第36話 1日前 パーティ前日 貴重書架
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「では、私の話の前に、アレシアさんから話を聞かせてもらってもいいかな?」
正面に座っているアレシアに問いかけた。
彼女が聞いたという、ふたりの噂。
俺がリュシエンヌに気を遣っている? そんな話を吹き込んだのは誰なんだ?
アレシアは、美しい姿勢をさらに正して口を開いた。
「わたくしが、この図書館に初めて来た日のことを覚えていらっしゃいますか?」
「ああ、もちろん」
「あの時、グレイス館長の紹介で、セレーネに館内を案内してもらったんです」
それももちろん覚えている。
大きく頷くと、アレシアも俺の目を見て頷き、続けて話した。
「一時間くらいかけて、館内の案内をしてもらいました。そして元の場所に戻ったとき、突然『さっきはごめんなさいね』ってセレーネに謝られたんです」
「……?」
「わたくしも意味が分からなくて、何のことって聞いたら『リュシエンヌよ』って……」
何故だかわからないが、胸を急に強く押されたような感覚を覚えた。
セレーネがアレシアに? 意味が分からない。
「わたくしは気づかなかったのだけど、セレーネが言うにはリュシエンヌさんがわたくしを無視したと言ったの。彼女はすっごく嫉妬深いから、きっと怒ってるんだわって……」
ここまで言い終えたアレシアの表情は、浮かないものだった。
アレシアにとってセレーネは、この国で初めて仲良くなった友人だ。
しかも、目の前にいる俺の婚約者に関してのあまり良くない内容……話しにくいのは当たり前のことだ。
「アレシアさん、君の話に私は怒ったりしない。ただ、何を聞かされていたかを知りたいだけなんだ。だから、気にしないで話してほしい」
アレシアはこちらに向かって、困惑と不安が混ざったような表情を見せた。
右手で喉を押さえている。喉が渇いているのかもしれない。
「少し待っていただけますか?」
貴重書架には飲食物の持ち込みは禁止されているが、作業をするために、蓋つきのガラス瓶を一本のみ、持ち込みを許されている。
作業机にあるガラス瓶からグラスに水を移し、アレシアに差し出した。
「水で申し訳ないですが、どうぞ」
「ありがとうございます」
アレシアは受け取ってすぐに水を飲み干し一息ついた。唇をハンカチで軽く抑えると、こちらに向かって頭を下げた。
「今ので落ち着きました。続けますね……それから、わたくしは毎日図書館に通うようになり、帰りにはセレーネと話すようになっていました。彼女はとても頭が良く、話題も豊富で他の図書館にいる人たちからも信頼されているのがわかりました」
確かにその通りだ。アレシアが言うことに全く反論する気はない。
「ですが……あなたの話になると、とても辛そうでした。そしてわたくしのことをとても心配していました」
「心配?」
アレシアは俺の問いかけに、まっすぐに瞳を見つめて頷いた。
「はい。絶対にリュシエンヌさんと二人きりにならないでほしい。彼女は、他の人にわからないように嫌がらせをしてくる。自分の思い通りにならないと機嫌が悪いの、特に女の人には……と。もし、リュシエンヌさんと会う場合には、必ず私も一緒に! とも言われていました」
ああ、まるで今の俺とリュシエンヌと同じ状態だ。
リュシエンヌとアレシアを接触させないようにする、そして会わなくてはいけない状況の場合は必ず俺がいる……。
だから、アレシアとリュシエンヌは二人だけで会うことがなく、セレーネの嘘がバレなかったのか。
それに、セレーネだけから話を聞いていたら、俺達の行動は不自然に感じられただろう。余計にセレーネの話にも信憑性が出る……。
無意識に最悪の状態を作り出していたわけだ。
「じゃあ、君がリュシを見つめていたのは……」
「それは、本当にごめんなさい。わたくしに見えていたリュシエンヌさんは物静かな方で、セレーネから聞いているようには全く思えなくて……この人が嫌がらせやわがままを? って疑問に思いながらも……ううん、やっぱり疑ってたのね。それにルドウィクさんが、とても彼女に気を遣っているというか、何か違和感があったから……」
「違和感?」
「ええ。だってセレーネと話しているあなたはとても自然に見えたもの。だから、セレーネから、本当はルドウィクと私は婚約するはずだった、リュシエンヌに横取りされた。わがままで家を巻き込んでの騒ぎになったと聞かされていて……」
「ちょっと待ってくれ!」
思わず席から立ち上がってしまった。
アレシアが体をきゅっと固くするのがわかった。
セレーネのわけのわからない嘘を、なんとか我慢して聴いていたが、今のはさすがに無理だ。
俺とセレーネが婚約!? リュシエンヌに取られただって?
馬鹿げているにもほどがある。
どんなわがままを言われたとしても、家を巻き込んだとしても、好きな人と結婚できないなら、一生結婚しないほうがましだ。
それに、俺はずっとリュシエンヌのことを思っていた。
セレーネだって、それを知っていたのに……。
「失礼した……パーヴァリ家にはこちらから婚約を申し込みに行った。もちろん、リュシエンヌがわがままを言ったなんてことも全くない。何なら私が父親を急かしたくらいだ。君も会ったことがあるであろうエルンスト侯爵に、詳細を聞いてもらってもかまわない」
「わたくし、とんでもないことを……ごめんなさい」
アレシアは体を小さくしたまま両手をぎゅっと握っている。
真っ白な細い指が、一段と白く見える。
やってしまった、口調が強くなるのを自分でも感じていたのに止められなかった。
アレシアにきつく行っても仕方がないのはわかっているつもりだ、つい声が大きくなっていた。彼女を謝らせることは間違っている。
「本当にすまない。怒らないと言っておいて、声を荒げてしまった、このとおりだ」
立ち上がり、深々と頭を下げた。
目の前にいるアレシアの表情は、俺に声を荒げられたことより、自分の考えていたことに対して、後悔しているように見えた。
はじめて仲良くなった友達から、そんな嘘を教えられていたことに困惑しているのだろう。
複雑な感情を受け止められない様子のアレシアは、身体を小さくして眉を顰めたまま、こちらを見た。
もう一度アレシアに深々と頭を下げると、それを見たアレシアは、ぶるぶると首を横に振った。
「わたくしがセレーネの話だけを信じてたのがいけないの……嫌な思いをさせてしまったわ」
「いや、こういう話はなかなか話せるものではない。君から質問を受けた時に、早めに話しておけばよかった……本当にすまない」
二人の間に沈黙が流れる。
俺はリュシエンヌの話を聞いて、てっきりアレシアにも何かあると考えていた。
しかしアレシアは、セレーネと俺を引き裂いた当事者として、リュシエンヌを訝しんでいた。
お互いの偏った思い違いが、今の状況を作ってしまったんだ。
ガラス瓶の水をアレシアのグラスへ注いた。
残った水は自分のグラスに注ぎ、一息に飲み干した。アレシアは一口だけ口を付けた。
「では、ルドウィクさんはリュシエンヌさんのことを……」
「もちろん愛している。彼女以外の女性は考えられない。リュシエンヌもそう思ってくれているはずだ」
「それは、とても素敵なことですね」
アレシアは、残っていた水を一気に飲んだ。
そして俺を見て、精いっぱいの笑みを浮かべた。
恋愛をするどころか、同じ年代の同性でさえ仲良くなる機会が少ないと言っていたアレシア。
とても素直で、人の悪意にあまり触れたことがないのかもしれない。
セレーネ……なぜ、こんな嘘をついたんだ……。
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