賃貸契約

 数週間前。


 宿舎から出て一人暮らしをしようと考えた俺は、商店街の近くに安いアパートなんかがないか、不動産屋に出かけて調べていた。近くに飲食店があれば、食事の心配はあまりしなくていいからね。


 ある日、商店街の近くの裏通りに、長年使われていない感じの事務所があるのに気づいて、不動産屋に聞いてみた。


「あそこですか。建物はしっかりしていて状態も悪くないんですが、何ぶん裏通りなものでねえ、商売ごとには向いていないので借り手がつかないんですよ」

「元は何だったんですか?」

「あれは確かねえ、設計事務所だったんですな」

 なるほど。設計事務所なら表通りで客を呼び込むような必要はないからな。


「設計事務所、なくなっちゃったんですか?」

「ほら、5年ほどに悪い風邪が流行った時。あの時にご主人が亡くなってねえ」

「ああ。なるほど」


 この世界の医療はそれほど進んでいないので、多少の病気でも死んでしまう。

 平均寿命は50歳そこそこではないかと思う。


「あそこの大家さんは誰?」

「えーっとねえ……コンプトンさんですな」

「え? コンプトンって、ウチの実家の警備担当の?」

 驚く俺。


「コンプトン家がなんで?」

「あそこ、元々は隣の倉庫と一緒の物件だったんですが、昔は軍関係の備品倉庫とか、詰所として使われていたんですな」

「え、じゃあ借りるときは倉庫が付いてくるの?」

「借り手がつかないので今は別々に扱ってます」

「なるほど。……じゃあ、賃料はコンプトン家に掛け合ったらいいかな?」

「そうですな。では、一応書類を用意します。契約が成立したらここにあります割合で手数料の支払いをお願いします」

「了解。結局借りないことになったらその時も連絡しますよ」

「よろしくお願いします」


 ということでコンプトン家へ。

 コンプトン家というより、俺としては数年前まで通っていた体術の「道場」である。

 道場は、守備隊の詰所から俺の実家の方角にちょっと歩いたあたりにある。


「こんにちはー」

 道場は普通は午後からなので、午前中は人がいない。

 裏手の屋敷の方へ行ってみる。

「こんにちはー。誰かいませんかー」


 ドアが開いた。

「はい。あれ? デレク」

「あ。ケイ」

「今日は非番なのに何の用?」

「実はコンプトンさんのところで持っている不動産を借りられないかなあ、と」

「はあ?」

 怪訝な顔のケイ。

「そうだよね、知らないよね」


「あれー、デレクくんじゃん。どしたの、今日は。デートのお誘いかなあ?」

 ケイの後ろから出て来たのは、姉のローザさん。

「あ、どうも」

「で、何、不動産とか言った?」


「商店街の裏手にある事務所と倉庫がコンプトンさんの持ち物だと聞いて来たんです」

「ああ、知ってる。あれか。うんうん、まあ立ち話もなんだし、入ってお茶でも」

「はあ。お邪魔します」

「しかしデレクくん、こういう時は嘘でもいいから手土産を持ってくるものだぞ」

「ああ、確かに。失礼しました」

 相変わらずズバズバ来るなあ。


 応接室に通されて、ローザさんに用件を伝える。ケイがお茶を持ってきてくれる。

「つまり、もう宿舎暮らしは嫌だから、どこかに適当な住処を探している、と」

「まあそういうわけです」

「ご飯とかどうすんのよ?」

「あのあたりはテイクアウトの店が何軒もありますし、結局帰って寝るだけという日も多いですから」

「じゃあさあ」

「はい」


 付き合いの長い俺は知っている。ローザさんが「じゃあさあ」と言った時は危険だ。


「ウチに居候したらいいじゃん」


 部屋を出ようとしていたケイが吹き戻しみたいに戻ってきた。あ、ちなみに吹き戻しっていうのはお祭りなんかで売っている、別名ピロピロ笛のことね。


「ちょっと、姉さん。何言ってんのよ」

「えー、いいアイディアだと思ったんだけどお」


