第六章

第95話 満月の夜

 八幡ちゃんは私の部屋に同居するようになってから、夜眠る時には子犬の姿に変化するようになった。

 犬種は日によってバラバラで、その時の彼の気分だったり、私のリクエストに応えてくれることもあった。


 もふもふの毛並みが良かったり、すべすべの短毛が良かったり、ツヤツヤさらさらの毛を撫でながら眠りたい時もあった――そう、私は子犬の八幡ちゃんを布団の中で撫で撫ですることが、すっかり入眠儀式のようになってしまっていたのだ。


――ああ、そっか。今夜は八幡ちゃん、いないのかぁ


 自室に入ると、いつも小さな宇宙人と何かしらお喋りをしていた。今夜は部屋の中はシンとしていて、独り言を言う気分にすらならない。八幡ちゃんの気配がないので、餅太郎もやってこなかった。


 餅太郎が一緒に布団に入ってくれたのは、飼い始めたばかりのころの短い間だけだ。私の寝相の悪さに辟易したのだろうか。

 そういえば八幡ちゃんは、毎晩私の寝相をどうかわしていたのだろう。朝は彼の方がいつも早く目覚めているし、寝相について笑われたことはあっても、文句を言われたことはなかった。


「今頃、踊ってるのかな」


 時刻は夜十時。明日に備えて早めに寝ようと布団に入った私は、再びベッドから出て部屋のカーテンを少しだけ開けた。


「あ」


 電気を消した部屋の中に、外の明かりが差し込んでくる。それは、外灯だけの光ではなかった。


「今夜、満月だったんだ」


 白くまんまるなお月さまが、そら高く輝いていた。


「きれいだなあ」


 月明かりは侮れない。真夜中の山の中でも、きっとあの明かりは八幡ちゃんたちの踊る足元を、明るく照らしているのだろう。

 ジョージくんは今頃、イカタコ亭へ注文した品を受け取りに行こうとしてるのだろうか。


――秋月くん、まだ起きてるかな


 満月を見つめたまま、机の上のスマホへと意識が向かった。私の頭の中に、夕焼け空みたいなオレンジ色が浮かんでくる。


――声、聞きたいな


 電話してみようか。もう寝ていたら悪いかな。でも……


 眠る前に彼の声が聞けたなら、それだけでもう全てが上手くいく。そんな気がした。小さな宇宙人の温もりがない布団に入っても、安心感でいっぱいのまま眠れるだろう。何も不安を感じないまま朝起きて、試験会場に向かって、ペンを握って試験問題に向かい合うことができるだろう。


「よし」


 窓から目を逸らし、私は身体を翻して机の上に手を伸ばした。


 それと同時だった。


 すーっと入り込んできたのは、冬の夜の空気。冷たく乾いた風となって部屋になだれ込んだそれは、私の髪を揺らし、カーテンレールをシャラシャラと鳴らした。


「……え?」


 風が入ってきたのは、窓が開いたからだ。もちろん私は開けてなどいない。


 満月を背に部屋の中に立っていたのは、私が知っている人物だった。


「どうし、」


 どうしたの? どうして?


 多分、そんな言葉を口にしようとした。けれど、曖昧になってしまった。その人の人差し指が私の開きかけた唇に押し当てられた瞬間に、私の声も、意識も、感覚も、フェードアウトしていったのだから。

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