんに自宅まで送ってもらう。
今までは毎回家の前でお別れしてたけど、お付き合いが始まってもうすぐ1か月、筒井くんに言ったみたいに今日はお茶くらい出すべきなんだと思う。もちろん結婚前提なんだから、キス以上の進展があったって問題はない。
なのに、車がマンションに近づいて、車から降りて、理一郎さんにお礼を言ってもまだ迷ってる。
「小夜子? なんか今日、ボーっとしてない?」
彼に話しかけられてハッとする。
「ごめんなさい」
そう言った私を、彼は抱き寄せた。
「今日、もう少し一緒にいたいんだけど」
何もかも完璧で、好きになれば両親だって説得できるかもしれない彼がこう言ってくれてる。
なのに首を縦に振れない。
「あの、今日は……」
「なんで? もうひと月経つよ。家に上げてくれたっていいだろ?」
「それはそうなんですけど」
「俺たち結婚前提だろ?」
「でも」
あの部屋にはまだ筒井くんの痕跡が残っている気がする。
見られたくないんじゃない、消えてほしくない。
「なんでだよ、いいだろ?」
理一郎さんの声に苛立ちが混ざる。肩を抱く手の力も強くなって、怖い。
「やめてください」
「小夜子」
「や……」
その瞬間、後ろから別の手に両肩を引っ張られた。
「嫌がってんじゃん。やめろよ」
頭の上から聞き慣れた声。
「いい大人が、こんなマンションの前で揉めるなよ」
「なんだよお前」
「筒井くん……」
「小夜子の知り合い? ……ああ、もしかしてあのキスマークの相手?」
虫刺されなんかじゃないことが理一郎さんにはしっかりバレていた。
「参るよな、世間知らずのお嬢様かと思ったらまさか傷モノだったなんて」
「キズモノ……」
私って傷モノなんだ。なんだか冷静に「そうなんだ」と思ってしまった。
だけど筒井くんはすごく怒っていて、理一郎さんの胸ぐらを掴んだ。
「彼女に謝れよ」
「筒井くん、やめて」
「終わってるのかと思ったらまだつながってたんだな。こんな若い男だったなんて、余計に品が無いな。」
理一郎さんの襟元にある筒井くんの手にグッと力が入る。
「やめて、筒井くん。私はいいから」
「でも」
「だって本当のことじゃない。音石さんと付き合うって言っておきながらずっと筒井くんとつながってた。それも私の意思で。私が最低で品が無いのは本当のことよ。音石さんは悪くない」
私がそう言うと、筒井くんは溜息をついて手を離してくれた。
「小夜ちゃんがそう言うならいいけど」
理一郎さんは不機嫌そうな顔で襟元を整えて帰ろうとしている。彼に対してはなんだかいろんな感情がぐるぐるしている。
「小夜ちゃんは部屋に入ってて。俺、この人に話があるから」
「え?」
私と理一郎さんは同じ顔をしていたかもしれない。
「話って何? 暴力はだめよ? 私は別に怒ってないし……」
筒井くんは笑顔で「わかってるわかってる」って言って、私をエントランスに押しやるように退散させた。
マンションの中に入っても心配になって、ついつい耳をそば立ててしまう。
理一郎さんの声で微かに「すみませんでした」と聞こえた気がする。やっぱり暴力を振るったんじゃないかと落ち着かない。
エントランスであわあわしてたら筒井くんが入ってきた。
「小夜ちゃんまだいたんだ、よかった。よく考えたら鍵持ってないから一緒じゃないと入れなかった」
彼は平然としている。
「な、殴ったの……?」
「そんなわけないじゃん」
筒井くんは私の不安を笑い飛ばした。
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