4 顔無しの郷②
「これよ、これ! 懐かしい!」
「えー、」
AIから発する不満の声を無視してニアは漫画室に鎮座したマッサージチェアに身体を埋めた。右脇にはドリンクバーから持ってきたコーラ、左脇には山本似愛が愛読していたマンガの全巻。死ぬ前は休載ばかりで新刊がいつ出るかやきもきしていたが、今では待つ必要もない。
「あー、極楽ーっ♪」
「えー、マンガなんていつでも読めるし! こんなところでぐだぐだしてないで温泉入りに行こうよーう!」
「これだからコスパ重視のAIは。この無駄なのがいいんじゃないー」
「顔無しの郷」は玉串料によって滞在する施設のランクが変わる。最高ランクであり、山頂に最も近い壱号棟はスイスの超高級リゾートホテルを思わせるようなプライベートエリアであるが、一方最低ランクは山本似愛の時代ならどこにでもあった所謂「健康ランド」であった。
ベッドはおろか布団さえもないあの蛸壺部屋そのものの仮眠室に押し込められ、プライベートなものはせいぜい鉄製のロッカーのみ。だが、それがいい。
丁寧に清掃やメンテナンスはされているものの、マッサージチェアは今にも壊れそうだし、手に取ったマンガも焼けて黄色く変色してしまっている。きっとどこかの潰れた健康ランドから流れてきたに違いない。しかし、これらはどれも山本似愛の生きていた時代の匂いがした。山本似愛の生きた時間が確かにあった。
マンガの棚を見ると山本似愛が読んでいた、あるいは知っていた作品が並んでいる。あっさり完結している作品もあれば、思いがけず長く続いたものもある。かつての読者はどんな思いを抱いてこれらを読んだのだろうか。
「…………」
33巻を読み終えると末尾の刊行日が目に入った。
初版2016年6月3日―――たった2週間、だったのだ。
「…………凹むなあ」
現実の圧倒的な重さを改めて痛感させられ、言葉もなくマッサージチェアの中に沈む。
続きが気になるが、さりとて読む気も失せてしまったところで腹がグーッと鳴った。そういえば駅で百万石まんじゅうを食べて以来何も食べていない。マンガを棚に戻し始めるとAKIが歓声をあげた。
「…………何をなくとも腹は減る、か」
それが生きるということ。
死に意味などない。棚に収まった墓標をもう一度ちらりと見遣ってからニアは部屋を後にした。さて、今夜は何を食べようか?
お面をつけて参道を歩くと肉の焼ける香ばしい匂いが上から漂ってきた。ちなみに未来世界では動物愛護と効率の点から食されるのは合成肉だけである。過去はどうだか知らないが、現在のところはその味は屠殺されたものと(ニアには)区別がつかない。
「これは焼き鳥かー、じゅるり」
夜の花見見物をしながら焼き鳥をつまみにビールなど飲んだらそりゃ最高だろう。
「飲みすぎはダメだからんね!」
バイタルに危険な傾向を感じ取ったAKIがすかさず釘を刺す。
「わかっているよー」
ふと横を見ると仮面をつけたカップルが屋台の暖簾をくぐるのが見えた。むせるような豚骨の臭い。あれはラーメンか。
「ふー、美味かったー」
結局、替え玉も頼んでしまった。そして、餃子。口に入れた途端、肉汁が溢れ出してとにかく最高だった。この状況で生ビールを飲まないのはむしろ人類の食文化に対する冒とくであろう。
ラーメンなど山本似愛だった頃は決して食べることはなかった。口に入れた瞬間に口内炎になりそうなギトギトな脂と油の混合物が苦手で学食に近づくのすら嫌だったのに。酒もそう。一滴も飲めなかったし、研究室の懇親会など拷問でしかなかったのに。
暖簾を出ると涼風が火照った顔を撫でる。
「ちょいとごめんなさいよっと」
千鳥足で仮面の宿泊客たちの間を抜けながら参道を登っていく。無粋な眼鏡の振動が手首に巻いた巾着を通して伝わってくるが、アルコール漬けにされた脳ミソモドキはまるで気がつかない。大脳辺縁系は仕事を放棄し、ニアの思考はダイジェスト版になる。
「はー、幸せだなあー」
腹が減ったときに満腹になれば、寝不足のときにぐっすり眠れば、それだけで幸福感はマックスになる。ニンゲンとはなんとチョロいものか。
そして、温かい風呂に浸かればもう何も言うことはない。
湯舟には冷酒の瓶とお猪口が乗ったお盆が浮き、暗がりの中には雨に濡れそぼった桃の花がぼんやりと浮かんでいる。
この堕落めいた快楽の坩堝。
昔、観たアニメ映画なら豚に変えられても文句は言えないほどの自堕落っぷり。
しかし、現実は豚にはならずにこうして腹は満たされ、ほろ酔い気分で湯に浸かっている。
「ぶひー、さいこー」
最高に心地よい眠気が襲い、瞼は鉛のように重い。
意識が夢に溶け合うなかでニアはぼんやりと思う。
これで三大欲求のうち食欲と睡眠欲は満たせたわけだ。
あとは性欲が満たされれば―――。
あ、あ、あ、あ、あ、あ、あー、あ、あ、あ、
―――途切れ途切れに聴こえる調律が狂った楽器のような音、小さく、けれど、耳にじっとりと残る。まるで何かをじっと耐えているような―――。
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