水の王国
三澄マチ
第一章
第1話
水面が揺れる気配がする。池が近くにあるのだろう。
水なんて今更嬉しくないけれど、水場の近くには集落があるはずだ。そこで人に会えたら食料を恵んでくれるかもしれない。
もうちょっと……動け……うごけ……
少年の瞼はゆっくり閉じていった。
「さあいらっしゃい。朝ごはんにこの新鮮な水で作るコーヒーはいかが!」
レンガ造りの広場の中心でチリチリと錆びた鐘を鳴らし大声で客を呼ぶ。
「おはよう水売りさん。水を一杯くださいな」
するとすぐに、わざとらしい笑顔を作った女が、演技がかった口調で話しながら近づいて来た。彼女の美しい金色の髪の毛は丁寧に後ろで編み込まれ、編み終わりが細いピンク色のリボンで飾られている。
「まあ相変わらず汚いシャツですこと。それで平気なんて信じられないわ。卑しい土地の血がそうさせているのかしらね」
女はにやにやと笑みを浮かべながら嫌味を言う。まったく、毎日毎日よく飽きないもんだ。
「おはようございますソフィア様。入れ物をこちらに。そして何回も言いますけど私の名前はリアです。いい加減覚えてください。私のことが嫌いなら視界に入れなきゃいいのに、嫌味を言うためだけに下男の仕事のようなことをするなんて変なお方」
リアは愛想のいい笑顔を作って、最後の方は小声で呟いた。するとソフィアはすっと真顔に戻りバケツに汲まれた水を乱暴に奪い取った。
「あなたに馬鹿にされるなんて屈辱だわ。わきまえなさいこの売女の娘。本当ならあんたなんて一生私の家の敷居を跨ぐことを許されなかった身分なんだから。結婚もせず一生ここでせせこましく働いているのがお似合いよ」
ソフィアは早口で悪口をまくし立てている。せっかくの綺麗な顔が醜く歪んでしまっている。やっと満足したのか、彼女は一通りの悪口を言い終わると、ふんと鼻を鳴らして去っていった。
ふう、やっと帰ったか。
いつも彼女が朝一番にやってくる。そして帰ったタイミングで他の客たちが集まって来るのだ。
「おい色黒、こっちにバケツ二杯分」
「こっちにも。はやくして頂戴な、図体だけでのろまなんだから」
「はいはい今すぐに!」
この街の人間に私の名前を呼ぶものはいない。人間ではなく、水を売る女としか認識されていない。
朝の四時半に起き、簡単に身支度を済ませてから片道二十分をかけて水を汲みに行く。
いくつもバケツを乗せた重い荷車を引き家に戻り、大樽に水を移し、七時ちょうどから広場で町の人達に水を売る。
それが私の日課なのだ。
水売りの仕事は朝だけでは終わらない。朝の分が売切れ次第、また池まで水を汲みに行き、夕方になれば同じように商売をする。夕方の分を少し多めに汲んでおいて、明日の朝に残しておくのが次の日ラクをするコツなのだ。
今日も無事に売り切れた。昼ご飯を食べてから池に行こう。
中身が無いとは思えないほど重たい水樽を荷車で引っ張って家に帰った。
後悔なんてしていない。
粗末な食事はすぐ終わってしまう。ゆっくりするための時間は充分あるが体を動かしていないと悪い方向に物事を考えてしまう、と思いリアは食器を洗い終えるとすぐに森のほうへ向かった。
毎日お腹はペコペコ、身体はあちこち痛むし傷だらけだ。
筋肉の発達した大足を振り回し、男勝りの仕事をする女など嫁にいけないぞと村の住民に揶揄される毎日でも、それでも自分で決めた、明るい未来のための道のりなのだ……
……誰かいる。
鬱蒼とした雑木林の奥で人がうずくまっている。
どうせ口減らしで捨てられた哀れな老人だろう、かわいそうに。あの様子だともう死んでいるだろうから、埋葬だけでもしておいてあげよう……
驚いた。
近づくごとに輪郭がはっきりとしてくる。
うずくまっている人の正体は老人ではなく若い男なのだ。
土で汚れてはいるが、上等な生成りのシャツにこげ茶色のベスト、こげ茶色のズボンに綺麗なブーツを身に着けていた。ベルトループに通してある巾着と、背負っている大きなリュックは荷物でパンパンに膨れている。
綺麗な格好をしているからきっといいとこのお坊ちゃんなのだろう。父への反抗心で家を飛び出したが、道に迷ってこんなとこまで来てしまった、みたいな所だろうか。
肩が微かに動いているのでまだ生きているようだ。
「もしもし、そこのお方。こんな所で寝ていては風邪をひきますよ」
軽く男の体を揺すってみたが反応はない。仕方ないので顔を軽く叩いてみたところ、
「ん……ぐっ……」
と反応があった。パクパクと口を動かせて声にならない声で何かを訴えている。
「良かった気が付いて。何か欲しいものはありますか? あ、その前に水を汲んできますね。きっと喉がカラカラでしょう。すぐ近くに池があるんです。すぐ行ってきますから」
「……ああ親切な方だ、いい……水はいいので、どうか食べ物をお恵みください。お代はベストの裏ポケットにありますのでどうか……」
男は消え入りそうな声でそう言った。
ポケットに手を入れると本当にお金が入っていた。しかもまあまあの大金だ。
不用心な人だ。わざわざお金のある場所を自分から言うなんて、盗んでくれと言っているようなものじゃないか。
金だけ盗んで逃げることもできるがここは毎日通る場所だ。死にかけの人間をずっと無視し続けるなんて気持ちの悪いことはできない。
仕方がないので半分のバケツにだけ水を入れ、片付けて空いた場所に少年を寝かせ家に連れて帰った。
家に着くと年季の入ったベッドを気持ちだけ綺麗に整え少年を寝かせた。
抱き上げると思いのほかいい匂いがしたので、思わず顔を見てしまった。
その時初めてじっくりと少年を見た。
小柄なので年下だと思っていたけれど、体付きがしっかりしているので案外同い年くらいかもしれない。
白い肌に長いまつげ、柔らかそうな茶髪の彼はなかなかの美形だと思った。
お金持ちのお家の、綺麗な顔のお坊ちゃんならバラ色の人生だろうに、一体何が不満なんだろう……
そんなことを考えながら、リアは気づかれないようにそっと立ち上がり、毛布をかけて家を出た。
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