剣の導く先にある闇

 聳え立つ石造りの壁が黒い影を落とす。屋上の縁には狭い間隔で分厚い木の板が突き立てられているが、これは城の胸壁と同じようなものなのだろう。狭間から安全に矢を放つためのものだ。

 冒険者ギルドの建物は、ここに至るまでいくつも目にしてきたが、これほどまでにはっきりと戦闘を意識した構造をしているのは、あまり見たことがなかった。せいぜいタリフ・オリムの支部くらいなものだったか。あれにしても実戦的な機能はとうの昔に喪失しているのだが、ここのは違う。

 今日はこのギルドの門前に、大勢の若者が集まっていた。


「混み合ってるな」

「今更到着、か」


 俺達は連れ立って関門城の城下町……兼、前線基地に出向いていた。探索隊は結成され、役割も各班に割り振られた。今日は最後の買い付けだ。ところが、そのつもりで外に出てきたら、いきなりのこの混雑だ。


 既に翡翠の月の下旬に差しかかっている。関門城に到着して十日ほどが過ぎていた。その間に、例年より遅れて、ようやく女神挺身隊の第一波がこの地に到着したらしい。

 手続きのためにギルドの前に並ぶ彼らの顔を見やる。まだあどけなさのようなものが抜けきっていない。やっと十五になったばかりの若者達。帝都での競争に負けて、ここまで流されてきた棄民だ。人形の迷宮でも大勢が犠牲になり、また離散していったが、彼らの将来も決して明るいものではないのだろう。

 ウンク王国としては、いくら役立たずとはいえ、彼らを受け入れないという選択肢がない。実際に関門城を支えるのは熟練の冒険者であり、兵士達ではあるのだが、帝都の資金援助がなければ、ここの防衛線の維持も、ひいては国家の存続もかなわない。


「ここだ」


 タウルが立ち止まる。

 そこは船を売る店だった。


「いろいろあるけど」


 幅広の筏が目についた。だが、そちらに目をやると、タウルからすかさず声がとんできた。


「それはだめ。こっちの細いのを選ぶ」


 積載量では圧倒的に筏のが大きい気がするのだが、タウルは細長いカヌーを指差した。


「どういうこと?」


 ノーラの疑問に、彼は頷いた。


「筏は第二区画まで、ケカチャワンの下流を探索するときに使うもの。あそこは川幅も広くて、流れも割合緩やか。陸地も半分水に浸かってるようなところ。だから、あちらに行くときは、夜寝る時も筏の上。沼地の真ん中では、いつ増水するかわからない。それに」


 彼は自分の首筋を叩いてみせた。


「川の上で碇を下ろして寝たほうが、虫に刺されずに済む。沼地を掘り起こして琥珀を探すのは、昼間だけ」


 つまり、居住スペースも同然だから、筏なのだ。


「じゃあ、こちらの細いボートにする理由は?」

「上流に進むと、川幅が狭くなる。流れも急になる。水の量も増えたり減ったり」


 手を上げ下げしながら、彼は説明した。


「川底は浅い。増水すれば川幅は広がる。根っこから引っこ抜かれた大木も流れてくる。でも、少ない時には川の真ん中に少し水があるだけになる。そうなると、筏では通れない」

「そんなに?」


 彼は頷いた。


「そういうときは、ボートの左右に縄をかけて、河原を歩いて引っ張って荷物を運ぶ。その方が楽」

「ほとんど川がなくなっちまうんだな」


 ジョイスが疑問を呈した。


「でもよ、聞いた限りじゃルルスの渡し? だかなんだかの先は、対岸も陸地で歩けるみてぇじゃねぇか。その先はボートなんかいらねぇんじゃねぇのか?」

「そっちを歩く方が大変」


 現地を知るタウルは、今度は手で山を描いてみせた。


「あの辺りから、川の対岸は丘だらけになる。昇って降りて、昇って降りての繰り返し。それなら平たい川沿いを歩く方が楽」

「マジかよ」

「たまに丘と丘を繋ぐような通路みたいになってるところがある。そういうのがあれば、楽はできる。でも、崩れてることが多い」


 そこまで聞いて、今度は俺が疑問を差し挟んだ。


「奥地に行きたいとは言ったけど、どうして上流ばかりに? 下流を目指すのもありだと思うんだけど」


 むしろ魔物の領域に攻め上るというのなら、下流方向に進んだ方がいい気がする。流れに逆らわずに筏で物資を輸送。前線基地は戦利品の獲得以上に資源を浪費するだろうし、帰りの荷物は少ない。撤退が難しい問題はありそうだが……


「下流は流れが変わりやすい。目印になるものが残りにくい。流れ着いた大木が流れを堰き止めることもある。意外と進みにくい」


 うろ覚えだが、ルークの世界誌の記述に従うなら、彼は上流にも下流にも進んではいない。川を渡りはしたが、そのまま森の奥へと進んだ。しかし、その地点がどこなのかは、割と曖昧だったりする。

 ベッセヘム王国の元王族というのも、要は脱法移民同然だったので、人里離れた場所でひっそりと生きるしかなかったはずだ。いずれにせよ二百年も前の話であり、川の流れも現在と違ってしまっているだろう。あまりあてにしすぎるのもよくはない、か。


