第16話 俺は今からお前を殴る

 尻毛は目を輝かせて言った。生き生きとした笑顔、高校時代に俺たちには見せたことのない笑顔だ。


「あっ…」


 とだけ言うと西松は沈黙した。


「黒薔薇婦人は来ました?」


 黙り込む西松に代わり、俺が尻毛へ声を掛けた。


「僕は彼女のリサイタルを心待ちにしているんですけどね、もうずっと姿を見せてくれないんですよ」


 尻毛は悲しげな表情を浮かべた。


「せっかく用意した花束もご覧の通り」


 と尻毛は俺たちへ何かを包んでいたような丸めた包装紙を見せた。

 尻毛は今、花束と言ったが包装紙の中には花らしきものは無い。何やら茶色く細長い物が見える。

 干からびて劣化、退行したような物だ。

 このかつて花束だったものはどれだけの時間が経っているのか。

 尻毛はどれだけ黒薔薇婦人を待っているのか。

 それを思うと心が痛む。

 そんな尻毛の様子を見た西松は蒼ざめていた。


「西松、出るぞ」


 と小声で言うと西松は小さく頷いた。


「尻毛先生、せっかく再会出来たのに残念ですが、僕たちはこれから用があるのでここで失礼します」


「そうですか、それは残念ですが仕方ないですね」


 そこで俺の脳裏にある事が閃いた。


「それはそうと先生、入間川高校が移転して廃校になったと聞いたのですが」


「ええ⁉︎誰からそんな話聞いたの?入間川高校は移転していないし、廃校にもなっていないですよ」



「尻の奴、何言ってるんだ」


 サンデーサンを退店したと同時に西松は振り返り、そう言った。


「入間川高校は移転していないし、廃校にもなっていないって。

 これはどういうことなんだよ、俺たちが夜中に狭山湖近くで見たあれは入間川高校じゃなかったのかよ。

 一体、何なんだよ」


 まるで堰を切ったかのように西松は話した。


「そうなんだがな、西松。不可解な事はそれだけではないんだ」


「なんだよ、風間。まだ何かあるのか?」


「あぁ、俺たちが栗栖の恋に付き合わされた日の事だ。

 黒薔薇婦人が店内でリサイタルをしていた話をしただろ?」


「うん」


「リサイタル中に尻毛が店内にやって来て、リサイタルが中断したのだ」


「それで?」


「何を言っていたのか覚えてはいないのだが、尻毛は黒薔薇婦人に何か問い詰めていた。

 そこで黒薔薇婦人は何も言わずにどこからか拳銃を抜いて、尻毛の額を撃ち抜いたのだ」


 西松はその細い眼を見開き絶句した。


「その日の尻毛も今日と同じく、タキシードを着て花束を持っていた。

 確か薔薇の花束だったと思う」


「あの花の無い花束は」


「その日のものかも知れない」


「西松は尻毛のタキシードが傷んでいて、肩に凄い量のフケをのせていたことに気付いたか?」


「それそれ!あれ凄かったよな!臭いもしてたよ!あの席に案内された時からなんか臭えと思ってた」


「俺は臭いまではわからなかったが、尻毛はあの日からずっとあの席で黒薔薇婦人を待ってるのかもしれない…」


「でも尻毛は黒薔薇婦人に額を撃ち抜かれていたんだろ?

 まさか、あれは尻毛の地縛霊だったとか」


「それは考えられない」


「なんでだよ?」


「俺たちと同じだ。

 俺たちは生きている。尻毛に同じ現象が起きていても不思議ではない」


 西松は身体をピクリとさせた。


「俺の事は別としても、少なくともお前は大量に流れ出た自分の血の海の中に沈んでいた様を、俺は確かにこの眼で見た。

 だから尻毛が生きているとしても不思議ではない」


 西松は黙り込み、やがて身体を小刻みに振るわせ始めた。


「なぁ、風間」


「なんだ」


「俺たち、本当に生きているのかな?本当は俺たちみんな死んでるんじゃないのか?」


 今にも消え入りそうな小さな声で西松は言った。

 思わず西松を見ると、その眼は涙ぐんでいた。


「生きているだろうよ。これが死後の世界にでも見えるか?おかしな事ばかりだが、俺にはこれが現実にしか見えない」


 西松は何か思い詰めたような表情を見せた。


「風間」


「なんだよ?」


「俺を思い切り殴ってみてくれ」


「なんだってぇ?」


「俺を思い切り殴ってくれ。俺が死んでるんなら痛くないだろうし、これが夢なら痛くて目が覚めるはずだ」


「何を言い出すかと思えば…」


「いいからやってくれ」


 確かに西松の野郎を殴るのも悪くはないな。

 俺は西松に愛用していた銀英伝のTシャツを破かれたことがあったからな。

 俺はそれを許したわけじゃない。

 こいつは“渡りに船”ってやつだ。


「よし、いいだろう」


 俺は斜め下へ伏し目がちに西松から視線を逸らす。

 そして俺は一気に西松へ流し目加減の視線を送り、


「俺は今からお前を……、殴る」


 握り拳に力がみなぎる。


「頼む」


 西松はそう呟くと瞼を閉じる。

 と、思ったら急に眼を見開いた。


「ちょっと待ってくれ、思い切りじゃなくて8割、いや7割ぐらいの力でっ」


 その時、既に俺は殴る態勢へと移っていた。


「黙れーーっ!」


 電光石火の如く、大気をつん裂くうなりをたてて、俺の拳は西松の顔面に伸びる。

 俺の右の拳は西松の頬を捉え打ち抜くと、西松はその威力にもんどり打って倒れた。


 西松は唸り声をあげる。


「7割って言ったじゃないか」


 西松はそう言いながら、頬を抑える。


「そんなもん、調節出来るものかよ」


 と言ったが、仮に調節出来たとしても、そんなことはしない。


「痛いか?」


 と言いつつ、俺は右手を差し出す。


「痛いに決まってるだろ!」


 と言いながらも西松が俺の手を掴むと、俺は西松を引っ張り上げ、立ち上がらせる。


「でも俺は生きてる。しかもかなり痛い。これは…、夢じゃない」


「だから言っただろ、これは現実だって」


「うん。俺たちが生きていることにはなんとなく確信が持てたけど、まだ納得出来ない。

 なんで俺たちや尻毛は生き返り、今更生類憐みの令が復活しているのか」


「納得出来ないのは俺も同様だ。

 だから謎を追うんだ。

 まずは入間川高校へ行くぞ」

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