スラムのご馳走
澱んだ水の上を、古びたボートが行き交う。水底の細かい砂が巻き上げられて、水中はほとんど見通せない。ボートの上には半裸の男達が立ったまま、灼けつくような日差しを浴びながら、作業をしていた。彼らの手に握られているのはロープで、声を掛け合いながら、それを引き上げる。
「手応えあり!」
「よーし、引っ張れ!」
辺りは異臭に満たされていた。もうすぐ昼時だが、これではどんなに空腹でも食欲をなくしてしまうだろう。
大抵のボートの真ん中には大きな木箱が詰まれている。その中は汚泥でいっぱいになっていた。誰かが櫂を操り、誰かが長い棒で水深を測る。そして、残った男達がロープの先に重石をつけた丈夫な籠を括りつけて、川底にたまったヘドロを掻きだす。
この地道な作業がないと、ラギ川の運河は汚泥に埋もれてしまうだろう。この作業は、下流に当たる南岸で、定期的に行われる。そして、これがこの地域に住む移民にとっては、貴重な収入源でもあるのだ。
「こんなところで」
俺はポツリと漏らした。そのすぐ後ろにいるマツツァやタオフィも、何も言わなかった。
男でも嫌がる重労働だ。殊に真夏の浚渫工事は、過酷さではこの上ない。今も目の前の初老の男が、汗を流し過ぎたせいか、顔を真っ赤にしてフラフラしている。ヘドロの悪臭、男達の汗、そんな中に混じって、タマリアも川底の泥を掻きだす仕事に従事していた。
俺がここまで来たのは、何も難しい理由があってのことではない。ニドがシーチェンシ区のタマリアの家に、月に一度くらい訪ねるのは知っていた。だからそこで落ち合うつもりで彼女の家まで向かったのだが、そこに書置きが残されていたのだ。
『急にチュンチェン区の仕事が入ったから、昼まで戻りません――ニドへ』
これを見たニドがここまで来てしまったら、俺は彼と出会えずに引き返すことになるかもしれない。だから先にタマリアを見つけておけばいいと、ただそれだけのことだった。
だが、俺はこのところ、帝都の裏側ばかりを目にしている。市民権を手にしたものの、社会の下層から這い上がれない人達の行く末は、あの養老施設だった。だが、下には下がいる。コーザのように、過酷な肉体労働から救われた人がいる一方で、こちらでは、いつまでもどこまでも、底辺の労働に甘んじなければいけない人々がいる。
さっきの、明らかに熱中症になりかけていそうな初老の男は、人相からするとフォレス系の帝都人だろう。彼がどんな人生を歩んできたかは、俺には分からない。若い頃は自堕落に過ごしてきたのか、それとも彼なりに努力したのか。いずれにせよ、この先も永久に今の暮らしを続けるしかない。それもきっと、そう長いことではないだろう。
南方大陸から連れてこられた西部シュライ人の姿も、数多い。彼らは泥に塗れて、淡々と働いている。だが、その眼差しには輝きなどなかった。動きもノロノロとしていて、およそ何の喜びも感じられない。
汚れていない服、それも長袖の上着を身に着けた俺達は、明らかに場違いだった。すぐ目の前を、汚泥を満載した一輪車を押す子供が通り抜けていく。こちらを一瞥すると、関わりを避けようとするかのように急ぎ足になった。
作業を監督しているらしい髭面の男が、何かを確かめるように空を見上げた。それから周囲を見回して、すぐ横に立つ男に何事かを告げた。すると、指示を受けた男は、手にしていたラッパを吹き鳴らす。それが作業終了の合図だった。
「並べーっ!」
作業を監督していた役人達が、そう叫ぶ。既に慣れっこになっているのだろう。先ほどまで働いていた男達は、速やかに列を作った。
ここから先は、すべて順序通りだった。まず、給金を払う役人のところに立つ手前で、大きな木箱が水に満たされているので、そこに木桶を突っ込んで、彼らは頭から水を浴びる。どうせ全身、汗だくだから、これでいいのだ。
続いては飲料水だ。木のジョッキに、一人分ずつの水が注ぎこまれる。それを彼らは引っ掴んでは浴びるように飲む。誰かが口をつけたとか、そんなことを気にするのはいない。とにかく喉が渇いているのだ。
そうして落ち着いてから、彼らは給金を受け取る。作業開始前に渡された木札を差し出し、代わりに金貨一枚を渡される。早朝から昼までの半日でこの金額だから、稼ぎとしては悪くない。ただ、毎日ある仕事ではないし、日によっては長引くこともあり、その場合には一日中激務をこなした挙句の支払いがこれだから、いつでも効率的というわけではないらしい。
男達の列の中、一人だけ小柄なタマリアが、びしょ濡れになって金貨を受け取り、さて帰ろうと歩き出したところで、やっと俺達は彼女の前に立った。
「あ、あれ? ファルス? それに後ろの人達は?」