 俺も慌てて否定する。

「いやいや、さすがにそれはダメでしょう。嫁入り前の娘さんが2人もいるのに」

「ふふ。そうねえ、下手なことをしたらウチのパパに殺されちゃうわね」

 怖いことをさらっと言わないでください。冗談じゃ済まなそうなところが怖いです。


「でも、責任さえ取れば何の問題もないわよ」

「あのー。事務所を借りる話がしたいんですけど」

「ちぇーっ。……そうねえ、実質タダでいいわよ」


 え、何でそんな話になるのか。

「そんなことしたらお父様に怒られるでしょ?」

「うん、実はね、隣に使っていない倉庫があるじゃない」

「ええ」

「あそこを、あたしが使いたいと思ってるんだ」

「え? 何に?」

「あたしね、今、隣のラカナ公国とか、さらに隣のゾルトブール王国から食品とかを輸入する商売を始めようと思って準備してんのよ。秘密だけど」

「……誰に対して秘密なんですか」

「あちこちに大っぴらに吹聴して、結局コケたらかっこ悪いじゃない。だから、軌道に乗るメドがつくまでは秘密というか、あまり表沙汰にしないで動きたいわけ」

「資金は誰が出すんですか?」

「それはね、大丈夫なのよ」

 なんでも、コンプトン家に恩義のある商家や武具関係の輸出入業者が、ある程度バックアップしてくれるらしい。大丈夫か、それ。


「で、うまく行ったらその倉庫を物品の保管場所にする予定なんだけど、うまくいく保証もないからまだ管理人を雇う段階でもないわけね」

「もしかして、管理人をやれ、と?」

「いやいや、例えば誰かが訪ねてきたり、それとかメッセージを残して行ったら知らせてくれるだけでいいのよ。とにかく、そこに来た人が、ここは空き家じゃなくてローザ・コンプトンが何かしている拠点らしい、と分かってくれればいいわけ」


 なんか電話代行業者みたいだな。


「国境検問所の勤務の時は4日間、というか、正味3日いませんけど」

「逆に、3日すれば必ず戻ってくるでしょ?」

「まあ」

「空き家になってるより全然いいのよ。さりげなく洗濯物を干したり、入り口に花なんか飾るとさらにいいかなあ」

「逆に、商売が軌道に乗ったら、俺は追い出される方向ですか?」

「デレクくんは1部屋あればいいんでしょ? あそこは事務所のスペースと居住スペースが別になってるし、部屋はいくつかあるから、しばらくは大丈夫」


「デレクは一人暮らし?」とケイが質問。

「そのつもりだけど」

「お屋敷から可愛いメイドの2人や3人、回してもらったらどう?」

 ローラさんがニヤニヤして聞いてくる。


「それはできませんね。宿舎から出るのも、親父に掛け合って、実家からの援助はなし、という条件で認めてもらったので」

「うーん、でもあそこはしばらく住んでいないから、改修とかが必要と思うよ」

「改修は大家さんがやってくれるのがスジでは?」

「あ、そっか。ふむ」

 ローザさんは少し考えている。


「よし、改修の費用はこちらで出すことにしよう。まあ、結局、デレクの実家持ちになる予感がするけどね」

「は? それはどんな魔法……」

「ふふふ。親父同士の密約を実は知っている、という名前の魔法だ」

「は?」

「姉さん、悪い顔」


「じゃあ、その条件で……」

「それと、あたしも時々そこの事務所スペースを利用したいから、入り口の鍵は共有ね。デレクくんが使う住居スペースには別の鍵を付けてもらって結構よ」

「はい」

「ケイも時々遊びに行くでしょ?」

「ちょ、姉さん、あのね」

「そんなに怒らなくてもいいじゃない」

「怒ってなんか……」


 ……というような顛末で借りたのが今の事務所なのである。


 不思議なことに、確かに、改修とか家具の手配とかの費用は俺の実家のテッサード家で出したと聞いた。


 ローザさんって、実はすごい魔法使いなのか?

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