第14話 貴重書架1
6月5日
開館時間10分前、図書館へ着いた。
館内ではグレイス館長や司書の勉強をしている者が開館の準備をしているはずだ。
図書館の入り口には開館時間の札がかけられており、扉は締まっている。
近くに数台の馬車が見えた。既に開館を待っている人達なのかもしれない。
ここの鍵は持っているが、誰かに開けてもらったほうがいいか……。
入り口の薄ガラスから中を覗いていると、誰かがこちらに向かってきた。
ダークブラウンの髪にきっちりとした深緑のドレス、セレーネだ。
覗いているのが俺だと気づいたようで、セレーネは少し駆け足になり、扉を開けてくれた。
「ごきげんようルドウィク、今日は早いのね」
「やあセレーネ。演奏会では大変だったね、大丈夫だったのかい?」
「ああ、もう全然平気よ、ありがとう。あ! でも、私のせいで上着を濡らしてしまったんだわ、ごめんなさい」
「あやまらなくていいよ。本当に何事もなくてよかった」
図書館の廊下を歩きながら、セレーネの元気そうな声を聞いてホッとする。
これからアレシアと話すことに少し不安だったが、ここにはセレーネや他の人たちがいる、そう思うと少しだけ気持ちが軽くなった
「今日はお仕事?」
「仕事というか、貴重書架の鍵を開けに来た。ほらアレシア・カトラン、彼女が開架を申し込んでくれてね、それで鍵を持ってきたんだ」
「まあそうなの。彼女遠い国から来てるものね、とても勉強熱心で凄いわ」
「……そうみたいだね」
セレーネは初日に館内の案内をしてから、アレシアと仲良くなっているようだった。
きっとセレーネなら良い関係が作れるだろう、でも、リュシエンヌを紹介されるのは困る。
「じゃあルドウィク、私は戻るわね、彼女は開館と同時に来るはずよ」
「ありがとう。セレーネ」
「どういたしまして」
美しいカーテシーをすると、眩しい笑顔を見せてセレーネは去っていった。
気が強そうに見える彼女だが、とても知的だ。リュシエンヌの一番の親友で、男性達に人気があるのもよくわかる。
クリストフは送ったあとうまくやれたのだろうか。今度会う時に良い話が聞けるのを期待しておこう。
歴史書架の前に来ると、並んだ机が目に入った。
真っ黒な革が鋲で留められている椅子は、綺麗に整頓されている。
そっと背もたれ部分を撫でてみるが、インクどころかほこりさえ付いていない。
たしかに、この真っ黒な革だとインクを塗られても見落としそうだ……。
その時、入り口の扉が開く音が聞こえた。開館時間だ。
一番最初に入ってきたのは、キャスリン夫人。
大変な読書家で、使用人に選ばれるのが納得いかないと、毎日ここに通っていると言う噂は本当だったか。姿勢もしっかりとしていて、見習いたい姿だ。
その後から、真っ白なドレスを着て、少し多めの荷物を抱えたアレシアが入ってきた。
いつも白いドレスを着ているというのは本当なんだな……。
しかし、さすが一国の王女というべきか。姿勢の良さと歩く姿は、それだけで目を惹くほど洗練されている。
アレシアは、まっすぐにこちらへ向かって歩いてきた。
表情はとても嬉しそうで、なぜか手を振っている。
心臓がドクンと跳ねる。
なぜ、俺に手を?
訳が分からずに固まっていると、彼女の視線が自分から外れていることに気づいた。
振り返ると、本棚の間からセレーネがアレシアに手を振っている。
ああ、なんだそういうことか……。
そう思った瞬間、全身がじっとりと汗ばむのがわかった。
今日は貴重書架を開けるだけ、よくある仕事だ……そう思って来たはずなのに。
俺が彼女を意識しすぎている……。
アレシアは何もしていない。
リュシエンヌが、俺と彼女に嫌な思いをさせられた……しかしそれも現在の話ではない。
俺が勝手に意味もなく、彼女に警戒心を抱いているだけだ。
こんなことアレシアが知ったら、迷惑な話でしかないだろう。だからこそ、普通にしなければいけない。
手を振りながら歩いてくるアレシアの目線が、俺を見つけてはっとするのが分かった。照れくさそうに右手を下げ、そのまま正面まで駆け寄ってくる。
深々と頭を下げる彼女に、同じ様に頭を下げて挨拶を交わす。
「おはようございます。アレシアさん」
「ごきげんよう……あの、エルンスト家の方ですよね?」
少し不安げに顎を引き、大きな緑の瞳を瞬かせた。
「これは失礼、わたくしはルドウィク・エルンストと申します。カトラン子爵からアレシアさんが貴重書架の本をご覧になりたいと連絡をいただき、本日参りました」
「ご丁寧にありがとうございます……あのアレシアでいいですよ、あとそんなに固い話し方なさらないで」
困ったような顔でアレシアが笑う。
「はい……」
とはいえ、友人たちのように呼び捨てにするのは難しいし、俺は呼びたくない。
どう返答すべきかを考えていると、目の前にいたアレシアが一歩俺に近づいた。
清廉な花の香りが、二人の間にふわっと広がる。
「あの……わたくしのことお聞きになってると思うんですけど、普通にしてくれて全然大丈夫なので…お願いします」
「わかりました……でも名前はこのままでいいですか、アレシアさん」
「はい、大丈夫ですルドウィクさん」
アレシアはにっこりと微笑み、一歩下がって元の場所に戻った。
そのような動き一つにも無駄がなくしなやかだ。
実際に話してみると、物腰が柔らかく、不快な印象は全く受けない。
リュシエンヌがいうように、魅力的であるのは間違いないだろう。
ただ、好きになるかといったら全然違う。タイプは正反対だが、セレーネと同じだ。美しく魅力的ではあるが、とうてい愛には変わらない。
「では、アレシアさん。もう、貴重書架に行きますか?」
「はい、よろしくお願いします」
「少し離れた別館になるので、付いてきてください」
アレシアは大きく頷き、軽く会釈をして俺の後ろに並んだ。
受付の横から歴史学の書架を抜け、突き当りの道まで進む。
右には教会へ続く参道への扉、左には別館の廊下に続く扉があった。
樫の木で作られている重厚な扉には、文学の神が彫刻されていると言われているが……まあエルンスト家の1代目である。
「素敵な扉ですねー」
「ありがとうございます」
特に説明することでもないので、そのまま鍵を開けた。
ここから別館まで、中庭が見えるガラスの渡り廊下が続いている。
「この廊下の突き当りが別館になっています。実は本館は昔に建てられたものですが、こちらの別館は貴重本を所蔵するために近年建てられたものです。クラルハイト石がないため木造で、中は少し薄暗くなっています」
「まあ、そうなんですね。本館はとても素敵であそこに住みたいくらいです」
「あの石の図書館は我が国の国宝ですね、さあどうぞ」
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