マニキュア

「それでね、デレク」

 そう言ってローザさん、肩から掛けた大きなバッグから、小さなガラスの小瓶をいくつも取り出す。

 ……あれ?


「マニキュアかな?」

「マニキュアって何?」

「いや、爪に色を塗るやつだよね」

「あら。やあねえ、何でデレクは知ってるわけ?」

「え、だって。……あれ?」


 そういえばこの世界でマニキュアをしてる人を見た記憶って、……ないな。


「へえ。マニキュアって呼ぶんだ。ちゃんとした名前があるとは知らなかったけど、デレクは何で知ってるのかなあ。怪しいなあ、デレクは」


 よく見ると、ローザさん自身、薄いピンクのマニキュアをしている。


「あ、そのピンク、きれいな色ですね」

「ふふ。まあいいけど、えっとね、知らないと思って説明の準備をしてたから、とりあえず説明してみてもいいかな?」

「あ、ちょっと待って下さい」

 セーラはまだ作業中みたいだったので、リズと、手の空いているメイドを呼んできてもらう。


「お願いします」

「そもそもグラジス王国の北の海でとれる大きな貝があるのね。その貝殻を焼いてすり潰した粉は真っ白で、これに顔料を混ぜて絵の具とかに使われていたのね」

「なるほど」

 きっとホタテ貝だ。粉は炭酸カルシウムとかだっけ?


「で、これを輸入して使っていたラカナ公国で、この粉に丈夫な被覆を作る溶剤を混ぜて家具や装飾品の塗装に使うことが行われるようになったんだけど、つい数年前から、これを爪に塗るのが一部の女性たちの間で広まってたのよ。爪の保護にもなるし、可愛いし」

「へー。溶剤は臭くないのかな?」

「水溶性の溶剤を使う技術が開発されてて、それほど臭くないわよ」

 あれ? 優馬の記憶ではマニキュアって有機溶剤を使ってなかったっけ?


「爪に塗って、乾くまでどのくらい?」

「10分もかからないわね」

「へえ……。落とす時は?」

「お湯かアルコールで落ちるわよ」


「ラカナ公国では一般的なわけ?」

「まだまだ。そもそもは工芸とか建築用の塗料を、半分は遊びで爪に塗っていたわけで、これを本格的にファッションとして広めよう、というのがこの小瓶の狙いなのね」


 見ると、色は濃い赤から薄いピンク、白、黄色、水色などさまざまである。


「どこで作ってるの、これ?」

「ラカナ公国のトゥイソールという町ね」

「……どこ?」

「えーとね、グランスティール家の屋敷があるサーマストンから南に行ったあたりね」

「グランスティール領なのか」

 サーマストンさえ行ったことはないから知らないのもしょうがない。


「そこの、もともと塗料を作っていた工場なんだけど、この前あたしがサーマストンに行った時にそういう話を聞きつけて、製品化を進めていたわけ」

「それ、随分前じゃなかった?」

「この小瓶を作ったり、売れそうな色を調合したりするのに時間がかかったのよ。これをサグス商店の持っている香水や香油の販路で売ろうという計画ね」


「これ、たくさんある?」

「今、手持ちはここにあるだけだけど、明日にはミノス川の船便で木箱にいっぱい来るわよ」

「うまい販売戦略を思いついたんだけど」

「え、どうするのよ?」

「エヴァンス伯爵家のフローラの誕生日のパーティーがすぐ数日後にあるんだけど、誕生日プレゼントが思いつかなくて困ってたんだ。これ、絶対いいと思う」

「ほほう」

「その場で、これが新しい流行ですってお披露目したらいいんじゃないかと」


 ローザさんも乗り気。

「それはアリね。普通の女性は水仕事とかが多いから爪にお化粧とかする機会はあまりないかもしれないけど、貴族のお嬢さんなら日常的にしてもおかしくないわね」


 そこでまず、その場にいたメイドたちに試験的に塗ってみてもらう。

「爪が真っ赤って、なんか凄い」

「ほら、ちょっと別の色を塗り足すと面白い」

「あたし、この薄いパープルがいいなあ」

 結構好評である。


 そこへ、原稿の作業を終えたセーラも出てくる。

「ね、セーラ、これ見てよ」と、リズが青く塗った爪を見せる。

「え? 何これ?」

「フローラの誕生日プレゼントにどうかと思うんだけど」と説明する。


「なるほど。フローラはこういうの好きそうだからいいかも」


 評判はいいが、少々問題も。ローザさんが言う。

「でもね、サグス商店の販路で売ろうということになると、聖都はちょっと弱いのよ」

「そっか。聖都には系列店が少ないのか。まさか練炭と一緒に売るわけにはいかないもんな」


 するとセーラが提案。

「ほら。フリージアに頼んでみたらいいわ」

「あ、プロデリック家は貿易とかやってるって言ってたな」


 フリージアのことはローザさんは知らないわけだ。

「え? 誰? プロデリック家の知り合いがいるの?」


 そこでフリージアも呼んできてもらって、マニキュアを試してもらい、プロデリック家が持っている販路で販売できないか聞いてみる。

「あたしは実家の商売にはタッチしていませんが、聖都にある系列店に知り合いがいますから、紹介できると思いますよ」

「是非、お願いします」


 あとは、フローラにどうやってアピールするか、かな?


