第34話 6月28日 パーティ当日4



リュシエンヌのステップは、子猫のように軽快だ。

自分のダンスが上手くなったと錯覚してしまうくらい踊りやすい。

もう扇子なんてどうでもよくなってきた、彼女から目が離せない。


「ねえ、ルド」


自然に手を組み替えたリュシエンヌが、くるりと右側にターンした。

途端に今置かれている状況を思い出し、彼女に促された方向を見る。

そこには大きな柱があり、その横で、アレシアの扇子を持つベンスン夫妻の姿があった。

ベンスン夫妻が美術品に目がないのは有名だ。それこそ、目を丸くして扇子を見ている。

さすがに年代も造りも凄すぎて、カトラン家が怪しまれるのじゃないかという余計な心配までしてしまうほど、夫妻は真剣な表情をしていた。


音楽は中盤に差し掛かり、やっとダンスの終わりが見えてきた。

周りの若い男性貴族たちの目が輝き始め、まるで、狩りが始まる前のような空気になっている。 


その時、一組のペアが横をすれ違った。自然と顔がそちらに向く。

目の前にはカトラン子爵の背中。

その肩越しに、アレシアと目が合った。


瞬間、アレシアの楽しそうな笑顔が消えた。

口の端にきゅっと力を入れて俺の顔を見ている。

何か言いたそうな緑色の瞳は、いつもより少し沈んで、深い森のような色をしていた。真っ黒な長い睫毛が、音が聞こえそうなほど瞬きをした。


一瞬のことだが、何十秒もの時間が経ったように感じた。

カトラン子爵がするりとアレシアを伴って通り過ぎていく。

リュシエンヌの背中に添えた手に、自然と力が入るのがわかった。


演奏が終わり、周りの拍手とともに一曲目が終了した。

二人であいさつを交わし、手を繋いだまま中央から離れる。

目の前を何人もの男性達が急ぎ足で通り、アレシアの前に跪いて手を差し出しているのが見えた。


あの扇子は、まだベンスン夫妻の手元にあることを確認する。

夫妻は知識もあり、説明好きでもあるので、もしかしたらずっとあの場所かもしれない。


テーブルの上には、飲み物と砂糖でコーティングされた色とりどりの小さなゼリーが重ねられていた。

リュシエンヌの為に飲み物のグラスを選んでいると、ルルが笑顔でこちらに歩いて来た。


「ふたりとも、とて素敵だったわ! あなたたち本当にお似合いねえ」

「ありがとう、嬉しいわルル」

「やあルル、ひとりかい? セレーネは?」

「セレーネはクリストフと約束があるって。私はカールと待ち合わせてたんだけど、カールったら遅刻なのよお! さっきマリアと一緒にいたリカルドから聞いたの、酷いでしょっ!」


ルルが頬を膨らませて怒っている。

ということは、クリストフはセレーネに会えたのか、よかった……。

リュシエンヌは、文句を言い続けるルルを宥めながら、ゼリーをぽんっと口の中に放り込んだ。


「んー美味しい、ありがとリュシエンヌ。もうカールは知らないわ。そんな事よりあの扇子見たあ? アレシアの! 信じられないくらいすごいのよ」


ルルは、もぐもぐと動く口を片手で抑えながら会場をくるっと見渡した。

中央では次の音楽が始まり、さっきより更にダンスに興じる人が増えている。

ワルツに乗って優雅に踊る人たちの中に、ベンスン夫妻が楽しそうに踊っているのが目に入った。


「え?」


思わず声が出た。

ルルとリュシエンヌが、なにかあった? というような顔でこちらを見ている。

そして、リュシエンヌも夫妻に気づいたのか「あっ」と小さい声をあげた。


「どうしたの二人とも?」


ゼリーを食べ終わったルルは、あたりをきょろきょろている。

慌ててベンスン夫妻の近くにいた人たちを確かめるが、扇子を持っている人は見あたらない。


しまった、見失ってしまったか。まさか、誰かがどこかへ……。

いや、まだほんの少しの時間しか経っていない、きっと近くにあるはずだ。

何も起こらないことを願っているが、最悪なことも想定しておかなければいけない……。


リュシエンヌは、軽やかに踊るベンスン夫妻と、夫妻が元居た場所を交互に見ている。ルルもわけがわからないまま、一緒に周りを見ていた。


「リュシ、お願いがあるんだ! 少しの間ルルと一緒に居てくれないか?」

「ルド、私も一緒に!」

「いや、実はもうひとつ……確かめたいこともあるんだ」

「確かめる?」

「ああ。だから、君から少しの間離れることになる……今日は離れないという約束を破ってしまう、でも! 俺を信じて待っていてほしい」


あまりに真剣な二人の様子に、ルルの表情が困惑で曇っていく。


不安そうな表情のリュシエンヌの両手を掴んで跪き、祈るようにその両手に顔を埋めた。横に居たルルは、「え」と小さな声をあげる。


「リュシ、何も起こらないこと願っていてほしい。君は意味が分からなくて不安だと思う……でも頼む、君を危険な目には合わせなることは、絶対にしないから! もちろんアレシアとなんてことも絶対にない。それだけは信じてくれ。大好きだリュシ」


