余計な指先

黄間友香

第1話

 信号待ちの時、やっぱり指の第一関節から上を切ってしまいたいなと思った。別に指の第一関節に限ってコンプレックスがある訳じゃないから、指全体と思わなくもない。芋虫みたいに指が太いのが、嫌なことには嫌だった。けど、アスパラだって茎は最初に茹でて、先の方だけ後から茹でるし、指先は別物と考えるのはありな気がする。

 車はほとんど通らないのに、まだ信号は青にならない。さっき押したけどもう一度歩行者用ボタンを押す。どこにも逃げ場がないような蒸し暑い夜で、早く信号を渡りたかった。カチッと鳴った。信号のボタンはあんまり押した感じがしないので珍しくて、もう一度意味もなく押す。信号の傘になっている部分は結構汚くて、場所によっては不思議な模様をしている。師匠のアパートの前のやつは人の顔みたいな模様があった。信号が赤の間ニヤリと笑うので、私も笑い返した。青になると、途端によそよそしくなる嫌な奴だ。

 師匠の部屋は309号室だけど、私は手だけを伸ばして310号室のインターホンを押した。アパートを建てた人が変な線の繋ぎ方をしちゃったらしく、一つ隣の家のインターホンを押さなければいけない。310号室は真っ暗で、外出中に見えるけど念のため息を殺して悟られないようにする。

 パタパタと足音が聞こえてドアを開けた師匠は、タンクトップにアディダスのハーフパンツで、今からジムに行きそうな格好をしていた。最近は日焼けして、ますます運動が得意そうに見える。主食にプロテインを食べて、飲んで、トレーニングに励んでいるような感じ。健康そのものなのに、目の下の隈が目立った。

「今日は手ぶらなんだ」

 指を動かすと、爪のあたりが気になった。他の人よりも爪が平たい気がして嫌だ。諸悪の根源みたいな指先はやっぱり切るべきだと思う。師匠はきょとんとした顔で私を見て、来てくれるだけで十分ですから、と当たり障りのないことを言った。私はそういう時の気の抜けた師匠が大好きで、時々何ももたずに遊びに行ってしまう。

 師匠の家は、お香の匂いが強く染み付いている。大きく息を吸い込むと、懐かしい感じがした。緑色の防音シートを貼り付けた部屋は、マットレスぐらいしかない。その他のものは、全部見えないところにしまってある。私は師匠の部屋に人形遊びをしに来た。

菜連なれさん、今日はどっちにしましょうか」

 私は着ぐるみがいい! と手をあげた。喉ならしにもちょうどいいし、今日は思いっきり叫びたい気分だった。師匠が押入れを開けると、物が溢れて出てきた。押入れには布団の代わりに、おっぱいが大きくてハの字になってる美少女フィギュアやら、先週分のジャンプやら、タンバリンやら衣装とか着ぐるみが入っている。最初はフィギュアがどうして箱ごとそのままにしてあるのか不思議だった。皆手足が長いし、きっとうまく組み合わせれば素敵な作品が作れる。うちにはガチャガチャのフィギュアを絡めて作ったオブジェがあるけど、それよりももっといいやつ。見ているだけでどうやって手足を絡ませようか、いろんなアイデアが湧く。美術館に置いてある作品みたいに素敵な題名もつけたら完璧だ。でも師匠は箱を開けない。前に住んでいた人の持ち物で、師匠のものではないらしい。持って行かなかったものも、一応大事にとってあるのだと言っていた。前の住人が今どこにいるのかは、師匠も知らない。もし箱を開ける時が来たら、私にコーディネートを任せて欲しいと言ってある。師匠は落ちてきた箱を足でどかして、その奥にある着ぐるみを引っ張り出した。

 一番上のトカゲの着ぐるみは、私のお気に入りだった。緑色のトカゲは、本物にはない毛が生えている。100パーセント作り物のまがい物なのがいい。制服のシャツを脱ぐと、パチっとフィルムカメラの音がした。

「師匠、急に撮るの止めてよ」

「なんか脱皮の瞬間みたいで、好きなんですよ。菜連さんが、これから全く別の違う人になるようなワクワク感があります」

 訳わかんなかったけど、撮ってくれるかなと思ってちゃんと笑った。ついでにピースもしてみた。師匠は笑い返しただけで、カメラを置いてしまった。師匠は学生の頃、写真家になりたかったらしい。今は趣味と言っているけど、部屋に遊びに行く時はいつも写真を撮ってくれた。着ぐるみの袖に手を通すと、自分の手が見えなくなる。これでしばらく指について考えなくていいのが嬉しかった。人差し指から小指は一個のところに入れて、手をグーパーさせると、それだけで口みたいだなと思う。自分の身体に違う生き物が含まれているというのが面白くて、ずっと口をパクパクと動かしてしまう。いつも師匠が洗濯してくれているお陰で、着ぐるみの中は甘い匂いがした。