「アワルの班に、二十人の荷運びがつく。そいつらはこのボートを運んで戻って終わり。あとはこのボートで、ペダラマンが川を行き来して、ケフルの滝まで往復する」


 そしてその物資を守るのがゲランダンの班、というわけだ。俺達はそこの基地からたっぷり支援を受けながら、落ち着いて奥にトライする、か。まるでお大尽様の道楽旅行だ。

 いや、俺はお大尽様そのものか。その気になればキトの税収を好きにできるのだし。構わない。俺という災厄が封印されるのなら、使徒の計画を打ち崩せるのなら、金貨を何十万枚使っても安い投資といえる。犠牲が出るにせよ、最大でも六十人程度だ。とするなら、先の戦争と比べれば微々たるもの。


 三日後には出発だ。

 今日明日のうちに備品の購入を済ませ、明後日は一日休養に充てたいところだ。


 その日の夜、みんなが寝静まった頃、俺は目を覚ました。このところ、やけに眠りが浅い。

 腰に剣を佩き、手荷物だけでそっと部屋を出る。


 関門城の中は静まり返っていた。真夜中ということもあり、廊下にも灯火が点されていない。小さな窓から差し込む月光だけで、視界は確保されていた。何もかもが灰色に見える。

 白く照らされた石の階段に足をかけ、昇っていく。やがて辿り着いたのは、城壁の上だった。


 離れた場所には兵士達が立っている。篝火も遠くにしかない。あまり必要性がないのだろう。もし大森林から魔物の大群が押し寄せてきたら、まず遠方にある砦から狼煙があがる。夜間なら、火をあかあかと燃やすことになる。それに失敗しても、今度はギルドの前の広場が防衛線になる。さすがにここで盛大に火の手があがるので、それを見落とす心配はない。

 最初のうちは兵士達に見咎められもしたが、賓客という身分もあり、今では見逃されている。俺がこうして真夜中に涼みにきても、誰も何も言わなくなった。


 二週間近くかかったが、準備もほぼ済んだ。二日後には大森林に向けて、いよいよ出発する。

 不安は多々あるが、その中の一つが食糧問題だ。他はなんとでもなる。ボートが壊れたら新品を送ってもらうか、現地で作り直せばいい。武器にも替えがある。だが、食べるものがなければ全滅は避けられない。しかも多人数の活動なので、ちょっとやそっとでは解決できない。一人なら運よく野鳥の一羽でも仕留めれば飢えをしのげるが、数十人ともなれば、根本的にやり方が変わってくる。

 そんな時、このゴブレットがあれば……


 ポーチから取り出されたそれは、月の光を照り返して、変わらず銀色に輝いていた。だが、俺が蓋を外そうと手を伸ばすと、まるでよそよそしくなったような冷たさを感じるのだ。

 気のせいかもしれない。だが、内心に大きな恐れが生じて、開けることができないのだ。キニェシを去ってからずっとこんな調子だ。


 シーラが俺を罰しているのだろうか? いや、裁きは本来、彼女の領分ではない。

 今、俺を苛んでいるのは、俺自身の行いだ。生命を育む女神は何もせず、ただ俺が俺自身の非道を知るがゆえに、自分の姿を鏡の中に見出して、恐れおののくのだ。

 それも当然ではある。あれだけ憎悪に駆られて人の命を奪っておいて、急に「必要だから」という理由だけでまた、女神の支援を求めるなど、あまりに図々しいではないか。そうした罪悪への自覚が、そのまま俺自身を縛る鎖になっている。


 このゴブレットを使えないと、仲間が餓死するかもしれない。だが、それでも許されると思うべきではないのだ。

 なぜなら、餓死は自然に生きる動物達にも起き得る出来事であり、そこに善悪はない。生きる上での必然の一つでしかない。憎悪による無益な殺戮とは同等に扱われ得ない。自衛のための戦闘や、食料を得るための狩りが辛うじて許されるのと同じ道理だ。

 では、シーラは俺のことを気にかけてはくれないのか? 最後に残ったウルンカの民の生き残りを見捨てるのか? そうではないのだろう。恐らく「助けたくても助けられない」のだ。

 神とは不自由なもの。そんなようなことを言っていた。権能から外れた行動をとるのは難しい。下手をすると、ギウナのような自滅に繋がる可能性すらあるためだ。


 蓋を開けよう、開けようとしながら、どうしても内心の恐れを取り除くことができなかった。結局、まだ無理ということか。何千という人を死に追いやっておいて、簡単に許されようというのが筋違いなのだ。

 仕方なく、またポーチの中に戻す。


 代わりに俺は、腰に佩いた剣を引き抜いた。まっすぐな剣身が、月の光を受けて光り輝いた。

 自分でも、どうしてそうするのかが説明できなかった。とにかく、この輝きを目にしていたいのだ。ただ、それだけではない。これまた説明できない居心地の悪さのようなものも感じている。見れば見るほど見とれてしまうのに、同時に内心にザラつく何かがあるのだ。


 これは、シーラのそれとはまた違った問いかけだ。

 お前の選んだ方角はこちら。その先に何があるかを見極めよ。冷たい声でそう宣告されている気がする。


 俺は、何のために旅をしているのだろうか?