「こんな仕事をいつも?」
「え? あ、ああ、うん、まぁね。それがどうかしたの?」
彼女は実にあっけらかんとしていた。
「今日は何の用?」
「いや、ニドが来るかと思って。落ち合おうと思ったんだ」
「なるほどね」
「それと、タマリアに差し入れをしに」
俺がそう言うと、タオフィが手にした袋を差し出した。
「悪いよ」
「これくらいは受け取って欲しい。さすがに、あんなひどい仕事をしながら暮らしてるなんて」
彼女は袋の中を見て、嘆息した。
「こんなに」
中にはパンがいくつかと、オレンジやスモモ、それにブルーベリーもあった。
「気にしなくていい。というか、こんな物とかじゃなくて、いっそもう、本当に領地の方に引っ越さないか。いくらなんでも、今の暮らしは大変すぎる」
「ありがと。けど、頼りっきりで生きていくのもなんだかなって思うし。でも、これは」
もう一度、袋の中身を確かめて、彼女は言った。
「食べ物はどうせダメになっちゃうんだし、いただいておくわ」
「そうして欲しい」
それから、タマリアはある方向目指して歩き出した。
「寄るところがあるからね」
このまままっすぐ自宅に帰るのかと思ったら、そうではないらしい。彼女はスラムの道を縫うように歩いた。傾いた建物が互いに支え合っているような薄暗い路地を抜け、足下に水溜まりの散在する広場を横断し、ガランとした石造りのしっかりした空き家の横を通り抜けると、そこはシーチェン区の「市場」だった。
タマリアが暮らす地域の手前。古代から残る巨大なビルの残骸のすぐ足下には、さまざまな人々が、思い思いに風呂敷を広げ、地面の上に直に座って物を商っていた。形も悪ければ、古くて鮮度の悪そうな野菜。肉なんて上等なものはないが、僅かながら魚がある。それと、あれは牛や豚の骨だろうか?
座り込んで商売している人々の人種はいろいろで、フォレス系やハンファン系もいる他、西部シュライ人、南部シュライ人と多様だった。当然、彼ら全員と言葉を交わすなんてできないので、タマリアは指差しとハンドサインだけで取引をした。いらない場合は、ただ掌を開いて振るだけで通じた。そうしていくらかの野菜と魚を一尾だけ、それと鳥ガラを買った。
「何を?」
「臨時収入だし、ご馳走にしようと思って」
ご馳走、か。贅沢と言えるほどの贅沢でもなかろうに、と暗い気持ちが胸に満ちた。
シーチェンシ区まで帰りつき、彼女の家に立ち入ると、既にそこにニドがいた。
「おぉ? なんだ、なんでファルスがいんだよ?」
他人の家に勝手に上がり込んで、タマリアのベッドの上で足をブラブラさせていたニドだったが、俺のすぐ後ろにいる二人に目を細めた。
「そいつら、なんだ? おい」
「ニド、心配ない。二人は僕の……郎党みたいなものだ」
だが、俺もニドの警戒心の理由がわからないのでもない。マツツァもタオフィも、目の前にいるのが元パッシャのメンバーというだけで、表情に敵意が滲み出てしまっている。
「二人とも、やめろ」
「ファルス、そいつら、魔物討伐隊あがりの連中だろ。見りゃわかんだよ」
「だから連れてきたんだ。ニド、ちょっと込み入った話になる」
「ちょっと」
タマリアが割って入った。
「うちで揉め事はやめてよね」
「もちろん。マツツァ、タオフィ、いいな」
「はっ」
「僕じゃなくて。ここはタマリアの家だ。わかるな」
それでマツツァは改めて向き直り、タマリアに言った。
「御迷惑はおかけしません」
「ならいいよ。ちょっとゆっくりしてて。私は外で鍋モノ作ってるから」
そうして彼女は家の外に出た。それを見届けてから、ニドが尋ねた。
「それで? 何しにきたんだ」
それから、俺は一通りの説明をした。
「なんだよ、じゃあ俺、とばっちりじゃねぇか」
「そういうことになる。でも、確かにクロル・アルジンの例の苗は、パッシャが盗み出したか何かしたはずのものだし、帝都に残党がいても不思議じゃない。で、僕を巡っての陰謀みたいなものを誰かが仕掛けてきている。となると、パッシャの関与も疑わないわけにはいかなくなって。要するに、うちの人間が誤認してお前をつけ狙うなんてことになったら、と思ったから。先に話をつけておかないとどうなるかわからないところだったんだ」
要するに、うっかりニドがヒジリの視界に入った時、手違いで殺されないようにするために。だから、この手間は省きようがなかった。
「けど、俺はこの三年くらい、ずっと帝都にいるけど、連中の痕跡は見かけなかったな」
「なぜわかる?」
「そりゃあお前、互いに符牒くらいは使うからよ。身を隠して仕事すんのに、それとわかんなかったら同士討ちする羽目になんじゃねぇか。でも、帝都に来てから、それっぽいものは一切見てねぇ。ま、俺がほとんど繁華街に篭って女ばっか食いモンにしてるせいかもしんねぇけどよ」
