犬と待ち伏せ

 王国の公館、その奥の間は、今では王族の私的領域として使用されている。本来、話をするだけなら他にも部屋があるのだが、今日は人が多い。そういう会議室の類は、どれもグラーブやベルノスト、そしてその下で働く大勢の学生に占拠されている。


「こちらへどうぞ……ふふっ、私がいるのですから、そんなに固くならなくても大丈夫ですよ」


 先に立って歩くリシュニアが振り返り、俺に微笑みかけた。


「私の部屋も一応は残っているのですけど」


 そう言いながら、彼女は短い廊下の向こうにある扉に手をかけた。


「今はほとんど物置みたいに……きゃっ!」


 半開きの扉の向こう、足下から大きな影が飛び出てきた。


「びっくりした……コペ? こんなところにいたの?」


 いきなり姿を現したのは、サモエドっぽい見た目の犬だった。真っ白な被毛が美しい。いつも笑っているような口元、黒い垂れ目、そして止まらず振られ続ける尻尾。手入れが行き届いているのが一目でわかる。

 そのコペと呼ばれた犬は、俺という新たな来客に気付くと、トタトタと駆け寄ってきて、いきなり廊下の真ん中にゴロンと転がり、腹を見せた。


「もう。そんなところで寝たら、ファルス様が通れないでしょ? さ、起きて」


 リシュニアに揺すられると、コペは忙しない様子で起き上がった。そして、俺とリシュニアを見比べながらしきりと足踏みしている。

 なんだか妙にハイテンションだ。


「さ、こちらです」


 リシュニアが向こう側の扉を開け、俺が続くと、コペも取り残されまいとして追いかけてきた。それから、やや窮屈な一室に案内されたのだが、どこまでもついてくる。


「済みません、ここが私の部屋なんですけど」


 王女様の私室とは思えないほどの狭さだった。四畳半ほどしかない。ただ、向かい側にも扉がある。あとは、中庭に向けて高い位置に窓があるくらいか。クリーム色の内装はさすがに上品だが、あとは空っぽの棚が一つ、燭台が一つ、椅子が二つに四角い小さなテーブルが一つ。


「この奥は、もう寝室しかなくて、そちらは普段使っていないので、物置みたいになってしまっています。ここでよろしいですか」

「あ、はい」

「では、お茶をお持ちしますね」

「あっ」


 そのまま彼女は慌ただしく出ていってしまった。まぁ、使用人に言いつけて終わりのはずだ。

 彼女を追いかけようとして足を止めたコペは、しかし、すぐに戻ってくるだろうことを察したのだろうか。それから俺に向き直ると、やにわに飛びついてきた。俺も犬は嫌いではない。それなら、と頭を撫でようとして手を伸ばすと、仰け反ったまま、その手を舐めようとしてくる。飼い主に似ず、かわいらしいものだ。

 それにしても、このテンションの高さ。全然興奮が収まらない。頭を撫でてやっているのに、体を優しく叩いてやっているのに、過呼吸かと言いたくなるほど鼻息が荒い。顔を舐めたくて仕方がないらしく、うっかりすると頭突きになりかねない勢いで飛びついてくる。


 足音が近付いてきたのに気付いて、俺はコペを抱きしめて、抑え込んだ。そのすぐ後に扉が開いた。


「お待たせしました」


 そこにいたのはリシュニア一人だった。片腕でトレーを支えながら、もう片方の手でそっと扉を開けていた。


「えっ、ちょっと、殿下」

「済みません、遅くなってしまいました」

「いえ、そんな」


 お茶を用意させてしまった。それも姫様自らに。

 両手を添えてテーブルにトレーを置くと、彼女はいそいそとまた扉を閉じた。


「申し訳ありません」


 俺が頭を下げると彼女はいつもの微笑で応えた。


「いいえ、こうするのが楽しいのですよ」


 以前からの優等生らしさにより磨きがかかっている。

 だが、俺はどうしても思い出してしまうのだ。こういう雑用は、本来、彼女の仕事ではない。犬なんかに来客の相手を任せて、女主人がその場を後にするなんて、許されるだろうか? そうせざるを得ないのは、彼女に従者がいないから。フラウが処刑された後、彼女の横に立つ人は、ついに現れなかったのだろうか。


 トレーの上には、厚みのないカップが二つとポットが一つ、それに小皿が一つあるのだが、そこに載っているのはお茶請けではなく、ジャーキーだった。


「コペ、お座り!」


 彼女が手にしたものを目にすると、コペはいそいそとその場にしゃがみこんだ。


「いい子ね。ちょっとだけおとなしくしていてね」


 そう言いながら、彼女はジャーキーを与えた。それから俺に振り返り、ポットのお茶を注ぐ。


「では、早速ですけど、懸念なさっていることというのをお話していただければ」

「はい、実は先日、クレイン教授に呼び出されまして……」


 俺はこの前の出来事を一通り話した。


「なるほど」


 話し終える頃にはジャーキーの魔力も尽きていて、今はリシュニアの膝にコペが縋りついている。それを彼女は優しく撫でながら、俺の説明を聞いていた。


「聞いた限りでは、まだ問題というほどではないかと思います。直接、活動に参加しなかったこと、陳情が学内の出来事に限られていることから、何かあっても言い逃れの余地はあると思いますし」

