第34話 「――んぅっ!?」

 早霧を、幼馴染を自分から抱きしめたのはこれで二回目だった。

 厳密に言えばもっとあるかもしれない。

 でも、記憶に刻まれるぐらい鮮明に覚えているのは、幼い頃にあった……たった一回の大きすぎる思い出だけだった。


『し、しかし……俺と君は、友人で……』

『キスまでしたのに……まだ分からない?』

 

 早霧の奥で未だに映っているホラー映画のセリフが、嫌にマッチしているような気がした。


「……映画、見なくて良いのか?」


 けれど口から出てくるのは逃げの一手。

 この期に及んで思っている事とは違う言葉が出てきてしまうんだ。


「見ない……」


 その間違った問いに幼馴染は首を横に振った。

 自分から誘っておいて、わがままな奴である。

 そう、これが早霧だ。

 わがままで、自分勝手で、いつも人を振り回して、無邪気な笑顔を見せてくれる、大切な俺の……親友。


「見れないよ……」


 俺の首に手を回し、見上げてくる、熱を帯びた幼馴染の顔があった。

 整った眉も、長い睫毛も、淡い瞳も、高い鼻も、瑞々しい唇も、全てが目の前にある。


 ひとりじめだ。

 万人に向けられた映画じゃない、俺だけが知っている早霧の素顔だ。


「……そうか」


 映画の主役みたいな気の利いた事は何も言えない。

 ただ、その細い腰をこちらに抱きよせる事しか出来なかった。


「…………」

「…………」


 言葉が出ない。

 こんな時、何て言えば良い?

 大事な時に限って頭が真っ白になる。その顔を、見つめる事しか出来なくなる。


「……ねえ、親友」


 そしていつも口に出すのは、早霧からだった。

 身体が弱かった幼馴染を守る為に強くなるとか言っておいて、いつも俺の手を引っ張っていく。

 俺はその心地よさに安心して、甘えていたんだ。


 それは、今も同じで。


「今日も……しよっか……」


 キス……なんて、言葉にするのは野暮だった。

 何度も何度もキスをしてきた。今日もそれの延長戦なだけで。

 暗黙の了解。

 内緒のご褒美。

 二人だけの秘密。

 どれだけ言葉を選んで飾り付けても、その内面に秘めた想いは変わらない。

 

 もう既に、抜け出せない場所まで来てしまったんだ。

 早霧も……俺も、それを望んでいる。


 そこにはもう、相手の同意を得る為の疑問符は存在しなかった。


「早霧……」

『ヘレナ……』


 まさかここで映画とセリフが被るとは思っていなかった。

 現実と言うのは映画みたいに上手くはいかないらしい。だけどこの程度の邪魔ではもう止まれる状況じゃなかった。


 腰に回していた片方の手が、早霧の綺麗な顔に伸びた。


「ひゃっ……!」


 それだけで早霧は、くすぐったそうに身をよじる。

 けれど早霧が逃げる事はなく、まるで撫でられる猫のように目を細めて顔を寄せてきたんだ。


「……っ」


 可愛すぎるその仕草に、息が詰まった。

 それは何故か、俺の胸を苦しく……切なくさせて。



「――んぅっ!?」



 俺は自分からキスをしてしまっていたんだ。

 漏れた吐息と声は俺じゃなくて、早霧のものだった。


 今日一日お預けをされ続けた果てに俺から親友を求めた、たった一回の口づけ。

 それはテーブルに置かれた炭酸ぶどうジュースのような……とても甘くて、刺激的な味だった。

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