第88話 良い顔

「はあ、なるほどなぁ。しかしお前変わったよなぁ」

「え?」


 廊下に立ったまま、タックは私が開く問題集のページを横目に呟いた。先生の手は、片手に持ったメモ用紙に解放を書いていく。


「気晴らしに数学の問題解こうとするなんて、少し前までの渡邉からは絶対想像できんな。廊下で俺の顔見つけたら、逆方向へ逃げて行くくらいの数学嫌いだったのに」

「えっ……し、知ってたんですか」

「バレバレだ、ばかもの」

「ははは……その節は、どうもすみませんでした」


 数学の成績とテストの点数について、チクチク言及されることを避けていたのだ。正直タックが怖かったし、校内でも極力接触を避けたかった。

 今ではそんな行動を取っていた自分が不思議だ。タックに小言を言われる心配のないほど数学の成績も伸び、理解できることが増えたからだろう。そして何より、彼は良い教師だと思う。こんな風に突然の質問にも対応してくれるし、それに――


「秋月一馬」


 ほれ、と解放を書いたメモを手渡しながら、タックはモヒカン男の名前をフルネームで呟いた。


「あいつがお前を変えたな」


 秋月くんのことを、タックはちゃんと解っていた。生徒同様、出席率の悪い秋月くんのことを誤解している先生は多かったのに。


「秋月もよく学校来るようになったしな。教室にも顔を出す回数が増えた。あいつもお前に変えられたんだな」

「そうですかね……」


 あれ、なんだか恥ずかしいな。顔がニマニマする。


「二人とも良い顔になった」


 タックがニヒルじゃない笑顔で笑っている。


「どんな顔ですか」

「年配者には分かるものなんだよ」


 よく分からない回答をされたが、モヤモヤはしなかった。タックから受け取ったメモ用紙を、大切に問題集に挟みこむ。


「先生、ありがとうございました」

「おう。明日がんばれよ」


 遠ざかっていく恩師の足音を聞きながら、私は自習室へと向かっていた。きっとそこに、オレンジ色のモヒカン頭を見つけることができるはずだ。


 私達はあまりメッセージアプリで連絡を取り合わないが、大体いつもちゃんと落ち合うことができる。奇跡とか、偶然とか言うのかもしれないけど、私にはそういう風に思えない。多分、どこかでちゃんと知っているのだ。フサ子さんが電車の中で私を待っていたのと同じように、私も秋月くんも、無意識のうちに予測計算できてしまっているのだと思う。


――ほら、やっぱり


 ドアの小窓越しから――天井に向かってピンと立つ、オレンジの毛先を見つけたのだった。

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