向こうの名前

熨斗目アオギ

向こうの名前

 平行世界に、自分の名前がもう一つある。そのために私はこの世界から移動してきた。


 転移装置を使って降り立った場所は、湿気が多い、木々に囲まれた広い公園だった。近くにいた三、四人の子供達が驚いた顔で私を見ている。私は彼らに「平行世界から来た。ここにもう一つの名前があるから一緒に探してほしい」という旨を話した。彼らは目を輝かせ、「心あたりがある」と私を公園の奥にある小屋に案内した。どうやら最近、謎の木箱を見つけたらしい。その中に例の物があると。


 小屋に到着し、これまた湿った地面に穴を掘ると、土で汚れた木箱が顔を出す。子供達がその中をまさぐると、それは簡単に私の目の前に現れた。

 子供達の手には金属でできた棒状のキーホルダーが乗っていた。『本竹 体素』と楷書で刻印されている。


 これだ。この名前こそが私が探していた、この世界にあるもう一つの名前だ。


 その文字列は意味をなしてはいなかった。しかし名前というのはそういうものだろう。ほぼ当て字に近いものも名前として認識されている。

 子供達は「これはいらないから、あげる」とすんなり渡してくれた。私の手のひらに金属の重みが感じられる。

 感謝の言葉と別れを告げると、私は元の世界に帰ろうと転移装置があるショッピングモールに足を運んだ。

 目的の場所には一瞬でついた。文字通り、一瞬。瞬きをする暇も無く。

 あと少しで、目的が達成される。私はあの名前を忘れないように、スマホのメモアプリに入力した。 

 その時。


「こちらの世界の物を、記録しないでください」


 背後から低い声が聞こえる。肩に手が置かれた。そこだけ重りをいくつも置いたように重く感じる。

 振り向くと、そこにはスーツを着た30代後半くらいの男性が、真面目な顔をして立っていた。表情からはなんの感情も読み取れない。


「こちらの世界の物を、記録しないでください」

 一回目と変わらない声で繰り返す。

「あ……、はい。すみません」

 名状しがたい恐怖に駆られて、自分でも聞こえるか分からないほど小さな声で答えた。

 従わなければ痛い目に遭う。そう直感した私は、手に入れた情報を自身の端末から抹消した。


「……私、もう行かないと」

 私は逃げるための言い訳を独り言のように呟き、人混みの中へ走って逃げていく。

 何があっても、あの名前を持ち帰らないと。転移装置で帰ればここでの記憶は消去されてしまう。だけど、あの男にバレなければ問題が無いのではないのか。

 しかし、私の目論見を見透かしたように背後からあの声が迫ってくる。

「こちらの世界の物を、記録しないでください」

 どうして。周りの人間が霞むほどの速度で走っているのに、何故声ははっきりと聞こえてくるのか。

 その声は重苦しい気配とともに私の背後に迫ってくる。

「こちらの世界の物を――」



*     *     *



 背中に硬い感触を感じて飛び起きた。私は自室の座椅子に座りながら寝ていたのだ。先程の出来事は夢だった。安堵のため息を一つつく。

 傍にあったローテーブルのパソコンは、小説サイトの執筆画面を開いている。私は眠りに落ちる前のことを思い出した。母が帰ってくるまで新作の小説を書こうとしていたのだ。

 なんとも不思議な夢だった。しかしその内容は自分でも面白いと感じてしまう。小説のネタになると考え、手近なメモ用紙に概要を書いていく。

 『本竹 体素』。その不思議な名前も確かに記した。


 さて、このネタをどう物語に組み込もうか。いや、短編として作るのも悪くない。夢ゆえに辻褄が合っていなかった部分はどう補完しよう。

 

 考えを巡らせていると玄関から鍵が開く音が聞こえてきた。母が帰ってきたのだ。確か買い物をしてからこちらに向かうと言っていたか。荷物が多いとリビングまで運ぶのも一苦労だ。おかえりと挨拶するついでに手伝おう、と腰を持ち上げ玄関に向かう。


「おか――」

 玄関に母はいなかった。その代わりに夢で見た、あの男が立っていた。夢の中と同じ、スーツを着て、顔には感情が読み取れない表情を貼り付けて。




「だめじゃないですか。記録したら」

 


 



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向こうの名前 熨斗目アオギ @noshime-aogi

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