第93話 「……行ってきますのちゅー!」

 暑苦しいのに心地良い夜だった。

 心的疲労の要因が一つ無くなったからか、それとも隣に早霧がいたからか、はたまたそのどちらもかは分からないが、快適な夜だった。


「蓮司」

「ん……?」


 それでも俺が朝に弱い事は変わらない。

 まどろむ意識、まだぼやけた視界の中で覚醒しきっていない脳に耳元から直接囁かれる甘い声。それを幼馴染の声だと認識し、昨日の出来事が頭の中で粘土をこねていくように次第になっていく。


「……早霧?」

「うん、正解」


 早霧がいた。

 昨日は後ろから抱きついて寝てしまった早霧が、今は俺と同じベッドの中で向き合い、先に起きている。

 横向きに流れる白い髪、整った顔立ちに淡い色の瞳に長い睫毛、そして薄桃色の唇が。


「――んっ」


 俺の唇を塞いだ。

 寝ている時とは違った心地良さが脳を揺らし、思考と視界が鮮明になっていく。

 呆気に取られている俺の口から早霧の唇が離れるのと同時に、隣からピピピピピとスマホのアラームが鳴り響いた。


「えへへ、おはよー」

「あ、あぁ……」

「顔、真っ赤だよ?」

「……お前のせいだよ」


 朝日のような優しい笑顔が目の前に広がる。

 それを直視したいのに照れくさくて見れない俺が顔を背けると、早霧はその細い指で俺の頬をつついてきて。

 こうして仲直りをしてから始めて、一緒に迎える俺たちの朝は始まるのだった。


  ◆


 部屋から出て洗面所で顔を洗う頃にはすっかり目が覚めていた。

 ほどよく冷たい蛇口の水を両手にすくって顔を洗う。濡れた顔を新品のタオルで拭いてから振り向くと、一足先に顔を洗い終えた早霧がいて。


「――んぅ」


 また、キスをされた。

 お互いに立っているので背伸びをして、俺の肩に両手を置かれての振り向きざまの不意打ちのキス。

 水道水の冷たさじゃカバーできないぐらい、俺の顔が熱くなっていく。


「……隙ありぃー」


 唇を離し、悪戯に成功した子供のようにニパっと笑う早霧に抱いた感情は好きと少しの苛立ちで。


「はぁ……」

「んむっ!?」

「……隙あり」


 今度は俺の方からキスをすると、ニヤけていた瞳が見開かれた。

 してやったり。だけどやっぱり恥ずかしかった。


  ◆


 キッチンに立つ。

 IHなんて洒落た文明の利器が無い我が家ではガスコンロが現役バリバリにやる気の炎を燃やしていた。

 フライパンの上にひいた油の上に投下した生卵がどんどん白く色づいていき、目玉焼きへと進化していく。


「蓮司蓮司」

「ん?」


 右手に持った胡椒をどのタイミングで振りかけようかと考えていると、隣から肩を叩かれて。


「――んっ!」


 また、キスをされた。

 危うく胡椒のビンを落としそうになる。


「へへーん、さっきのお返しだよ!」

「……火を使ってる時はやめろ」

「ほへんほへんほへぇぇんっ……!(ごめんごめんごめぇぇんっ……!)」


 胡椒を持っていない左手で、早霧の頬をわし掴むと学園一の美少女の変顔が完成した。

 唇が押し出されたような顔になったが、流石に料理をしている時にキスをする気にはなれない。でも頬の感触は気持ちよくてつい指で弄ってしまう。

 目玉焼きは焦げた。


  ◆

 

 そしてリビング。

 テーブルの上には白米と味噌汁、それからパックに入った納豆と焦げた目玉焼きが並んでいて。


「いっただっきまーす!」

「……何で隣なんだ?」


 そして俺たちも並んでいた。

 四つの椅子がある我が家のテーブルだが、早霧は当然のように俺の隣に座って梱包されている納豆のビニールを剥がしていた。


「え? 部室でも教室でも隣の席だよ?」

「ここ、俺ん家なんだが」

「じゃあ良いよね?」


 良いらしい。

 謎理論だがキス我慢対決に負けた身としては何も言わない方が良いだろう。

 料理が並ぶテーブルを乗り越えてキスをされるのも危ないしな。


「納豆ってどうしてこんなにネバネバなんだろうね?」

「納豆だからな」

「哲学だね」

「雑学だよ」


 他愛の無い会話をしながら食事を進める。

 しかしお互いに焦げた目玉焼きは中々進まない。


「あ、蓮司ご飯粒ついてるよ?」

「え? どこに――」

「――んんぅ」


 ネバネバしたキスだった。


  ◆


 続・リビング。


『見てください! 夏休み最初の日曜日はこんな朝早くから海水浴場に沢山の人が集まっています!』


 俺と早霧はのんびりと、テレビに映ったニュースを眺めながら何の生産性もない時間を過ごしていた。


「うわぁ、海きれー」


 暑さで脳が溶けたみたいな感想を隣に座る幼馴染が言う。


「行きたいのか?」

「人多いからいいやー」

「だな」


 インドアな俺たちである。

 昨日のショッピングモールも人が多かったから、今日は家でゆったりとしていた。


「明日からラジオ体操だねー」

「だな」

「パパとママも明日帰ってくるんだよねー」

「そうだな」

「キスするー?」

「する」

「――んっ」


 だらけた中で思考放棄のキス。


『あ、インタビューしてみましょう! お二人はどういった関係で……カップル! 付き合いたてですか、初々しいですね!』


 テレビの音がうるさい。


『その水着も綺麗で似合っていますね! え? 彼氏さんに選んでもらったんですかぁ、へぇーいーですねぇーすてきなおあいてがいてー』


 微妙に癖のあるリポーターが途中から完全に棒読みになってせっかくのキスに集中出来なかった。


「……あっ」

「……んっ?」


 そんなリポーターの声につられてか、早霧が俺から唇を離した。目の前に広がる美少女の顔は何かを思い出したかのように口が半開きな、少しマヌケな顔である。


「そっかぁ」

「何がだ?」

「忘れ物」

「忘れ物?」

「うん」

「あ、おいっ!」


 テレビに映る海水浴場の映像を見ながら頷いた早霧が立ち上がる。そのまま手を引かれて玄関前へと連行された。


「ちょっと忘れ物取ってくるね!」


 そして意気揚々と靴を履き始める。それも俺の手を繋いだまま。


「忘れ物って、俺も行くのか?」

「ううん、違うよ?」

「じゃあどうして俺を――」

「――んぅっ」


 そしてまた、問答無用で唇を塞がれて。


「……行ってきますのちゅー!」


 満開の笑顔が花開いた。


「えへへ、行ってきまーす!」

「……行ってらっしゃい」


 手を振りながら勢いよく玄関を開けた早霧が外に出て行った。


「……ふぅ」


 一人になった俺は指で唇をかきながら、不意に脱力してその場に座り込んで。


「……親友って、何だ?」


 この幸せな朝のひと時を噛み締め、改めて思ったことを吐き出すように呟いた。

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