第90話 「かゆいところあるー?」
髪を洗っている時に聞こえるあの特有の音をなんて表現したら良いだろうか。
ワシャワシャ、シャカシャカ、シャッシャッ、カリカリ。
どれも同じような気がするし、どれも違うような気もする。
きっと答えが出ないこの問答が思考の海に沈みながら、とりあえずワシャワシャと仮称した音が響いていた。
「ふっふふっふふーんっ」
その音に加えてご機嫌な鼻歌が背後から聞こえてくる。
当然、早霧である。
背中を流すと言ったのにまず俺の髪を洗い始めたバスタオル姿の早霧が、俺の後ろで鼻歌を歌っていた。
「かゆいところあるー?」
「心」
「え? 心は無理じゃない?」
「何でこういう時の冗談は真に受けるんだお前?」
――ワシャワシャ。
浴室に髪を洗う音が響いていく。
これが理容師に髪を洗ってもらうのなら普通の事だが、バスタオル姿の幼馴染に洗われているっていうのは普通じゃないよなって思った。
もちろん椅子に座る俺も腰にタオルを巻かせていただいている。心もとないがこれがあるのと無いのとでは雲泥の差があった。
「でんででっででんでっででん」
また変な鼻歌というかリズムを取る声が聞こえる。
俺は理性を保つのに精一杯だというのに、コイツは……。
「……機嫌良さそうだな」
「えー? そうかなー?」
「……その声と喋り方で機嫌悪いわけないだろうが」
「えへー、だって蓮司の役に立てて嬉しいんだもーん」
「……そういうところだぞお前」
「え? 何が?」
「……そういうところなんだよ」
昔から思わせぶりに嬉しい事を言ってくれるから、どんどん好きになる。
早霧の気持ちを知った今ではそれが本心だと分かるから、やっぱり好きになる。
「一緒にお風呂入るの、懐かしいよねー」
「まあ、そうだが……そう言っても数えるぐらいしか無いだろうが」
「うんそうだね。確か私の病気が良くなってきたぐらいだから小学五年生の運動会の後だったよね? その時は私の家のお風呂でさー」
確かな割にはしっかりと覚えてた。
当然それは俺も同じだ。
「……ああそうだな。あの時に見たお前の父さんの顔は本気で怖かったぞ」
「だよねー? 私もすっごい怒られたもん。でもさ怖いって言うなら蓮司のママもだもんね。ウチのパパに怒られるからって蓮司の家で一緒にお風呂に入ったらすぐにバレちゃってさ!」
「……どっちも一番怖い想いしたの俺だからな?」
今でこそ母さんは早霧との関係にウキウキだが、当時俺はまだ子供で早霧の身体も弱かった時は本当に怖かった。
いや、あの時も俺が早霧と風呂に入った事よりも、早霧の体調に関する心配ばかりだったな母さんは。
「……愛されてるな、早霧」
「へへん! でしょー?」
「……そこ威張るところか?」
「早霧ちゃんは愛を沢山受けて大きくなったのです」
「……よく言うよ」
昔は外に出れなくて、他の人と違うってずっと泣いてたのに。
気づけば心も身体も大きくなった。文字通り、色々な意味で。俺の知らないところでも強くなったよな早霧は。
「学校でも人気者だもんな」
「えへへ。そこは、まあ……おかげさまで?」
「何でこっちは照れるんだ?」
早霧の判断基準は謎である。
一生かけてもこの謎は解けない気がした。
「……私、幸せ者だなぁーって」
「……ああ、そうだな」
ああ、本当に。
そう思ってくれるのは本当に嬉しい。
「……でもさー」
ワシャワシャと、髪を洗う手が突然止まった。
「……ん?」
目を閉じて何も見えないまま、早霧の手が離れていく。
「……私、ワガママだから」
次に感じたのは背中にかかる柔らかさと、温かさで。
「……んなっ!?」
後ろから首元に回される早霧の腕の感触と。
「……蓮司からもっと、欲しいな」
耳元で囁かれる、甘い甘い声だった。
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