ニドは首を振った。
「俺が思うに、組織の残党がまだ帝都で動き回ってるってのは、なさそうに思うけどなぁ」
「とはいえ、絶対でもないだろう。で、迷惑かもしれないが、もしこちらから調査の協力を求められたら、なるべく応じて欲しいんだ。無駄な、意味のない争いになるのが一番怖い」
「はいはい、わかったわかった。しょうがねぇなぁ。けど、その場合」
俺の後ろにいる二人に目をやりながら、彼は言った。
「ちゃんと代金は支払ってもらうぜ?」
「なんだと、この」
マツツァがついに怒り出してしまった。
「パッシャなどという悪の組織に加わり、悪事を重ねながら、それに対する贖罪の念もなく、金銭まで要求するとは」
「知るかよ。俺はそのパッシャに拾われなきゃ死んでたんだ。それが悪いっつうんなら、俺がそこまで堕ちる前に救ってからにしてくれよ」
「よせ、二人とも」
水と油だ。わかってはいたが。
「とにかく、気分の良し悪し、好き嫌いは別として……ニドにとっても、もし残党が帝都にいたら、裏切者を消しにくる危険があるってことだ。ものは考えようだぞ? 今なら、ワノノマの連中を利用して、そういう心配を減らすことができる」
「考えようじゃなくて、それ、ものは言いようってな。わかった、割引料金で働いてやるよ」
ともあれ、これでやっと話し合いが落ち着いた。
一息ついたところで、ちょうど扉がノックされた。返事をすると、タマリアが入ってきた。
「まだお話中?」
「いや、今、終わったところ」
「じゃあ、鍋できたし、食べよ! あ、器、あるだけ持ってきて」
俺達が外に出ると、タマリアは明後日の方向を向いていた。右手におたま、左手にフライパン。それを頭上高く掲げると、カンカンと乱暴に打ち合わせ始めた。
「みんな、できたよー!」
みんな? と俺が疑問に思っていると、俄かに近所が騒がしくなった。扉を開ける音、無数の足音、そして見る間に黒い顔をした子供達や、汚らしい無精髭の中年男、それに杖を突いて歩く老婆などが続々と湧いて出てきた。
「この人数だと、パンは半分こずつかな。果物は一口ずつくらいしかないけど」
「あ、あの、タマリア?」
「どうしたの?」
「これはいったい」
当然でしょ、と言わんばかりに彼女は笑顔で答えた。
「ある時にはみんなに配ることにしてるの。どうせ今は夏だし、食べ物たくさんもらっても、腐らせかねないし」
なるほど、習慣にしているのだろう。でなければ、この反応速度はあり得ない。
「助け合い、ってことか」
「言葉も通じない子もいるんだけどね! ま、それはそれでよし」
太っ腹というか、なんというか。これは良し悪しがある。
「いっつも悪いなぁ」
ハンファン系の小男が、そう言いながら手を伸ばす。
「ははっ、シュウランさんも、元気になったら働きなよ」
「すまねぇ、姉御」
こんな風に、働いて得たものなどをあっさり周囲に還元してしまっていたのでは、いつまでたってもお金持ちにはなれない。俺やニドの手助けを拒みつつ、いつかスラムを脱して豊かに暮らそうと思っても、これでは難しいのではないか。
でも、だから彼女はここで生きていけるのだ。彼女の家には、例のスーディアにいた頃の貯金壺がまだ残っている。盗まれたりはしていない。性暴力その他の被害にも遭ってはいないのではないか。それはニドという強面が定期的に様子を見に来てくれるから、というだけではない。タマリアに危害を加えることでその支援の対象から外されるリスクがあるし、また彼女から助けられている人々全体からも敵視されることになる。
理屈でいえば、そういうことになるのだが、それだけでは成り立たない話だ。頭で考えれば、また長い目で見れば、そうした方が利益があるとわかっても、それに従えない方が人間としては普通だから。あのティンプー王国のスラムで見たように、女神教の神殿が整備した救貧施設、まさにスラムの住人自身の命を繋ぐ井戸の安全柵さえ、解体されてしまっていた。
こうした分配と協調が成立しているのは、ひとえにタマリアの人柄あればこそではなかろうか。
ニドが言った。
「な? これだから、手助けするっつってもよ」
「完璧に馴染んでるな」
なんとも奇妙な空間だった。
ここはスラム、周囲には剥き出しの地面と瓦礫、いるのは浮浪者ばかり。なのに、彼らは笑顔でパンを食べ、スープを飲んでいる。どういうわけか、微妙に居心地がよかった。
確かにこれは「ご馳走」に違いない。不思議と腑に落ちる気がした。
ここにもまた、人の世界があるのだ、と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます