7 貉④

 未来世界は厳格な契約社会だ。どんな些細なことでも裏付けを取る―――それがたとえ一夜の交わりであってもだ。「かもしれない」は無いことと同じ意味なのだ。そして、ムジナはそんな意識の違いを見透かしたうえでニアにあんなことを言ったのだろう。


「…………じゃあ、あんたはどうするの?」

「殺せばいいじゃないですか」


 事もなげにそう言い切った。


「仕掛けてきたのはアイツですわ。向こうがやるというのなら、それに応えるまで。とてもシンプルな話ですわ」


 まるで花が美しいと言うかのように目の前の少女は微笑む。

 ニアはその笑顔を見たとき、例えようのない空隙が自分と少女の間にあるように思えた。温もりも冷たさでさえも届かない、何もないスキマ。81年間という時の流れで生まれ落ちたバケモノをニアは見つめる。


「そうね、あんたの言う通りだわ」


 それがたった一つの冴えたやり方(The Only Neat Thing to Do)というわけ、か。

 私もあの物語の少女と同じように異生物と心を通わすことができるのだろうか?


「ですわー」


 ふと、何気なく少女のスカートに目が留まる。裾の端っこ、ほとんどの裏地に近いような部分に黒い染みができている。2時間前であればきっとそれは醤油にしか見えなかっただろう。しかし、その黒はよく見ると赤みがかっていた―――。



「―――白い服を着た殺人鬼?」

「ああ、ミザントロープたちの中でそういう噂があると何処かで聞いたことがある。なんでも一人で仮想世界をダイブしていると、白い殺人鬼が現れて殺されるらしい」


 時山がその話をしたのは「神の貌」の初代所長のことを聞いて車内に気まずい空気が流れて少し経った後だった。誤魔化すようにニアが「顔無しの郷」を訪れた理由をつい話してしまうと時山はそんなことを言ったのだ。

「ネットでよくあるような怪談ですね」


 そう言いながらニアはちょっとカチンときていた。こっちはネットもまともにできずに困っているのだ。与太話と一緒くたにされたらたまらない。しかし、時山はそんなニアの本心にはまるで気がつかず、それどころ妙に真面目な顔で話を続けたのだ。


「その白い服の殺人鬼が奇妙なところは遭遇すると記憶の前後が喪われるというんだ。彼らが言うには、白い服の殺人鬼は”記憶”を殺すのだと。記憶はその人そのものだ。特に身体をプラモデルみたいにとっかえひっかえできるような今の時代ではね」

「でも、それ矛盾してません? 本当に殺されていたら、その殺人鬼のことは誰も覚えていないですよね? いいところ、白い服の通り魔じゃないですか」

「ありゃ、確かにそうだね。ははは、どうして殺人鬼なんだろう?」

「知りませんよ」



 あのときは時山が自分を怖がらせようとしたのだと思っていた。そうでなかったらやはりネットの都市伝説に尾ひれがついていたのだと。

 だが、あの話は本当だとしたら―――?


 あ、あ、あ、あ、あ、あ、あー、あ、あ、あ、 


 貸切風呂で聞いたあの声。

 あれが本当に誰かのうめき声だったとしたら?


「お姉さま、どうかされました?」

「えっ―――?」


 一つ目の少女が目の前で小首を傾げている。ふんわりと広がる髪からは空調の風に乗ってふんわりとした芳香が漂ってくる。それは決して―――、


「ねえ、イー」

「はい」

「それ」

「はい?」

「だから、そのスカートの裾。汚れている」


 指を指して場所を教えるとイーの視線が裾の汚れを捉えた。表情は変わらない。驚きも失望もなく、淡々とした表情で汚れを白くて細い指でなぞった。


「あー」


 口から漏れた感想は、ただそれだけだった。


「どうしたの、それ」

「…………」


 喉がヒリヒリと痛む。足が震えるのを必死で止める。


「血、じゃないの?」

「そうですわねえ」


 どうしてそんなにも呑気な口調なのだ? 


「いつの間にこんなものがついていたんでしょう? ああ、残念ですわ。白色度が一番高い服だったから、すごく気に入っていたのに…………」


 どうして否定しない? どうして「お姉さま、これは血ではなくて醤油ですわ」と言ってくれない?


「…………ねえ、時山を殺したの?」


 言ってしまった。もう後戻りはできない。でも、後戻りって何だ? 私は進んでいるのか、それとも止まっているのか。わからない、何も…………わからない。


「わたくしがその男を殺したと言えば、お姉さまのお気持ちは楽になりますか?」

「―――?」


 顔を上げるとイーは微笑んでいた。しかし、その微笑みはどこか哀しいものを感じるのは自分がそう思いたいからだろうか。


「今のわたくしにはお姉さまの疑念を証明する手立てがありません。その男を殺したかもしれませんし、そうではないかもしれません。お姉さまのお好きなように解釈してください。わたくしにはそれを止める権利はありませんわ」

「…………何よ、それ」

「ごめんなさい。お姉さまの味方でいることを証明できなくて。もともとわたくしはこの世界では異質な存在なのです。ましてや、時代も考え方も違うお姉さまとはあまりに―――」

「あまりに何よ? なんでそんな哀しいことを言うの?」

「哀しい、ですか?」

「だって、アンタの顔いまにも泣きそうじゃない」

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