青い朝顔

朝霧逸希

5本の薔薇と、ハーデンベルギア

 彼とのセックスは私が私たらしめる理由になっていたのかもしれない。

 あの瞬間だけは、私は人間でいることが出来た。彼だけが私の存在意義であったから、彼がいなければ人間でいることすらままならなかった。

 あの瞬間ときだけは私はこの世界に存在できて、あの時間ときだけは私が私であることができた。肌がふれあい、彼の手が、足が、唇が、彼自身が私と繋がっている事ができて、あの瞬間は、どんな瞬間よりも好きだった。目線が、身体が、唾液が、汗が、混ざり合う。燦然と輝き、滴る彼の汗は世界に存在するどんな宝石よりも美しく、どんな黄金よりも魅力的だった。必死になって腰を振り続ける彼の姿は彼以外であれば滑稽そのものだったけれど、彼の、さながら獣のように腰を振り続ける様はどうしようもなく美しく、愛おしく見えた。私は、そんな彼が大好きだった。

 絶頂が近付くと、感情の高ぶりとともにどこか寂しさを感じてしまっていた。果ててしまえば、私が私であることができなくなってしまうから。出来ることなら、この時間が100年、1000年と言わず、流れることなく止まって、永遠に感じるほど長く、永く、彼と繋がっていたかった。けれど、私の願いは届くわけもなく、残酷に、冷酷に、無機質に時は流れる。残ったのは首筋などに付いたキスマークだけ。

 果てたあとのこの時間が、たまらなく嫌いだった。


 わたしは、私を押し殺した。

 彼に好かれることだけを考え続けて、彼という型にはみ出ることなくぴったりと嵌るように、切り取って自分を作りあげてきた。全ては彼のため、彼の前で本当の自分を出す事は無く、切り取り、整形した自分を本当の自分だと偽ってきただけ。本当の私なんて見せられるわけが無いのだから。

 彼の影響で煙草も吸い始めた。煙草なんて金と健康を削ってまでやるものではないと考えていたけれど、彼がやっているのであれば私も始める。それが私の生き方だから。

 火の着け方も分からなかった。彼に教えて貰いながら、人生で最初の1本の煙草に火を着ける。口腔内に溜めた煙は苦くて、辛くて、酷く匂うものだった。こんなもの、何が美味しくて吸っているのか、という疑問が絶え間なく脳裏を横切る。肺に入れた瞬間、気管に強すぎる程の刺激が、大きく喉を焼くかのような灼熱感にも似たような刺激が走る。噎せて、噎せて、噎せ返る。噎せた影響か、涙が出てきた。それから数秒程経った後に、俗に言う“ヤニクラ”が来た。酷い目眩、吐き気、頭痛に苛まれたので、急いで水を飲む。お世辞にも良いとは言えない代物だった。けれど、吸い続けた。タールの軽いものであれば私でも容易に吸えた。1mg、3mg、5mgとタールを上げていくうちに、彼がいつも吸っていた銘柄も吸えるようになってきた。


 私が、彼との別れの接吻キスで感じた味。苦くて、辛くて、匂うけれど、美味しい。


 彼はとても優しかった。私が彼に甘えて生きていることを知っていながら、私を甘やかしてくれた。それが嬉しかったのかはもう分からないけれど、彼の優しさに溺れて死ぬことが出来るなら本望だとすら思ってしまった。本当に私を愛してくれたか、とか私は本当に彼のことを愛している、とか。そんなことどうでもよかった。ただひたすらに彼の事が好きで好きで堪らなかっただけ。愛云々はもう分からないけれど、とにかく好きだった。彼と一緒に吸った煙草は何時もは不味いのに美味しく感じるし、苦手なはずのお酒でも彼と一緒なら飲めてしまう。私の気持ちが彼を縛り付けているかもしれない、なんてこと分かってはいたけれど、それでも抑え切れない気持ちがあった。彼に抱かれ、彼と過ごし、彼と死ぬ。そんな人生でありたかったと心の底から思っていた。自傷に走ることもあった。自らを傷つけた。けれど、それも全て彼に振り向いて欲しかったから。彼がいれば嫌な事も、何もかも、全て漏れなく忘れることが出来たから、私は彼に依存していた。

 お酒よりも、煙草よりも、どんなで薬物さえ凌駕してしまうほどに彼に依存していた。私にとって彼の存在は毒だったのかもしれない、彼にとって、私も。そんなことに気付いたのは私たちの関係が始まってすぐの事だったのは覚えている。忘れた気でいることも、わかってる。


 彼は私を突き放した。私は彼を拒んだ。これでよかったのだと、後悔なんてしていない。もう、貴方と会うことはできないけれど、もう、あなたと煙草を吸ったりできないけれど、私はあなたがいなくても大丈夫。


 あなたが、私に送った最期の言葉。あなただけが、1人で。


 私の棺に添えた言葉。


 5本の薔薇と、ハーデンベルギアの花言葉。

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