第27話 6月18日 エルンスト家別荘 2
小さなため息をついて、リュシエンヌはテーブルの上に飾られたバラの花びらを指で揺らした。
アレシアと会う……。
そうか、リュシエンヌからすると、自分が一方的に避け続けているだけと考えてしまうんだ。
そして、俺との関係が順調な現在、もう彼女と話しても何も起こらないのではと……。
前回、リュシエンヌを苦しめたのは俺じゃないけど俺だ。それは、アレシアのことを好きになったから……しかし、本当にそれだけなのか?
俺がリュシエンヌを嫌いになり、アレシアを好きなるように仕向けたなにか……自分を庇うわけではなく、その何かがあるのではと思っている。
あのインクで汚されていた椅子……その犯人も、動機も、意図さえわからない。
前回、リュシエンヌが俺に責められたことで、彼女に関係があることだと思っていたが、アレシアを狙ったものだとしたら……?
そして今、俺がアレシアに対して不信感を持っている以外は、リュシエンヌには何の問題も起こっていない。
そう考えると、絶対に二人は接触しないほうがいい。
「リュシ……アレシアとは会わなくていい、というより会ってほしくない」
「……どうして?」
リュシエンヌの手が止まり、不安そうな顔をこちらに向けた。
「実は、図書館の椅子にインクがついていなかった……というのは、嘘なんだ」
「まあ……」
「すまない、君に不安な思いをさせたくなくて隠してしまった。アレシアに被害が及ばなかったのでいう必要がないと思った。椅子はインクで汚されていた……だから、誰かがいるんだ、それを仕掛けた誰かが……」
「……」
俺が言った「誰か」という言葉に、リュシエンヌはぎゅっと眉をひそめる。
「少しずつだけど、君が経験した前回と現実いまは変わっている。それは俺と君にとって良いことだと思ってる。でも、逆に考えると、予定された出来事が起こらなかったことにより、君の知らない何かが、起こってしまう可能性があるのではと……」
「!!」
リュシエンヌがはっとしたように両手で唇を覆った。
長い睫毛は瞬きを忘れ、瞳を見開いている。
「何も起こらなければそれでいい。だからこそ、いま接触していないアレシアとは、会わないままでいたほうが良いと思うんだ……」
「うん、わかった……それがいいわね……」
長い睫毛が一つ瞬き、美しい灰青色の瞳が、少しだけくすんだように見えた。
口を覆ったままの両手を掴み、軽くキスをする。
「もちろん、俺が君を一番好きなことは、まったく変化はないからね」
「……ありがとうルド」
リュシエンヌは俺の目をしっかりと見て微笑んだ。
大好きなリュシエンヌ、君をこれ以上悲しませたくない。
本当は、椅子の話はしたくなかった。
俺がアレシアを好きになり、それが原因で婚約破棄をしたと思っていたのに、それ以外の誰かが関わっているかもしれない……という不安を増やしてしまった。
きっと今は、疑問と不信で頭がいっぱいだろう。
それは俺も同じだ。情けないがわからない、だからこそ彼女を守るんだ。
爽やかな薔薇の香りの中、二人の間に沈黙が流れる。
ちょうどその時、執事のジョセフが小さなワゴンを運んできた。
「失礼いたします。こちらは春摘み紅茶と、水蜜桃のミルククリームババロアでございます」
「まあなんて綺麗なの」
執事が運んできたのは、小さなグラスに淡桃色と乳白色が二層になったババロア、その上には桃のコンポートがキラキラと輝くジュレと一緒に飾られている。
喜ぶリュシエンヌを見て、執事も笑顔で紅茶をカップに注いだ。
「では、ごゆっくりお過ごしください」
「ありがとう」
声をかけるリュシエンヌに、改めて頭を下げ、ジョセフは屋敷へと戻っていった。
二人で目を合わせ、同時にミルクババロアのグラスにスプーンを入れた。
水蜜桃のしっとりとした触感と、甘い香りが口の中に広がる。
「んーーーーー」
目の前でリュシエンヌが声にならない声をあげている。
10日後の28日。カトラン家で行われるパーティ。
リュシエンヌは今、どんな気持ちなんだろう。
それより、そのパーティの前日に、アレシアから貴重書架の開架を頼まれているということも話さなくてはいけない……。
ミルクババロアを綺麗に食べ終えたリュシエンヌは、新しい紅茶に口をつけていた。
「なあ、リュシ」
「どうしたの?」
「月末のパーティのことなんだけど……」
「ええ……招待状が届いていたわね」
リュシエンヌの声のトーンが、少しだけ落ちた。
「俺は父の手前出席しなくてはいけない。でも、君は無理に行かなくてもいいんだよ?」
「うん、ありがとう。行かないことは考えたけど……でも、ここまできたんだもの、私が生きている
透き通った瞳が、まっすぐに俺を見つめる。
不安な様子は見えるが、それだけではなく、しっかりと心を決めた強い瞳だ。
「わかった、その日は俺が屋敷まで君を迎えに行くよ。一緒にパーティに行って、俺達の仲の良さを周りに見せつけてやろう」
「それは嫌だわ」
「えっ、酷いよリュシ」
美しい巻き毛を揺らし、目をきゅっと細めてリュシエンヌは笑う。
きっと大丈夫だ、何も起こらない。今までと同じで、二人で一緒にいればいい。
―― リュシエンヌさんが怖いのですか?
ふと、庭園でのアレシアの言葉を思い出す。
あれはどういう意味だったのだろう、いったい彼女は何が言いたかったんだ?
アレシアのことを考えると、苛立ちとはまた違った、胸焼けするような不快な気持ちが渦巻く。
そうだ、27日……。
「あと、リュシ……」
「なあに?」
「そのパーティの前日の27日、また、アレシアから貴重書架の開架を申し込まれている」
「前日……」
「ああ、君の記憶にはないことかい?」
リュシエンヌは、何かを考えるように左上に視線をやり、少しの間のあと首を横に振った。そして、小さなため息をつくと口の端だけをきゅっとあげた。
「全く記憶にないわ、もしかしたら頼まれていたのかもしれないけど……そのころは全然ルドと会うことなんてなかったもの」
「ごめん、俺は本当に最低だったんだな」
「そうなの! でもあなたが謝らなくていいわ」
「それでも、謝りたい」
優しい表情で目を細めたリュシエンヌは、首を横に振った。
「ルド、あなたはお父様から彼女の手助けをするように言われたんでしょ? 私みたいに避けることも難しいし、貴重書架となれば、なおさら断るのが難しいのはわかってる。本当に全然大丈夫よ、信じてるもの」
「ありがとう」
「お礼なんて……わたしのほうがたくさん言わなくてはいけないのに……」
「そんなことないよ」
「ううん、そんなことある!」
ふたりで顔を見合わせて吹き出した。
薔薇の香りを含んだ風が、二人の間を抜けていく。
「じゃあ、今から薔薇園ここを案内するよ、リュシエンヌ姫」
「ありがとうエルンスト侯爵」
俺が右手を差し出しながら立ち上がると、それに合わせてリュシエンヌも席を立ち、そっと左手を乗せた。
その手をしっかりと掴み、二人で薔薇園への道を進んだ。
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