地獄の椅子に座るのは──俺だ!!
勘助ノスケ
プロローグ
いつもの通りに仕事をこなす。いつもの場所、いつもの面子、いつもの……。
何も変わり映えしない日常でそれは突然に起きた。変わり映えのしないことに業を煮やしたのか、それまでに積み重なった物が噴き出すように響き渡る音。それは朝の目覚めを促す音のように、場面転換の際に切れる照明の音のように、仕事場の空気を一瞬にして変えた。
──ぷしゅっ。
定時にもなっていない上にここは仕事場。
自分は缶の酒を真っ先に思い浮かべていた。
まさかなと思い注意するつもりは無くもなかったが、誰なのかと視線を向けた矢先に傾く職場の光景。
瞬時に疲れているのかと考えたが、その範疇を優に超えている。
職場の光景が真横に傾いた時、自分がその場の床に転んでいると自覚できた。
なんだこれ?
そう思ったのを最後に視覚聴覚触覚それらが遠く薄く鈍くなっていった。
真横の光景をそのままに後ろに引かれる感覚。
訳も分からない自分は、この時一つだけ直感的に分かっていた。
終わりだな。
それだけが心に浮かんだと思った後にすぐ、次の事に心が変わると心の中で唱えるように汚い口調で呟いた。
うまくいかねぇな。
仕事には特に不満はなかった。
全くに無かったとは言えないが、ある程度の年数を一か所で働き続けて慣れてしまった自分にとって新たな変化をもたらす事の方が今時分には辛いだろうと言う思いが心の中の殆どを占めていたのでないと言えた。
新人の頃は辛い事ばかりで辞めたいという思いが心の過半数であったが、忙殺される日々の末に保守派が優勢になって、初心を忘れた自分に大きくとも小さくとも変化を受け入れるという考えは、いつしか重くなった腰によって踏みつぶされては全くの白紙となっていた。
そんな矢先の──変化。
忘れていた事の全てが自分の中から解き放たれていく感覚が職場に広がっていく。
自分の全ては動脈から噴き出した血のように勢いよく出て留まる事を知らない。
感覚が薄れていく中、広がる全ては職場一杯に満たされても尚も出続けてその内壁を圧し壊す。その清々しまでの広がりは自分が解放されていく感覚が強く、如何なる快楽よりも心地いい。
外の、何処までも広がる世界に知らしめるように広がり続ける感覚は征服欲も満たしていくと永遠にすら感じられた。
しかし、広がるにつれて薄まっていく自分という個の存在。
それに気付くころにはどうでもよくなった気持ちに満たされていて何も思わなくなっていた。
ただただ気分がいい。
胸に詰まっていたものがスーッと消えていくような、数多ある表現の一つを用いてもそれが合っているとも間違っているとも無く、全てが肯定的で心地いい。
いつまでも続くこの感覚に、終わりの心配は全くに起きない。
ただただ気分がいい。
それだけが心を支配すると、その裏で陰りを見せた。
太陽の下で白い雲が広がるとそのその白さを際立たせるが、同時に裏には日を遮られて黒くなる部分がある。
薄れ行く意識下にその黒い部分は捉えられない。
自分の死に気付く事はなかった。
流れて行く光景をぼうっと見つめながらも自分の過去を思い出していた。
その中でも特に上手くいかなかった物事が思い出された。
偏る事をよしとしない自分はいい塩梅を望んだが、それすら及ばず殆どが悪く働いていた。
物心つくころに頭の中で優先されていたのは比較だった。
周りに比べて自分はどうだろうか。
周りが出来る事が自分だけ出来なかった事をよく覚えている。
園児の頃の事、その時は運動場でただ縄跳びをするというだけの事だったがそれが上手く出来ずにいた。難しい事を要求されているわけではなかったにも拘らず、周りの子が出来て自分だけが出来ない事に当時は凄く焦りを覚えたものであった。
実際は自分だけが出来ないわけではなく、他にもできない子がいたかもしれない。
その時分にその考えには至らなかったので本当の事は分からないままとなった。
次に思い出したのは小学生の頃の事だった。
国語の授業での事で、漢字を覚える事が苦手でなかなか覚えられなかった事が思い出された。大人になった今では手書きで文字を書く事がめっきり減ったので困る場面は減ったが、たまに手書きしなければならない場面に直面しては当時程ではないものの焦るばかりだ。
小学生の時分に苦戦した事は他にも沢山あるが特に思い起こされたのは算数の時間を使った問題だろうか。今にしてみれば何処に躓いたのかすら思い出せないが、当時の自分には難しかったという記憶ばかりが残っていた。
思い起こされた事柄の「なんだ、そんなことか」と思えるそれらも人によって違う尺度の中で考えれば「肯定的」にも「否定的」にもとる事が出来るだろう。しかし、当時の自分には大きな問題に思えていたのは間違いなかった。
これらの事に躓ては立ち止まり、他者よりも時間をかけて成長した自分だからだろうか、中学生になるころには「どうせうまくいかない」と高を括って初めからやる気を持って取り組むという事が出来にくくなっていた。
