第124話 『れんくんと、さっちゃん⑨』
『…………』
『…………』
古びた蔵の入り口を照らす照明からジジジと音がしている。
その音に意識を逸らすことでしか、この気まずさを耐えられなかった。
『れ、れんくん……』
早霧が俺の服の裾を指でつまんで、引っ張る。
いつもなら顔を見て返事をするのに、今は顔を見るのがとても恥ずかしくて。
『ね、猫!』
『えっ?』
『た、助けてもらって良かったよね!』
『あ、う、うん……』
そうやって、誤魔化すしかなかった。
元々は傷ついた猫をどうにかするためにこの林に来たんだ。それだけを見れば目的はとっくに達成されている。
『……れんくんも、ちゅー……したい?』
『っ!?』
しかし既に、俺たちの意識は別のものに乗っ取られていた。
――大人同士の、本気のキス。
それを目の前で見せられて、意識するなという方が無理だった。
『すぁっ! さ、さっちゃん……は?』
緊張しすぎて早霧の名前を呼ぶだけで声が裏返ってしまう。
そこでようやく、勢いに任せてなんとか早霧の顔を見ることができた。
『わ、私は……し、して、みたい……えっと、その……れ、れんくん……と』
白い髪を指で弄り、淡い色の瞳は潤んでいるように見える。
色白の肌、頬は朱色に染まってて。
とても綺麗で……可愛いかった。
単純な言葉でも、高校生になった今でも、どんな美辞麗句を並べても。
その時の感情をそのまま伝えられる言葉は、それしか見つからない。
『ぼ、僕は……さ、さっちゃんが……し、したいなら……』
良く言えば、早霧ファースト。
悪く言えば、とんだヘタレである。
夏祭りで気づいた早霧の魅力、林道でのハラハラ、大人のキスを見てのドキドキ。
感情のキャパシティはとっくにオーバーしていた。
『じゃ、じゃあ……する?』
そこに追い打ちの上目遣い。
心臓は祭囃子に負けないぐらいの爆音をかき鳴らしていた。
『あ、え……う、うん』
しどろもどろに頷いて。
それを聞いた早霧が、髪を弄っていた指を胸の位置に下ろす。
そのまま自分の胸に手を置いて、目を閉じた。
『い、良いよ……れんくん』
こういう時、どうしたらいいんだろうと焦った。
さっきのお兄さんみたいに抱きしめれば良いのか、だけど早霧の手は自分の胸の前にあるから抱き合うことは出来ない。そもそも抱き合う時点でとんでもなくハードルが高かった。
もう手を繋いでいるとか、腕を組んでいるとか、さっき普通に抱き合っていたとか……それはそれである。
こういう良い雰囲気になってから抱きしめ合って、初めてのキスをするというのは全くもって別の問題として子供の俺に襲い掛かっていたんだ。
『さ、さっちゃん……!』
それでも。
勇気を出して俺は震える手を早霧の両肩に置いた。
早霧が目を閉じていて本当に良かったと思う。もしかしたら俺の手から震えが伝わっていたかもしれない。
けれど頭の中はキスでいっぱいだった。
――ポツ、ポツ。
『えっ?』
『あれ?』
そんな熱にうなされ始めた俺たちに、水が落ちてきた……そんな気がして。
――ポツ、ポツポツポツ……ザアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!
『わあっ!?』
『あ、雨っ!?』
それは一気に、バケツをひっくり返したような大雨へと変化した。
突然の大雨に俺たちはキスどころじゃなくなって。
『と、扉! とりあえず、開けて中に入ろう!』
『だ、駄目だよれんくん! か、鍵がかかってる!』
大慌てで蔵の中に入ろうとしたけど、鍵がかかっていた。
その間も土砂降りの大雨は俺たちの身体を一気に濡らしていく。
『そ、そうだ! さっちゃん、傘持って来てなかった!?』
『あ、う、うん……! って、あ……あれ!?』
傘に手を伸ばそうとして、その手は空を切った。
途端に早霧の顔がもっと強い焦りに変わっていく。
『な、無い……』
『えぇっ! だ、だって……』
来るとき、持ってたよね?
そう言おうとして、その言葉をギリギリのところで吞み込んだ。
それを言っても早霧を傷つけるだけだった。
そもそも俺は傘なんて持って来ていなくて、それを言う資格さえ無くて。
『え、何で……ご飯食べた時、あれ……りんご飴の時……ば、バスに置いてきちゃったのかな……』
『そ、そんなの良いから! 早く戻ろう! 濡れちゃうよ!!』
『ひっ……う、うん!!』
早霧が悪い方向に考え出してしまったので、俺はつい強めに怒鳴ってしまう。
それでもこのままでは風邪を引いてしまうと思った俺は、早霧の手を取って走り出した。
『ご、ごめんね……れんくん。わ、私のせいで……』
『さっちゃんは何も悪くないよ!』
土砂降りで視界が悪くなった、夜の林道を駆けていく。
『で、でも……私が傘を無くしたり、ワガママを言わなかったら……』
『それを言ったら、僕だって悪いから!』
来た時とは逆で上り坂になった斜面はよく滑って、中々進めなかった。
『ほ、他のみんなと一緒にいたら良かったのかな……』
『僕はさっちゃんと一緒だったから良かったよ!』
それでも、点々と設置されていた照明のおかげで迷うことは無かった。
『はぁ……はぁ……』
『頑張って、さっちゃん!』
だけど、大雨は衣服を濡らして重くして。
顔に当たっては視界をぼやけさせた。
『れ、れんくん……ちょっと……速い……よ……』
『ご、ごめん……!』
そうは言っても止まってられなかった。
歪む視界。
もしかしたら雨と一緒に涙が流れていたかもしれない。
さっきまであんなに楽しくてドキドキしていたのに、どうしてこうなってしまったのだろう。
雨に濡れる度、ぬかるみを踏みしめる度、苦しそうな早霧の声を聞く度にネガティブな感情が溢れていった。
『ぜぇ……ぜぇ……』
『ごめんね、さっちゃん、もう少しだから……!』
体力が無い早霧の呼吸がどんどん荒くなっていく。
俺にもっと冷静な気持ちがあれば、どこかの木の下で少し休憩をするとか考えられただろう。
だけどこの時の俺は、この大雨で早霧の体調がまた悪くなったらいけないから速く走ろうと……早霧のことを考えているようで自分のことしか考えられていなくて。
『あっ、さっちゃん! 灯り! お祭りの灯りが見えてきたよ!』
だからだろう。
きっと、罰が当たったんだ。
『もうすぐだから転ばないように気を、付け――えっ?』
何分も大雨の中を走り切って、神社を照らす夏祭りの灯りが見えて気が緩む。
暗い林道、大雨で悪い視界、ぬかるんだ斜面、意識は一瞬だけ早霧に向いて。
『――れんくんっ!?』
盛大に足を滑らせた俺は、濡れた砂利道に顔から突っ込んだんだ。
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