「よかったです」

「兄にも伝えておきますね。もちろん、ファルス様が悪意のあることをなさるとか、そんな心配はしていません」


 ほっと胸を撫で下ろす。面倒事に首を突っ込みたくはない。俺は種麹の開発に忙しいのだから。


「あの、ちなみにクレイン教授って、どんな」

「はい。どちらかといえば、隣国寄りの人ですね。ただ、ヤノブル王と直接繋がっているということはないです。どちらかというと、今の王妃のイングリッドと近しい関係だったようですが、公には特に何かあるということもないようです」

「じゃあ、何をしたくて声をかけてきたと思いますか」

「揺さぶりとか様子見とかいった感じではないかと。ファルス様が簡単に靡きそうな方であれば味方になってもらおうというのも、あったかもわかりません」


 中身のない駆け引きだこと。そんな俺の感想を見透かしたように、リシュニアは座り直すと、目を伏せて説明した。


「クレイン教授は、今から五十年近くも前から帝立学園の教授を務めています。ナーム大学を出てから正義党の下部団体の職員になり、そこで働きながら著作を出して、一時期有名になったそうです。それもあって、帝立学園の当時の学園長が、最初は非常勤講師の立場で招いて、それから何年もしないうちにもう正教授になりました」

「それって凄い出世ですか」

「世間的にはそう見えるかもしれませんけど、彼女の父も議員でしたから。実家は裕福で、旧帝都の北側の閑静な住宅地に……そちらの別荘に連れていかれたんですよね?」

「別荘?」

「教授で議員ですから、あんな不便なところにずっとはいられません。都心の方にも別宅があるんです」


 まだ人物像が見えてこない。


「あの、彼女、結婚とかは」

「私の知る限り、未婚ですね。お子さんもいらっしゃいません。身の回りの世話とか、普段のお仕事の手伝いとかは、お弟子さんが持ち回りでやっているようです」

「弟子?」

「学園などを卒業した後も、彼女の関連団体でお仕事をもらったりする人達がいるんです」


 関連団体……それでやっと理解が追いついてきた。

 マホだ。彼女は余裕で帝立学園に入学できるだけの成績があった。なのに特定推薦を受けての入学だ。この推薦を受けることで得られる特権とは、社会活動のための欠席が認められること。つまりマホは、クレイン教授の手駒として立ち働くために、そうした身分を欲した。


「あの、その団体って、世界融和……」

「いくつかで代表を務めていたりしますけど、実質的には弱者支援を活動の中心としているようです。つまり、この場合ですと、女性ですね」


 そういえば、少し前のホームルームでの議論も、そういう内容だった。マホがシングルマザー世帯への支援が不足していると訴えていたっけ。それに、養老施設の警備員も必要だと言っていた。だが、帝都における「養われる老人」とは即ち市民権の所持者だ。ということは……


「議員活動のため、という理解で正しいんでしょうか」

「そういうことなのかもしれませんね」


 多くの女性票を得て議員活動を継続するため。だとすれば合理的ではある。

 ただ、ではなぜ議員でいたいのか。教授の仕事を続けるのか。そうなってくると、やっぱりわからない。なぜなら彼女には、父から受け継いだ財産がある。働かなくても、もう困らない身分だから。


「今日は兄も忙しいでしょうし、明日、私の方から伝えておきます。暗くなる前に帰りませんか」

「そうですね」

「さ、コペ。帰りますからね」


 言葉がわかるのか、それとも立ち上がろうとしたことに反応したのか、コペは前足でリシュニアのスカートの上をひっかき始めた。


「随分懐いているんですね。でも、確かその犬、アナーニア様が飼っていた犬ではないんですか?」

「ええ、そうですよ」

「なんだか落ち着きがなさすぎる気がするんですが」


 椅子から立ち上がり、そっとコペの前足を下ろす。するとコペは、いかにも残念そうに尻尾をだらっとさせた。遊びに来てくれた人間が、また出かけてしまうのがわかったのだろう。