少し冷たくなっている両手にキスをして、リュシエンヌの顔を見た。

ルルは息を止めて、俺達の顔を交互に見ている。

リュシエンヌは少しの沈黙の後、僅かに頬を緩めて大きく頷いた。


「わかったわルド」

「リュシ、ありがとう」


もう一度両手にキスをして立ちあがり、目を丸くしているルルの前へと移動した。


「え、やだあ、何?」

「ごめんルル、なんだかわからないと思うけど、少しの間で良いからリュシエンヌと一緒にいてもらえるかい?」

「ああそういうこと! ええ、もちろん大丈夫よ」

「ありがとう。じゃあ、少し席を外すよ、すぐに戻ってくる」

「ルドウィク、わたしにまかせてっ!」


笑顔のルルと、少し強張った表情のリュシエンヌに手を振り、さっきまでベンスン夫妻がいた場所へと急いだ。


あれだけの扇子だ。価値が分かるであろうベンスン夫妻が、カトラン家の使用人に渡した可能性もある。それならすべて解決だ。

後はリュシエンヌの元に戻るだけ。頼む、そうあってくれ……。


会場内は、軽快で流れるようなワルツが響いている。


その中央では、アレシアがウィル・バートンと踊っていた。

美しい姿勢を崩さずステップを踏むアレシアは、なぜか中庭に続くガラス扉のほうを見ていた。


音楽に合わせてターンをすると、ウィルが真っ赤な顔をしているのが目に入った。

あれは後で友人たちにからかわれるなと思いながら、ベンスン夫妻がいた大きな柱の近くまで急いだ。


柱の横には、ベンスン夫人と仲の良い、レスター伯爵夫人がいた。

ここにいるということは、一緒にアレシアの扇子を見ているはずだ。

何度か会ったことはあるが、夫人は高齢だ。俺のことを覚えているだろうか。

柱を回り込み、正面からレスター伯爵夫人に頭を下げた。


「お久しぶりですルドウィク・エルンストです。レスター伯爵夫人、ごきげんいかがですか?」

「ああ、エルンスト家の……お久しぶりね、ごきげんよう。あなたとても背が伸びたわね」


まるで久々に会った親戚のように、レスター夫人は目を細めて微笑んだ。


「夫人は全然おかわりになりませんね」

「まあ、あの坊やが紳士になっちゃって」


夫人は笑いながら、手に持っていた扇子を拡げると、ぱたぱたと顔を仰いだ。

もちろんこれは、アレシアのものではない。この周囲にいる人たちも、扇子を見ている人は見受けられない。一体誰が持っているんだ。


「素敵な扇子ですね」

「これ? 半世紀前のアンティークでお気に入りだったんだけど、さっきの扇子見ちゃうとねえ」

「さっきの扇子?」

「ええ。カトラン子爵の姪の、ほら、今踊ってる美しいお嬢さん……えっと」

「アレシア……?」

「そうそう! そのアレシアさんがお祖母様さまから受け継いだものらしいんだけど、見事なんてもんじゃなかったわよ、溜息出ちゃったもの」

「それは見てみたいです! 今どこにありますか?」

「あら、えーっと、ほら……誰だったかしらねえ?」


夫人は仰いでいた扇子をパチンと閉じ、隣にいた老紳士に問いかけた。老紳士は困ったような表情で首を傾げる。

その時、ワルツの演奏が終わり、周りから拍手が起こった。

ウィル・バートンが、踊りが終わったと同時に跪き、胸ポケットの薔薇をアレシアに差し出していた。


アレシアが笑顔でその紅い薔薇を受け取った瞬間、すぐに次の相手に手を差し伸べられている。会場の熱気に眩暈がしそうになる。


「ああ! そうそう、あそこよ」


レスター伯爵夫人の声に、慌てて振り返る。

夫人は思い切り腕を伸ばし、中庭に続く開け放たれたガラス扉の方向を指さしていた。


「ほら、今出て行こうとしてるでしょ。あの人に渡したのよ」

「ありがとうございます」


まだ何か話したそうにしている伯爵夫人に、深々と頭を下げると、中庭へ向かって駆け出した。

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