 夕食時。

 「マスター」こと大統領のピンチを救ったというので得意満面のアミーとジャスティナに対して、ずっと街道を馬車で移動していただけのノイシャ。

「なんであたしだけそこにいなかったんでしょうねえ」としきりにぼやく。


「巡り合わせというか、少々運がなかったというか、かなあ」と言葉をかけるものの慰めにはならないわけだ。

「これはもう、特別ボーナスがないと精神的に耐えられません」

「特別ボーナスは何がいい?」

「じっくり考えさせてもらいます」


「でも、ローザさんとは仲良くなれたんじゃないの?」

「まあ、何日もずっと一緒でしたからねえ。かなり親しくなったのは確かです。で、あの人、勘が鋭いですから、デレク様のあれこれを薄々知ってますよね?」

「あー、そうかも」

 さらに、オーレリーに関わるあれこれも知っている。


「そういえば、昨日、ランガムに立ち寄ったんですけど、気になることが……」

「何?」

「えっとですね、多分親衛隊の制服みたいなのを着て長剣を持った連中が商店街あたりでウロウロしてましたね」

「親衛隊って、国王直属だからランガムは関係ないよね?」

「でも5、6人いましたね」


 ちょうど一緒に夕食を食べていたチジーが言う。

「えー? それって、ミドマスと同じような状況ということかしら?」

「まずいなあ。嫌な予感がする」

「ランガムって交通の要衝でしょ? ミドマスとランガムに拠点を作ることで何かをしようとしてるのかな?」

「こちらもランガムに諜報部の拠点を置くとか、対応に乗り出すべきだろうか?」

「そうですね。検討した方がいいですよ」


 そこで夜のうちにイヤーカフでセーラと相談して、次の日の午前中にエヴァンス伯爵邸に出かけることにした。


 エメルに馬車を出してもらって、まずラヴレース邸でセーラを拾う。

 馬車の中でセーラが言う。

「あのね、今朝スートレリアから連絡があって、2月15日にミドマスに迎えが来ることになったわ」

「あー。いよいよかあ」

「デレクとはしばしのお別れということね。ああっ! 淋しいわ」と大げさなセーラ。

「まあ、会いに行くんだけど」

「ふふふ」


「で、同時にスートレリアの海軍から連絡があって、フィロメナたちが30日にミドマスに到着の予定だというのよ」

「ほう。そうなると、誰かを護衛で迎えにやった方がいいよね?」

「そうね。スキルのこともあるし、多分知らない土地で心細いでしょうし」

「シナーク川を下ればその日のうちにミドマスに着けるから、29日に誰かを派遣したらいいな。パトリシアと、万一のことを考えて、イヤーカフで通信ができるダガーズの誰かを派遣するか」

「その案が良さそうね」


 エヴァンス邸に到着。伯爵夫人のソフィーが対応してくれる。

「あら。2人して朝からどうしたのかしら」

「今日はおじさまは?」

「今日は例のナリアスタ大統領の件でまた会議があるらしいのよ」

 まだ余波がいろいろあるらしい。


「実はですね……」

 ミドマスで管轄外の親衛隊の動きがある件、ランガムでも親衛隊を見かけたという情報があることを伝える。

「へえ。……つまり、王宮とか内務省あたりが、あたしたちに知られないような怪しい動きをしているということ?」

「そうです。親衛隊は国王直轄という話ですから、集団でランガムにいるという時点で、もうおかしいわけです」

「何が目的かしら?」

「具体的に何をしようとしているのか分かりませんが、ミドマスに関しては、ロックリッジ家と連携して情報を密に交換することで動きはじめています」


 セーラも状況を説明してくれる。

「マリリンがすごく心配して、ミドマスについては国境守備隊や警ら隊から精鋭を抜擢して、情報を集めるために動いているのよ」

「マリリンが自分で動くというのはよっぽどのことね。ちょっとあたしだけでは判断しかねるから、ルパートとアンソニーにも話しておいてみるわ」

「よろしくお願いします」


 話が一段落したところで、部屋の入口からミシェルが覗いているのに気づく。

「セーラとデレクは何の用なの? もしかして結婚?」

「いや、セーラは今度スートレリアにしばらく行く予定があるから、結婚はまだちょっと先になるかなあ」

「なーんだ。つまんないなあ」

「これ、ミシェル。お行儀が悪いですよ」


 するとミシェル、セーラの爪が色が光沢のあるピンクに塗られているのに目ざとく気づいてしまう。

「あ! なにそれ、ちょっと可愛いじゃないの」

 ソフィーも気づく。

「あら、ほんと。綺麗な色ねえ」


「うわ! しまったなあ」

「え、どうして『しまった』なのよぉ」


 セーラ、そこで初めて失敗に気づく。

「あ。ごめん、デレク。うっかりしてたわ。綺麗だからもうウキウキして塗ってきちゃったわ」


「実は秘密にしておいて欲しいんだけど、フローラの誕生日プレゼントに考えているんだよ」

 するとミシェル、ちょっと悪い笑顔で言う。

「いいわよぉ。秘密にしておいてあげるから、それ、あたしにも頂戴ね」

「あ、うん。それはもちろんだよ」

「うわ、楽しみぃ。ねえねえ、それって色はそれだけ?」

「白からピンク、濃い赤まであるし、青や黄色とかもあるわ。それと、1つの色だけ塗るんじゃなくて、違う色を重ね塗りしたりもできるのよ」とセーラが教えてくれる。


「それ、どこかで売ってるの?」

「いや、聖都ではこれから小売してくれるところを開拓する段階だよ」

「ということは、他の人たちはまだ知らないわけ?」

「そうだね、ラカナ公国のごく一部の人たちの流行だから」

「ふふふ、それはますますいいわねえ」


 まだ誰もやっていない新しいお洒落、というところがグッと来たらしい。

 これはなかなか、期待が持てるんじゃないかな?

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