加速する世界を 半分の歩幅で歩いてみなよ
松下真奈
第一章
第1話 のろま
今日も兄が、友達と通話しながら映画を倍速視聴している。
妹がSNS動画を見ながらゲームをしている。
母はラジオに相槌を打ちながらタブレットでレシピを眺めて料理しているし、父は雑誌を腹の上に広げたまま寝ている。耳にイヤホンが突っ込まれているから、最近ハマっているオーディオブックでも聞いていたのだろう。
こうして見ると、うちの家族は皆要領が良いなと思う。一度に二つのことを器用にこなす。“ながら”作業が当たり前の昨今において、わりときちんとながら作業を遂行する人たちだろう。
そんな家族の中において、私だけ異分子だ。
私は一度に二つ以上のことを、上手くこなすことができない。どちらも中途半端になるか、全て上手くいかないまま終わる。そもそも一つのことに集中するので精一杯で、同時に複数のことをやってみようという気にもならなかった。
そんな私のことをからかったり非難する時、人は「のろま」とか「要領が悪い」と言う。最近だと「タイパが悪い」と言われたことがある。クラスの男子からだ。
「タイパ」の意味が分からなかった私は、それが「タイムパフォーマンス」を縮めた言葉だと知って呆れ、そしてその男子のことを冷めた目で見るようになった。
要するに「のろま」ってことじゃないか。「のろま」なら三文字だ。わざわざ「タイパが悪い」だなんて伝わりにくい六文字で批判することのほうが、相手に精神的ダメージを与えるという目的からすると、よっぽどタイパが悪いことにはならないだろうか。そんな言葉を使って私を罵った彼に対して、言いようもない嫌悪感を覚えたのだった。
タイパのせいで話が逸れたが、要するに私は『一度に二つの作業ができない、のろまな人間』ということだ。
けれど勘違いしないで欲しい。
私は自分のこの性質のことを理解しているし、時々誰かを「タイパが悪い」云々とイラつかせてしまうことも自覚している。
だからといって、自分に対して否定的なわけではない。
むしろ私は、自尊心は高い方だと思っている。
映画は倍速視聴しないほうが、絶対に楽しい。役者が述べるセリフは、一音一音に温度がある。言葉のない場面に生じるのは、ただの間ではなくて質量を持って訴えかけてくる熱だ。意味のない間も、意味のない表情もない。意味を与えるのは、視聴している私なのだから。
『倍速視聴で面白いか確認した後、面白い作品だったら倍速しないで観ればいいじゃないか。そもそも倍速で見てもう一度じっくり見たいと思わせない作品なんて、つまらないってことなんだし』
兄はこう言う。だけど私は、少なくとも兄がこれまで倍速視聴した映画を通常の速さで再度視聴している姿を見たことがない。もったいないと思う。彼が倍速視聴で観ている映画は、本当はとても面白いのに。
数秒の間に収められた動画も、イントロも間奏も短い音楽も、何だか味気ない。
『どうなるのかすぐに分かったほうが楽しいでしょ。こっちだってそんなに時間があるわけじゃないんだから』
次から次へと新しい動画が再生され続けるスマホを片手に、妹はそんなことを言う。彼女は何をそんなに急いでいるのだろう。まだ中学生なのに。
『
父に薦められて、数冊分のオーディオブックが私のスマホにも入っている。けれど序章数ページで止まったきり、後は読み出すことなく積読本のままだった。
愛犬の散歩中に聴いていたら、聞こえてくる本の内容に全神経を持っていかれ、赤信号に気づかないまま横断歩道を渡っていた。運良く車が止まってくれたので事故には至らなかったが、それきりイヤホンをつけて外を歩くことは、絶対にしないと心に決めたのだ。
「本当に
母は昔から私を叱る時、枕詞のように「ぼーっとしてる」と言う。そう見えるかも知れないけど、私の思考は止まっているわけじゃない。それにぼーっとすることは、そんなに悪いことなのだろうか?
ぼーっとすることが悪ならば、せかせかすることは正義か?
時間を節約することが素晴らしいことならば、わざと時間をかけることは愚行になってしまうのか?
一つのことしかできなくて、のんびり屋の私は、出来損ないの人間なのか。
そんなことないと思う。
ないと思うのだ……けれど。
最近ちょっと自信がない。
あまりにも私の考えは否定され過ぎて、さすがにちょっと心が揺れる。
加速していく世界の中で、たった一人取り残されていくような。
私には追いつけない。追いつくことに、どうしても価値を見いだせない。けれど置いていかれたくない、一人は心細いと叫ぶ、絶望的な焦燥感がこびりついて剥がれないのだった。
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