風呂にて

@noinoi0622

風呂にて

 湯気で曇った鏡をシャワーで流すと、くたびれたおじさんが映った。少し自嘲が過ぎるか。自虐的な気持ちを戒めるも、少年時代は髪の毛が豊かに流れ、頬にはシワの一つもなかったことを懐かしむ。鏡が再び湯気で曇り始めたころ、心は幼馴染のヒロ君の思い出に浸っていた。


 ヒロ君は体が大きかった。子供は体が大きいと威張りがちだが、ヒロ君にはそれがなかった。威張るどころか、率先して自分から汚れ役を引き受けるような性格だった。人のピンチを放っておけない性格で何度か僕も助けてもらった。


 給食の時間、僕が苦手な納豆を前にこの世の終わりのような顔をしていると、ヒロ君が「いらないならもらうよ」と白いパックをさっと持っていってくれた。生き物が苦手なのに、じゃんけんで負けて生き物係にさせられた時は、「うち、犬飼ってるから世話が得意なんだ」と言って係を変わってくれた。嫌な顔ひとつせず笑顔でやってのけるのだ。もちろん、野球ではキャッチャー、サッカーではゴールキーパーを進んで受け持った。

 今思えば、ヒロ君は人生を何周も経た子供だったのかもしれない。


 中学に入ると、ヒロ君は少々ヤンチャなグループとつるむようになる。時折彼を見かけると、髪は金色に染め上がり、制服をだらしなく着ていた。それでも僕とは会えば普通に話をするし、冗談も言い合う仲ではあった。ただ、以前のように一緒にどこかに遊びに行くようなことはなくなった。高校は別々になり、家が隣同士とはいえ、徐々に距離ができてしまった。


 高校卒業を目前に控えていたある日、家に帰ると隣のヒロ君が立派な車を手入れしていた。「すごい車!」と声をかけたら、彼はにっこりと笑った。中古の外車だが、彼のアルバイト先の知人から特別に手頃な価格で譲り受けたらしい。その日のヒロ君の、自慢気で嬉しそうな笑顔が、今でも忘れられない。


 ヒロ君は突然、この世を去った。

 彼は追い越し中の事故で命を失った。立派な車を手に入れ、舞い上がっていたのかもしれない、と周囲は噂していた。助手席にいた友人は大怪我をしたが、命は助かったという。


 突如、現実に戻った。気づくとずっとシャワーを出したまま、ストゥールに座っていた。

 急いでシャワーを止め、湯船に身を沈めた。


「ああー」


 体がリラックスし、副交感神経が活性化する感覚に包まれた。思わず快楽の声をあげた後、目を閉じて再びヒロ君のことを考えた。


 ヒロ君が最後に何を感じていたのだろう。彼は興奮していたのだろうか。自分の運転技術を試したかったのだろうか。対向車を目の前にしたとき、彼の心はどう動いたのだろう。彼が感じた恐怖は計り知れない。


 そこで、ふと気づいた。

 ヒロ君の車は左ハンドルだった。追い越し事故ならば、最も衝撃を受けやすいのは助手席のはずだ。ところが、助手席にいた友人は一命を取り留め、ヒロ君は亡くなった。


 僕は鼓動が速まるのを感じ、一旦湯船から上がった。ストゥールに腰を下ろし、頭を冷やして、考えを整理する。


 ヒロ君は前方の車を追い越すと、対向車を目の前に見た。避けられないと直感した彼は、とっさの判断でハンドルを右に切った。助手席の友人を守ろうとしたのだ。だが、それによりヒロ君自身が対向車との衝突の衝撃を直接受けることとなった。


 呼吸を整え、心を落ち着けてから、再び温かな湯にゆっくりと身を沈めた。


 それはもう遠い過去のこと。今となっては調べる気も起きないし、おそらく当局の調査で既に結論が出ているのだろう。回想をやめようとするも、幼い頃のヒロ君の献身的な姿が、僕の頭から消えない。


 目頭がじんわりと熱くなる。長いこと風呂に浸かった。頭から湧き出る汗が、溢れる涙と合流し、頬の輪郭を伝って、ゆっくり湯船に落ちた。

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