「今日は暑いので、あまり無理しないでくださいね」

 師匠がクーラーを入れてくれると、カビ臭い風が出てきた。師匠は、ぬいぐるみを手に持っている。目玉が黄色いビー玉の狼で、くぅちゃんと言う。

「じゃあ、軽く吠えてみましょうか」

 ガオーっと試しに叫ぶと、喉の奥から笑いがこみ上げてきた。人形遊びってこんなに面白いのに、どうして小さい頃ハマらなかったんだろう。小さい頃は車とかが好きだったけど今は断然人形遊びがいい。だってこのトカゲは毛も生えているし吠える。尻尾も切れない。というか、ない。吠え出すとドンドンと上から物音がした。大袈裟なぐらいにビクッと肩が震えた。関係ない。いや、ごめんだけど上の人には分かってもらえないかもしれないけど、私と師匠はとても真面目に人形遊びをしている。ポカンと上を見上げていると、もう一度ドンドンと叩かれた。

 上の人は人形遊びに嫌な思い出でもあるのかもしれない。私が俯いて地面に向かって叫ぼうとすると、師匠がトカゲの頭を起こした。着ぐるみの穴から見える師匠は、私と目線を合わせようと中腰になっていた。そんなことじゃだめですよ、と師匠の鋭い声が飛ぶ。もっと菜連さんの考えるトカゲらしくしましょう。ニュータイプのトカゲです。上の人には私が後で謝りに行きますから、心配しないで。

 私は郵便受けの隣にある掲示板に、『よるにおおきなおとをたてるのはやめてください』という紙が貼ってあったのを思い出した。誰が見てもわかるようにひらがなで書いてあった。師匠はドンドンと叩かれるたびに謝りに行くと毎回言っているけど、きっと行ってない。師匠はくぅちゃんを私の腕にのせた。マーキングをするみたいにゆっくりと私の腕の匂いを嗅いでいく。

「ね、くぅも吠えたがってるんです。トカゲらしく遊びましょうよ」

 師匠は難しい注文をするけど、不思議とすぐに理解できた。くぅちゃんのビー玉の目を見る。トカゲは狂ったように叫ぶんじゃなくて、会話を求めている。お腹の底からうずを巻いていくように叫ぶ。師匠がくぅちゃんを跳ねさせる。勢いをつけてジャンプしていく感じ、手首のスナップがほどよく効いていて、跳ね上がる時に私の腕を力強く蹴り上げる。

 私も負けないように、足に目一杯力を込めた。マットレスのバネの感触と、反発を足裏に感じる。バネが骨に当たってピリッと電流のような痺れを感じた。私は師匠の腹式呼吸の話を思い出した。

 お腹には本来息は入ってくるべきではないので、息を入れようとすると勝手に押し出されます。勝手に出ていく空気に乗っかって叫ぶ。喉を痛めないように気をつけて、と師匠が声の合間を縫って注意してくれる。

「菜連さんが着てると、トカゲが恐竜みたいですね。本当は今日、私着ぐるみやろうかなと思っていたのですが、菜連さんでよかった」

 ジャンプすると目の位置が着ぐるみの穴とずれちゃって師匠の顔が見えないけど、笑ってたらいいな。自分の中で一定のリズムができると、自分のやっていることが作業に変わっていく。スッと何かが抜けていく感覚があって、その後はもう何も考えずに済んだ。思いっきり吠えると、師匠が応えるように遠吠えをした。師匠の喉がごくっと鳴る。私は息を大きく吸い込んで、お腹にため込んだ。

 喉がザラザラしていて、なんなら肺の奥底まで乾燥していそうだった。それぐらいやり切ると、クーラーが効いていても汗ばんでくる。着ぐるみの頭をどかすと、冷たい空気が髪の毛の中を通った。

 菜連さんどうですか? と師匠が尋ねてきた。何度か唾を飲み込んで喉を潤す。

「楽しい! 楽しいよー師匠! 元気になった。私、明日から頑張れるよ」

 私の感想はどこまでも軽いけど、本気で思っている。師匠に抱きつくと、部屋と同じ匂いがした。師匠と人形ごっこしてる時が一番楽しい。身体全体を使って人形になりきるのは、大きな膜を被っているみたいで好きだ。誰にも見つからないで、私だと知られないで、大声を出す。よかったです、と師匠が笑った。くぅちゃんは師匠の手の中でもみくちゃになっていた。

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