大人になった自分の客観的な考えは、幼少期の成功体験が乏しかった事が原因だろうと今になって思う。なので、中学生の多感な時期も手伝って成績というものは良くて中の下くらいとなっていた。この成績の内訳も、苦手なものと混在する得意なことが稼いでこの辺りの成績に留まっていた。
中学生当人には「そんな馬鹿な」と思える事だがこの時の頑張りが後の高校、大学と反映されてひいては就職の良し悪しにも反映される。
これは紛れもない事実で、自分の住む国ではこの流れが絶対的なところがあり、これに外れては負け組と言われる。
ともすれば腐ってしまいそうになる機会がとても多い多感な時期に人生のすべてが詰まっているのだ。今になって思う事は「詳しく教えてくれよ」この一言に尽きると思えた。
社会人に成る──という事は精神年齢に拘らず時の流れがもたらす事だが、これは勿論に自分にもそうであった。
世間的に見てなんとか人並みの大人に成れただろうか、自分も社会人として小さい会社で仕事をしていた。苦戦することの多い自分でも時間の経過がゆっくりにも成長させる。
そんな自分が三十路を過ぎた頃、客観的な視点を持つに至っていたが、しかしながら未だにその視野は狭くまだまだ分からない事だらけだ。
そんな中でも小さくも出来る余裕の感覚。その感覚の中にいたっては物思いにふける自分を見る。
他者からもたらさられる情報から考える事は同い年の結婚が特に多いだろうか。
それに付随して次に多いのが収入の多さであろう。
さらにそれに続いて聞こえてくる事は一流企業に入った同期の者が役職付きになった事、昇進の事であった。
知り合い伝いに聞こえてくる情報は事欠かないが、先述の通りにやる気に欠ける自分には気にも留めない情報だった。
比較をよくした幼少期を経て諦めに落ちついた自分にとって考えこそすれ、今の自分を変えるには至らないものであった。
しかし、考える事は嫌いではない。
妄想に近いが、過去の自分に戻れたらと考える事は多々ある。
もしもあの時、ああしていれば、といった感じだろうか。
妄想は自身の自由にできる、現実でもできる最高の世界構築だろう。
その中でも、現実の事柄と密接に繋がりが考えられそうなものが題材に上がりがちだ。
よく考える事が、高校の頃から声を褒められることが多かった事だ。
現実でも大学に行きつつ声優を目指してみてもよかったのかなと考える自分は、もしそれを目指していたらとよく妄想する。
まず始めに当時よく見られた趣味の雑誌の広告欄にあった、素人発掘的なものだ。
実体は分からないが、オーディションを受けてそれに受かれば声優の養成所を経て事務所に入れるといったものだ。
ここから先は妄想であるため上手くいった人生のそれで、楽しいの全てが詰まっていた。
しかし、現実の自分はその道を選ばなかった。それはひとえに当時の自分の自尊心の低さからで、当時の自分は挑戦してみようなんて微塵も思わなかった
そういった事から妄想の殆どは非常に挑戦的な自分についてが多い。
そして決まっていつも妄想の後の着地点は
「何か一つでも、物凄く小さな可能性でも人生をかけるぐらい挑戦してみたかった」
これに終着した。
経験則からくる持論だが、二十代のうちに挑戦したことの結果が伴ってくる奴は化物級に運がいいか、或いは早い段階から人生をそれ一つに捧げた奴だろう。
大体の人生は二十代は下積みに費やし、三十代から結果が出てくると思っている。
前者は自他共に認める何かがある、いわゆる才能の持ち主だろう。
見た目の良さは勿論に、賢い頭を持っていて加えて運自体も良い。それ故に物事の好転具合が異常で負ける事が難しく、もし負けてもそれは糧になって終わる。
後者は努力家だと思っている。堅実的で遅かれ早かれある程度以上の結果を残す。
一見すると面白みのない人生を送っていそうだが、成功も失敗も手前の考え得る範囲内に収まるので地道ながらも成功へと辿り着く。
こういった事に三十路を過ぎた今の自分は気付いたが、特に何かをしていたわけではない自分には「遅すぎる」の一言に尽きるが、もしも挑戦的な自分が失敗して躓いた時にはこう言ってあげたい。
若いうちに、結果が出ないことで悩む必要はない。
しかしながら最近になって気付いた自分にその機会はなく、自己にも他者にもそれを言う事は訪れなかったと同時にこれからもそれはないと言える。
気付きとは挑戦者に優先権があるものらしい。
早く知りたかったなと思う反面、それは無理だっただろうなと思う。
無気力な人生でも挑戦が全くに無いわけではない。
小さいながらも、数多の挑戦が驚異的な運の悪さによって失敗に終わっていたのだ。
──神に拒絶されている。
そう思えてならなかったが最早どうでもいい、そんな人生ももう終わるのだから。
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