第31話 6月28日 パーティ当日1
◆ カトラン子爵邸
「ありがとう、ルド」
夕暮れ時の少し前、二人を乗せた馬車はカトラン子爵邸へと着いた。
リュシエンヌをエスコートしながら馬車を降り、入り口へと向かう。
ドレス姿の彼女は、いつも以上に可憐で美しかった。
淡い水色のドレスが、彼女の肌の美しさを際立たせている。
結い上げた髪には、瞳の色と同じ、灰青色のリボンが揺れていた。共布で作らせた靴と一緒に、俺が彼女にプレゼントしたものだ。
ここに来るまでの馬車の中、二人でたわいもない話をした。
乗馬を好きになったリュシエンヌが、馬の手入れにまで嵌ってしまったの、と嬉しそうに教えてくれた。
今日のパーティは、リュシエンヌにとって、一番苦しい思い出の場所だ。
馬車から降りるときも「まさかこんな日が来るなんて思ってなかった、二人でここにいることが信じられない」と、嬉しそうに話していた。
昨日の貴重書架の開架のことについては、何も聞かれなかった。
信頼してくれているから、あえて聞かなかったのだろう……。
俺からも『特に何もなかったよ』と、彼女に報告した。
そう、昨日はアレシアと話をしただけだ、他には何もなかった……。
今日、この会場で何も起こらなければ、それが真実になる……それでいい。
会場に向かって歩くリュシエンヌの横顔が、少し緊張しているように見える。
たぶん、俺の顔も緊張しているだろう。
カトラン子爵邸の門を抜けると、会場となる広間に続く中庭が見えて来た。
聞こえてくる人の声に、繋いでいたリュシエンヌの左手に力が入るのがわかる。
その細い手を握り返すと、リュシエンヌが俺の顔を見て微笑んだ。
パーティ会場では、リュシエンヌから一秒たりとも離れない。
ここまで順調に来ている、未来は変わっている。
リュシエンヌの話だと、今日起こることはアレシアの扇子の紛失、そして俺の婚約破棄宣言……。
俺のことは絶対にないとして、気になるのはアレシアの扇子だ。
本日のパーティの主役である彼女。カトラン子爵の手前、無視するわけにはいかない。
早めに挨拶に行き、後は離れてしまえばいい、ただそれだけだ。
アレシアには悪いが、扇子に何が起ころうと関係がない。
本当は帰ってしまいたいところだが、父もここに顔を出すと言っていた。面倒だがそれまではいなくてはならない。
会場のガラス戸は開け放たれ、中庭と一続きになっていた。
あたりは少し薄暗くなっているが、中庭はまるで昼間のように、たくさんの人と灯りで賑わっている。招待客のほとんどが、そこで歓談を楽しんでいた。
「凄い人ね……」
「ああ、こんな大規模なパーティはなかなか無いね。リュシ、大丈夫かい?」
「もちろん。 だってルドが一緒にいるもの」
明るくふるまう彼女が愛おしくて、握っていた手を体ごと引き寄せ、その可愛い額にキスをした。
「行こうか」
「ええ」
恥ずかしそうに顔をあげたリュシエンヌが、俺の右腕に細い腕を滑り込ませる。
その腕をしっかりと組んで、中庭を進んだ。
中央にはたくさんの食事と、オーケストラの演奏。トレーを持った給仕たちが忙しそうに動き回っている。
「前回の時より、一段と華やかに感じるわ。たしか、この先にセレーネとクリストフがいるはずよ」
リュシエンヌがそう言いながら、俺を見上げた時、ちょうどセレーネの姿が見えた。
「リュシ! ルドウィク!」
エメラルドグリーンのドレスに身を包み、髪を下ろしているセレーネは、いつもより大人っぽく見えた。横には、薄いピンクのドレスを着たルルが、一緒に手を振っている。
「あれ? ルルだわ」
「そうだな、クリストフは……いないな」
あたりを見渡したが、クリストフの姿は見えなかった。
二人が笑顔でこちらに近づいてくる。この様子だとどうも二人だけで来たようだ。
「ごきげんよう、リュシエンヌ。リボンの色がとても素敵ねえ」
「ありがとう、ルルもとっても可愛いわ。ピンクが似合っててる」
いつものように穏やかな口調でルルが話しかけてきた。
リュシエンヌは笑顔で答え、そんな二人をセレーネはにこにこと眺めている。
「やあセレーネ。今日はクリストフと一緒だとばかり思っていたよ」
「あーうん……私が先にルルを誘ってたから、クリストフとは会場で会おうって」
「そうよセレーネったら! わたしの約束なんて全然良かったのにい」
「いいのよ、ルルと来たかったんだもの」