 リシュニアも、申し訳なさそうに眉を八の字にしている。


「飼い始めて最初の三ヶ月ほどで、飽きてしまったようで……大きくなりすぎたとか言ってました。近頃は、あんまり構ってやってないそうなんです」


 そういうことか。ふわふわした子犬のうちはかわいいが、成犬になったらそうでもない、と。

 元々アナーニアのことは好きではなかったが、余計に嫌いになりそうだ。


 公館を出て、俺と彼女はまっすぐ南に向かって歩いていた。そろそろ空の色に黄色いものが混じりだしているが、まだまだ明るい。

 気を遣ってか、彼女は俺に話しかけた。


「いかがですか、もう半年ほどになりますけど、帝都での学生生活は」

「そう、ですね」


 あんまり前向きなことが言えそうにない。


「豊かできれいな街だとは思います。でも、学ぶものがあるかというと」

「あら」

「今は毎日、料理のことばかりですね。先ほど、ちょっとお話しましたが、とある調味料を作りたくて」


 物珍しそうに俺を見つめてから、彼女は言った。


「意外ですよね」

「そうですか?」

「ファルス様といえば、人並み外れた武勇ですのに。若くして黒竜討伐にも参加なさいましたし、ポロルカ王国の変事でもご活躍だったとか。なぜかあまり広く知られてはいないようですけど」


 俺は首を振った。


「剣より、包丁ですね。大事なのは」

「まあ」

「でも、どこにも欲しい手掛かりがなくて。帝都になら、何か情報があるかなと思ったんですが」


 夕焼けのような渋みを感じさせる微笑を浮かべて、彼女は呟いた。


「夢中になれることがおありなのですね」

「はい。夢中というほど夢中かというと、気持ちは落ち着いているんですが、なんというか、やるべきこと? そういう気持ちでいます」

「帝都にやってくる学生としては、珍しいと思いますよ」


 そうだろう。大半は遊んで過ごしてしまう。少しマシなのでも、ほぼコネ作りに労力を使い果たす。ここはそういう風にできている。

 大通りを横断するために、地下道に入った。


「私も、やりたいことがそんなにあるわけではなくて……これでは、遊んでいるようなものです」

「王族としての務めは果たしていらっしゃるんでしょう」

「一応は、ですよ。ほとんど兄のお仕事で、私は少しお手伝いをしているだけですから。それに、それはただのお仕事で、私がしてみたいことではないですし」


 してみたいこと、か。

 では、リシュニアの夢というのはなんだろう?


「お料理ですか。素敵だと思いますよ」

「いえ、まぁ、自慢できるようなものでもないですし、他に学ぶべきものを見つけられなかったということでもありますから」


 俺は溜息混じりに言った。


「ただ、どうやら帝立学園の生徒は、遊んでばかりいるみたいですね。さっきのコペにしたって、かわいいのはわかりますが」

「一目で気に入ってしまいますよね」

「だけど、あんな風にオモチャみたいに犬を飼い始めて、今はあんな……正直あれはどうかと思います」


 おっと、アナーニアの悪口になってしまった。リシュニアが返事に窮したのか、何も言わないで歩いている。迂闊だった。

 それで、取り繕うために言葉を探していると、地下道の出口手前で彼女が立ち止まり、俺に振り向いた。


「うちにも、犬がいるんですよ」

「えっ?」

「せっかくですし、会っていかれます?」


 どういうことだ?

 いや、アナーニアと違ってちゃんと大事にしているのなら……でも、従者もいないのに、世話なんかできるのか? それより、どう返事をすればいいだろう?


 戸惑う俺の耳に、前方からの軽やかな足音が触れた。


「ごきげんよう」


 その顔を見るのは、入学式以来だった。マリータは、俺とリシュニアを見比べ、すっと目を細めた。そして口元だけで笑っている。


「こんな薄暗いところで何をしておいでなのかしら」

「寮に帰るところでしたよ。マリータさんは、どちらへおいででした?」

「先ほどまで、近くでお茶を」


 どちらもうっすら微笑んでいるが、これは俺の先入観もあってか、やたらと怖い。


「では、お帰りのところですか」

「ええ、そんなようなものですね」

「でも、そちらの公館は川向こうで、この道路を渡る必要はなかったと思いますけど」


 リシュニアの指摘通りで、エスタ=フォレスティア王国の公館は二番橋の北側にある一方、シモール=フォレスティア王国の公館は、二番橋の南側で、帝立学園の北側、東一号運河の横にある。だから、二番橋に繋がるこの大通りを北に抜ける地下道に足を踏み入れる理由はない。

 つまり、マリータはここで俺達を張っていたのだ。もちろん、彼女が自分で暑い中、見張りをしていたわけはない。本人は、こちら側の高級店街の飲食店で冷たいお茶でも飲みながら涼んでいて、手下がこちらの公館付近に待機して、様子を見ていたのだろう。


「まっすぐ帰るつもりだったのですけど、すぐ下から人の声が聞こえてきてしまったので、つい」


 それから、彼女は俺を睨めつけた。


「犬がお好きなのですね」

「まぁ、そうですね」

「制服に犬の毛がついているくらいですから」

「えっ」


 さっき払い落としたつもりだったのだが、まだついていたのか?


「ふふ、冗談ですわ」


 それからリシュニアに向き直ると、表向きは余裕の笑みを浮かべながら言った。


「私もお邪魔してよろしいかしら?」

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