緑々

黒本聖南

第1話

 よく行く喫茶店の店内音楽といえば、名前も知らない歌詞も分からないゆったりとした洋楽だったはずだけど、今日は何故だか荒々しい鍵盤の音と子供の喧しい叫び声に出迎えられる。

「……は?」

 店の奥には見慣れない、真っ黒なアップライトピアノが何故か置かれていた。そこに子供が三人群がり、各々がでたらめに叩いている。先月来た時には確かピアノなんてなく、見るはずもない光景だったのに。

「あら、いらっしゃい美弦みつるちゃん」

 出入口にて立ち尽くす私に、何か作業をしていたらしい鐘誓かねちかさんが声を掛けてくる。柔らかな笑みに迷惑そうな気配はないけれど、邪魔になるだろうからと慌てて移動した。

 この『喫茶 カンパネラ』にテーブル席はない。L字型のカウンター席、私は出入口に近い端の席に座った。さて注文をと顔を上げた時、喧しい子供達のすぐ傍の席で、女性二人がお喋りに熱中している様が目に入る。他に客はいない。彼女らが子供達の母親だったりするのか。

「アイスミルクコーヒー?」

 何か言う前に鐘誓さんの方からそう確認してくれる。彼女が作るアイスミルクコーヒーはとびきり美味しく、ここに来たら必ず注文していた。今回ももちろん、それを頼むつもりだったので頷くと、鐘誓さんはさっそく作業に取り掛かる。

 待っている間に本でも読もうとバッグの中を探るも、目的の物が見つからない。出掛ける前に入れた気がしたけれど、気のせいだったらしい。

 暇だ。

 いつもなら瞼を閉じて、店内音楽に身を任せるものの、今日は、そしてきっとこれからも、そんなことはできそうにない。大好きな店だったのに。

 暇だ。……暇だ。

 することもないのでぼうっとしていたら、小気味良い音と共にグラスが置かれる。頼んだアイスミルクコーヒーは、既にいくらか汗をかき、私に飲まれるのを待っていた。一言お礼を口にして呷れば、あっという間に半分がなくなる。飲み心地すっきりかつとても甘く、鐘誓さんが作るもの以外はもはや飲めそうにない。

 アイスミルクコーヒーの余韻に浸っていると、妙に視線を感じ、はてと顔を上げれば、鐘誓さんがじっと私を見ていた。

 どうしたんですか、なんて訊く前に、彼女の口が開く。

「美弦ちゃんは本当に好きね」

「……そりゃあ、まあ」

 幾度も通って同じものを頼んでいたら、そんなことを言われても仕方ないかと思ったけれど、続く言葉が勘違いを正す。

「指、叩いてたよ」

 瞬間、意味もなく指を机の下に隠す。叩いていた。何を。いや普通に考えて机だろうけれど、叩いていたのかぼうっとしていた時に私は。

「美弦ちゃん好きだもんね──ピアノ」

「……」

 頷けないし声も出ない。

 好き、好きか。……好きだったな、確かに。この一月ろくに触れていないし、部屋のキーボードは埃を被っているけれど。

「あのピアノね、近所にあったピアノ教室から引き取ったの」

 言われて何となく、生徒募集のチラシや看板を見たことがあるような気がしてきた。過去系ということは、今はやっていないのか。

「奥さんが趣味でやっていたんだけど、旦那さんが不倫したみたいでね、奥さんはお子さんと出ていってそのまま二人は離婚。ピアノは、旦那さんが結婚記念に買ってくれたものだから視界に入れたくなかったみたいで、好きに処分してくれって言われたんですって。それでコーヒーを飲みに来たついでに、うちへ相談しに来て、なんやかんやで引き取ることに」

「……」

 余計なことを。

 舌打ちが出そうになって慌ててアイスミルクコーヒーを呷る。もう半分しかなかったせいか、うっかり飲み干してしまった。二杯目からは有料なのに、どうしよう。

 空のグラスを机上に置き、湿る唇に力を込めて眺めていれば、うふふ、なんて軽やかな笑いが耳に届く。

「おかわり、欲しい?」

 頷きたい。でも頼んでしまうと今月欲しい物が買えなくなる。やっぱりバイトとかした方がいいのかと、こういう時に少し思う。

 鐘誓さんは笑顔だ。そこに悪気はない。


「何か弾いてくれたら二杯目も無料にするよ?」


 だけどその言葉は、息を飲むには十分で。

「……あっ、の……最近、全然弾いてないので」

「大丈夫大丈夫、久し振りにちょっと聴きたいだけだから、猫踏んじゃったでもいいくらい」

 まさにその瞬間、子供達の誰かが猫踏んじゃったを弾き始めた。

「やっぱり違うのかな」

 なんて言いながら、私が返事をしていないのに準備を始めている。止めないと。そう思うのに何も言えない。結局私は鐘誓さんのアイスミルクコーヒーを飲みたいから。

 猫踏んじゃったが終わった後で、私の前にグラスが置かれる。頼んでもいない二杯目。求めていた二杯目。だけど口を付けることは許されない。

 飲みたければ弾かなければ。

「美弦ちゃん」

 名を呼ぶその声は求めている。

「……」

 私が腰を上げた瞬間、このお姉さんが弾くからちょっと退いてねと、嬉しそうな声が耳に入った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る