セレーネは、ルルの頬を人差し指でつつくと、いたずらっぽく肩をあげた。
近くにいる若い貴族たちが、そんなセレーネに注目しているのが分かった。
今日はアレシアを目当てに来た客も多いだろうが、それでもセレーネは人気がある。
こんな大きなパーティにパートナーと来ていないとなると、ダンスを申し込みたいと待っている者も多いはずだ。
二人と話すリュシエンヌは、嬉しくてたまらないという表情をしていた。
前回は一人でここに来て、誰とも話さずにいたと言っていた……。
こんな華やかな場所で、しかも婚約者である俺はアレシアと……そんな最低なこと、胸が苦しくてたまらない。
つい感情が押さえられなくなり、話をしているリュシエンヌの後ろから、肩を抱きしめた。
驚いた顔のリュシエンヌが振り返り、ルルとセレーネが「はいはい」と冷やかしている。
「じゃあ、セレーネ、ルル。俺達はアレシアに挨拶に行ってくるよ。また後で会おう」
「ええ、わかったわ」
「また後でねえ」
笑顔で手を振る二人の元を離れ、通り過ぎる給仕から飲み物のグラスを受け取った。
「はい、リュシ。大丈夫かい?」
「ありがとう。少し驚いたけど、色々変わっているものね」
「そうじゃなくて、いまからアレシアに挨拶に行くんだよ?」
「うん、それももちろん大丈夫。だって一人じゃないでしょ?」
そう言ってリュシエンヌは、ピンク色をしたレモネードのグラスをこちらに近づけた。グラスは軽い音を鳴らし、炭酸が弾けて甘い香りがひろがる。
リュシエンヌは笑顔を見せ、ソーダを一口飲んだ。
「それに、万が一ルドと彼女に何かがあったとしても……私にはあの『お守り』があるから!」
「お守り……あっ! あの証明書か」
「安心して、ここには持ってきてないわ」
口の両端をあげ、リュシエンヌが笑いながら、またピンク色のソーダに口をつける。
日が沈む前の空のような美しい瞳。
リュシエンヌが俺のことをまっすぐに見つめている。
透けるような栗色の髪をそっと撫でると、くすぐったそうに首をすくめた。
彼女に婚約破棄を申し込まれた日から今日まで、あっという間だった。
最初とても焦ったのは事実だが、少し考えると、そんなに難しいことではないと思った。
リュシエンヌへの気持ちが、変わるわけがないという自信があった。
しかし、ヴェーバー先生の邸宅に行った時から、なにか違和感のようなものを感じ始め、それが日を追うごとにどんどん大きくなっていった。
そして、俺の気持ちだけの問題ではないということに気づいてしまった。
この件には、他に関わっている者が居る……。
今日このまま何も起こらなければ、自分の人生が新しく書き換えられたと、リュシエンヌは思うだろう。俺もそれでいいと思っているし、それを願っている……
グラスに入ったソーダを飲み干し、口の中に残る檸檬の果肉を噛みしめた。
果肉ははじけ、ほろ苦さとソーダの香りが口に残る。
このパーティさえ終われば、きっと大丈夫だ……。。
「ねえルド、そろそろ……」
リュシエンヌが俺の腕に手を置きながら、きょろきょろと会場を見回した。
あたりには一段と人が増えはじめていた。
「そうだな、挨拶に行こうか」
リュシエンヌから、飲み終えたグラスを受け取り、テーブルの上に置いた。
とはいえ、いったいアレシアはどこにいるのか?
会場を見渡していると、リュシエンヌが組んだ腕を少しだけ引っ張った。
「ねえルド。中庭にキングサリの長いアーチがあるでしょ。そこに彼女はいるわ……」
ここに来てから穏やかだったリュシエンヌの表情が、少しだけ曇る。
言われた方向に目をやると、満開のキングサリのアーチの周りに、たくさんの人が集まっているのが見えた。
ふと、昨日アレシアと話したことを思い出す。
途端に、全身が緊張に包まれた。
大丈夫だ、挨拶をしてすぐに会場に戻ればいい。それでうまくいくはずだ……。
大きく深呼吸をして、姿勢を正す。
横で、リュシエンヌも同じように深呼吸をしていた。
目が合って、二人とも吹き出してしまう。
「行こうか」
「ええ」
歩き始めたリュシエンヌは、俺の腕をしっかりと掴みなおした。
二人で人波を抜けていくと、近づいてくる黄色いアーチから、甘い香りが漂ってきた。
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