第6話
紳士の半径2メートル以上先の空気が、凍りついたように見えた。
ウェスタリアはギュッとレレムの茶コートの裾を握り、後ろに隠れる。
おばちゃんは言われた言葉がわからないのか、もしくは耳が遠いのか、「ええ?」と聞き返す。
そんな空気になったことを、気づいていなさそうな執事は、
「ここでは取り扱っておりませんかな?」
と柔和な言葉遣いで質問してくる。
レレムは、ふと、もしかして?と思って、
「……もしかして、花のことですか」
おそるおそる訊ねた。
「ええ、もちろんですとも」
執事にとっては質問の意図が謎だっただろうけれど、不愉快な様子を見せずに明るく答えた。
「そうでしたか。突然お尋ねして失礼いたしました。この子の名前がちょうど、ウェスタリアでしたので」
こうした紳士は柔和なふりをして、相手の品定めをしていることも多い。レレムはそう思いながら、自然といつもの習慣で、口角を上げる。気さくな態度を見せても心を許さないのは、お互い様だ。
「それはそれは。ハッハッハッハ。これは失敬。可愛げのあるお嬢さんですなあ」
と明朗な笑い声をあげ、ウェスタリアを見る。
ウェスタリアはレレムの後ろにまだ隠れていたが、自分をさらいに来たわけではないとわかると、少しずつ顔を出した。
「あ……あの」
と緊張のせいで声を絞り出しながら、ウェスタリアは言葉を発する。
「……!」
レレムはウェスタリアを見て、内心驚いた。
年上の人に緊張していることに対してではない。ウェスタリアが、話すことが苦手だと自覚した上で、それでも話かけようとしていることに対してだった。
「どんなものがご希望です、か」
声が震えているが、執事風の男性に向けて言ったのは、明白だった。
「えっと、植木でしょうか、生花でしょうか」
「おや、お嬢さんは店員でしたか」
と執事は少し大袈裟に反応する。この瞬間、ウェスタリアの様子を見守る雰囲気が生まれたのがレレムはわかった。
……練習をするには、いい人かもしれない。
そう思いながら、レレムも静観を始める。
「そうですなあ、欲しいのは藤の種なのですが、ここにはありますかな?」
「種は……ここには売っていません。交易品販売店にはあるかも……あ、あの、でも、栽培をご希望なら、植木鉢と土を見られたらどうですか」
たどたどしい口調で、けれどもちゃんと要点は押さえて説明する。提案もしている。結構いけている、とレレムは思った。
側から見たら、それほど悪くない。
本人が考えているほど、深刻ではなさそうだと思った。あとは自信を持って堂々と話すだけで、ほとんど解決する。
「植木鉢に土ときましたか。確かにとてもとても大事なものですな。しかし、まあ、残念なことに、これは間に合っておりましてな」
紳士は遠回しに優しい話し方で断る。
植えるためではないということだろうか。もしかしたら既に園芸用具は揃っているということかもしれないけど……レレムは少し違和感を感じた。
違和感といっても、大したことはない。もし加工用だとすれば、食べれば毒になる。ただそれだけだ。
「そうなんですか……」
とウェスタリアは少し悲しそうに言った。それを見て、何か心に感じるものがあったのか、
「ふむ、しかしまあ、新しい生花があっても良いかもしれませんな」
と執事は申し出る。
明らかに親切心での行動だった。気を遣われている。
その言葉に、
「あっ」
とウェスタリアは顔を上げる。
「何がいいですか」
「おすすめは何かありますか」
そう言われて、ウェスタリアは自分のお気に入りの花のところに行こうとした。けれどもすぐに、ハサミがないことに気づき、混乱した様子で立ち止まる。
すると、同じく見守っていた年配の女性が小屋から立ち上がって出てきた。
「いいよ、私が包んであげるからお会計して」
このタイミングで声をかけるあたり、見事な名脇役だ。
「あ、はい……」
ウェスタリアは執事から渡された硬貨を受け取って、数え始める。
何となく引っかかり続けているレレムは、はぐらかされたら、それまでだと思って割り切ろうと決めて、思い切って訊ねてみる。
「藤の種は、どうされるおつもりなんですか?」
執事はすぐに答えた。
「ああ、主人は足がよろしくないのでね。少々薬剤師に痛み止めのクリームを作ってもらうのですよ」
藤の種で? と思ったが、顔には出さなかった。
「そうでございましたか」
……どこかで何かが動いている。そうレレムは感じた。
あの執事の主人は誰だろうか? カルロスじゃなければいいのんだけれど。
その間に年配の店員は慣れた手つきで整えると、ウェスタリアに花を渡す。ウェスタリアはそれを両手で、執事に渡した。
「ありがとうございます……!」
「では、頑張ってください」
と執事に励みの言葉をかけられて、ウェスタリアは、
「頑張ります」
とはっきりとした声で答えた。
これは転換点になったかもしれない、とレレムは感じた。
「レイレムさん」
相変わらず、余分な「イ」が入ってくる。さっきまでの健気なやりとりを思い返して、思わず表情が緩む。
一輪であっても、売れたことに変わりはない。ウェスタリアは嬉しそうにレレムを見たので、レレムはうなずいた。
「よかったね」
まあいいか、とレレムは思った。他人がどうなろうと、私の預かり知らぬところで起きたことなら、関係のないことだ。自分の考えは悪いイフをつなげているに過ぎないのだから。
それよりも、早く泊まれる宿を確保しないといけない。
レレムの思考は現実的な事柄に戻っていった。
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