幸せになれよ

@MeiBen

幸せになれよ

オレは早足で男の元に歩み寄る。

近づく最中、オレはナイフをどう使うべきかを思案していた。喉元を切り裂くなら、水平に構えて薙ぎ払うように切るべきだ。心臓に突き刺すのは難しいと聞く。肋骨が邪魔になるからだ。少し傾けて力強く差し込まないといけないだろう。でも、どちらの手も上手く行けばこの男は即死だ。間違いなく死ぬ。そこまでする必要があるか?怖がらせるだけで、少し切りつけて怯ませるぐらいでいいのではないか?いや、迷うな。こいつが言った。オレに殺してみせろと言った。自分で言ったんだ。それにこいつを見てみろ。オレを返り討ちにすべく身構えている。良く分からないが合気道かなにかのような構え。斜に構えて両の手を胸の前に出して手を開いている。オレの攻撃を躱すなり受け止めるなりして、オレに反撃しようとしている。ナイフを持っているオレの方が圧倒的に有利だ。けど万が一、オレの攻撃が躱されたりして反撃を受ければ形勢は逆転する。ナイフを奪われたらこの人数にリンチにされるだろう。絶対に当てないといけない。怯ませないといけない。殺せなくてもいい。深手を負わせる。じゃないとオレがやられる。それなら必ず刃が当たるところを狙おう。身体の中心。腹の真ん中に真っ直ぐ差し込もう。オレは体の前に垂直に刃を突き出して男の腹めがけて突進した。男に向かっていく最中、全てがスローモーションのようにゆっくりになった。足を前に進めようとしても、一向に進まない。ゲームでもあるだろう?魔法をかけられて動きが遅くなる奴。そんな感じ。男の顔が良く見えた。男は何を考えているか分からない。真剣な顔つきだ。でもこんな状況なのに表情には焦りや恐怖がなかった。ただ真っ直ぐにオレを見ていた。オレの目を見ていた。不思議だった。不思議な感じがした。でもその時には理由が分からなかった。不思議な感じの理由が分からなかった。でも今なら分かる。もっと早く気付けばよかったんだ。いやでもどうせ無理だった。男の後ろにいる奴らの顔もよく見えた。恐怖、焦り、不安、驚愕、色々な表情が並んでいた。でも誰一人としてオレを見てはいなかった。いやオレを見ていた。オレを見ていた。でも奴らが見ていたのはオレじゃなかったと思う。スローモーション。ようやくあと一歩で男の元に刃が届く所まで来た。その時だ。男が構えるのをやめた。あげていた腕を下ろした。前に出していた足を引いて仁王立ちになった。完全に無防備にオレに身体の前面をさらけ出した。訳が分からなくなった。スローモーション。今度は動きだけでなく、思考もスローになった。目だけが異常な速度で動く。目だけが異常な速度で情報を捉える。でも脳はそれを処理できていなかった。オレの目がまた男の顔を捉える。身体全身に電撃が走る。全ての毛が逆立つような感覚。男は微笑んでいた。その時オレの中に一つの記憶が走った。小学生の頃の記憶。野球の試合で負けて帰った日。オレが打っていれば勝てたのに、結局打てなくて負けて帰った日。オレは家に帰らなかった。近所の河原でバットを振っていた。申し訳なくて、不甲斐なくて、惨めで。オレはそんな気持ちを振り払うようにバットをひたすらに振った。いつまでもいつまでもバットをひたすらに振り続けた。日が暮れて真っ暗になった。それでも続けた。するとオレの名を呼ぶ声がした。学校の先生だった。男の先生。オレは先生に腕を引かれて家に帰った。帰る途中で先生が自動販売機で缶コーヒーを買ってくれた。小学生だったし、缶コーヒーなんて好きじゃなかった。でも微笑みながらオレに缶コーヒーを手渡してくれた先生の顔をよく覚えている。

ナイフが刺さった。男の腹に刺さった。男は逃げなかったし、オレももう止められなかった。だって怖かった。もう引けなかった。オレは全てを敵に回したから。だから絶対に勝たないといけない。敵しかいない中で負けたら終わりだ。全て終わりだ。オレは正しいはずだ。でもなぜだ。なぜだ。

刺したはずだ。オレは男の腹にナイフを突き刺したはずだ。確かな感触がある。でもなぜだ。何でお前はそんな顔をしてる。男は一言も発さずにただオレの眼を見ていた。その表情はさっきと変わらない。少しだけ微笑みを浮かべていた。分からなくなった。オレは何をしていた?オレはどこで何をしていた?この男はなんだ?何で男はオレを見ている?ナイフを握る手から力が抜ける。男は仁王立ちのままだった。信じられないくらいの静寂。本当に静寂なのか、オレの耳が壊れたのかは分からない。夢を見ているような気分でいると、男が右手をゆっくりとあげてオレの左肩に手を乗せた。そして男はオレにだけ聞こえるぐらいの小さな声でささやくように言った。




そんな顔すんなよ




そして微笑みながら言った。




幸せになれよ





そう言った後、男はオレにもたれかかるように倒れた。


終わり





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