巴波川・恋の舟歌 

菜美史郎

第1話

 下野の栃木の地、巴波川のほとり。

 この日の昼間もきびしい夏の名残の陽射しが、江戸まで材木を運搬しようとせっせと河岸で働く人々の身体を熱くした。


 しかし、時節は夏から秋へと確実に移っていく。

 夕暮れになり、ひんやりした風が川面を吹きすぎるようになると、彼らはあと片づけを始める。

 風邪でもひいてはいけねえやと、頭に巻いてしわくちゃになった手拭いで、汗ばんだ上半身をふいた。


 川筋から町の中心部にむかって少しばかり露地を入ったところに、さびれた裏長屋がある。ここまで来ると河岸の喧騒がとどかない。


 そこに、仁吉という三十くらいの男が住んでいた。

 やせ形で背が高い。

 なりわいは蕎麦屋である。

 「どさまわりの女形でやんす」と、彼みずから口上を切っても、さもありなんとまわりの者がうなずくほどに端正な顔立ちである。


 不思議なことに、仁吉に女房がいない。

 あいつの客はほとんど女だから、あれもこれもと手を出しているにちげえねえと、巷の雀たちがうるさい。


 つい今しがたまで、彼は夕刻からの商いにそなえ、狭いうちの中を行ったり来たりだった。

 いまだにうちの中に湯気が充ちあふれている。


 「さてと最後の仕上げにはいるとするか。ええっと天秤棒はと、それからそれから前と後ろの箱におさめるものはっと、七輪に生そばにゆでそばに醤油ってか。おっと皿や箸のたぐいを忘れちゃ仕事にならねえぞ。蕎麦屋の七つ道具でござあい」

 隣に聞こえるほど、大きな声をだす。

 妙に忘れっぽくなった自分のための確認作業だった。


 おしまいに、床に置かれた天秤棒を両の手で持ち上げ、あらよっと声をかけ、筋骨隆々とした右肩に天秤棒をのせた。

 「よし、ぴったしだ。これでいい」

 とたんに風鈴がチリンと鳴った。

 

 仁吉がこの商いを始めて、もう十年になる。

 河岸で材木をあつかう仕事もきついが、蕎麦屋もほぼ同様である。

 

 この午後、仁吉はずっとうちにいて、今宵の売れ筋を考え考えてそばをゆでたり、つゆをこしらえたりしていた。

 しかし、ときどき、彼は動きをとめた。

 そんなとき彼の表情が曇った。


 煮干しの臭いにつられ、猫たちが寄って来るのはいつものことだ。

 玄関の引き戸を爪でひっかき、なんとかして隙間をつくろうと試みる。

 「こいつめ、また来たか。今少し、待っちろ」

 そう言うなり、引き戸をバッとあけ放ち、煮干しをふたつみっつ放り投げた。

 たちまち路地は猫たちが獲物を取り合い、かん高い鳴き声が響きわたった。


 みかん色の巨大な太陽が大平山の向こうに沈みはじめた。

 しだいに辺りが朱色に染まっていく。


 岸辺の柳が風に揺れ、霧がじわじわといずこからかはい出して来る頃になると、闇が辺りを支配してしまうのにさほど時間がかからなかった。


 「やれやれ、もうすぐ出かける時刻だ。この仕事も今日でおしまい。俺にはたくわえがあるし、後顧の憂いもない。しかし、およねがなあ……、果たしてこれでいいんだろうか。惚れたはれただけでいつまでもつか……」

 仁吉はそうつぶやくと、上り口に、どっかと腰を下ろした。

 

 

 


 

 

 


 

 

 


 



 

 

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