 不老不死を得るためだ。なぜ不死が必要なのか?

 使徒に狙われているから自分を封印……いいや、それは後付けの理由だ。少なくとも、俺がピュリスの北門を潜った時には、そんなことはまったく考えていなかった。

 理由はただ一つ、人の世から遠ざかりたかった。


 なぜ人の世から遠ざかるべきだと思ったのか?

 これは即座に答えることができる。悲しみが尽きないからだ。

 エンバイオ家に仕えたあの日々の中で、俺はそれを思い知らされた。とりわけ家族同様に過ごしたアイビィのことは、忘れようにも忘れられない。だが、そんな彼女を手にかけたのは、他の誰でもなく、この俺自身だった。


 では、俺は世界で一番哀れで不幸な人なのか? いや。多少の不運はあったにせよ、同じような悲劇ならいくらでもあったはずだ。前世、本で読んだだけだが、例えば朝鮮戦争のときには、離れ離れになった家族がそれぞれ南北政府の兵士になっており、殺しあったという話があったっけ。だが、そんな遠くに例を求めなくとも、いくらか似たような事例なら、いくつも目にしてきた。

 まず思い出すのが、ウィーがクレーヴェを殺したことだ。だが、骨肉の争いというなら、例えばあの海竜兵団のバルドも、内紛に乗じて実家の人間を虐殺した。タンディラールかフミールか、誰がどれだけやらかしたのかはわからないが、セニリタート王も毒殺されている。あのティンティナブラム伯のオディウスも、実の兄を暗殺してその地位を得た。

 直接的な死に至らなくとも、そうした衝突や悲劇は、枚挙にいとまがない。ルースレスもオディウスを裏切ったし、リシュニア王女にしても、側近のフラウが長子派に寝返っていた。


 そんな大きな話でなくても、やはり悲しむべき出来事はいくらでもあった。

 自尊心を損なわれたサフィスはエレイアラと子供達に捨てられそうになった。ディン・フリュミーはもともと妻のランに愛されておらず、末の娘だけを連れてムスタムに去った。俺にしても、保護するつもりで抱え込んだ娼婦達の一人、シータに裏切られた。


 どうしてこうなってしまうのか?

 タンディラールはあの夜、お前に私は殺せないといって、俺のことを嘲笑した。その通りだ。俺は彼を殺せるほどには愚かでなく、彼を憎まずにいられるほどには強くなかった。

 彼を殺しても、何も解決しない。なぜなら、これが人の世の仕組みだからだ。悪者一人を倒せば平和、みんな幸せというのなら……そんなおとぎ話みたいな世界があるのなら、どんなによかったことか。


 人の世は、絡み合う蜘蛛の糸だ。人は何がしか取引をする。意識するとしないとにかかわらず。その契約めいたものに、人は縛られる。その繋がりは、ときに絆と呼ばれる。

 みんなが繋がっているのが人の世なのに、その右手は左手の都合などに頓着していられない。逆もまたそうだ。そうして、捩じれる糸が左右の手を動かし、激しく衝突させる。


 なら、断ち切ってしまえばいい。

 そうだ。人の世は理不尽だ。ひたすらに善行を積み重ねてきたアイドゥスが焼かれて死ななければならなかったのはなぜか。自分の行いには何のやましいところもなかったソフィアが、迷宮の地下で許しを請わねばならなかったのはなぜか。

 だから俺はそうした。それを目指した。俺自身、自分に絡みつく糸を断ち切る。不死を得て永遠に眠れば、それが叶う。


 行動は結果を招く。果たして、俺の望みは実現し始めた。だが、実際には糸がほつれるたびに、俺は激痛を味わった。

 スーディアで使徒が俺に見せつけたのは、まさに俺の過去だった。彼は糸を断ち切ろうとする俺を応援していたのだ。なのに俺は、いざその時になると、尻込みするばかりだった。結果、ドロルというごく細い糸が切れただけで、後々まで思い悩むことになった。

 人形の迷宮でもそうだ。キースやガッシュといった仲間のこと、とりわけノーラの安全が、最後まで気にかかった。


 人の世を繋ぐ蜘蛛の糸の塊が危機にさらされると、どんなに悲惨なことが起きるのか。それを先の紛争で目の当たりにした。

 フィアン氏族の長アールンは、弟の目の前で糞尿に溺れて死んだ。ティズは自らの師であるラジュルナーズを死に追いやった。そのたびに俺は、世界が引き裂かれる音を聞いた。


 そしてここ、南方大陸は……ある意味、俺にとっての理想郷だ。

 この地には、人と人の間にはさしたる繋がりがない。カリのスラムに暮らす人々は、平気で我が子を井戸に捨てる。ここ大森林でも、奥地に生きる人々は、当たり前のように狩りだされ、奴隷として売り払われる。ラーマはなんと言った? 親が早死にしてよかった、と。ここでは秩序も規範も道徳も……社会を形作るものが、何もない。


 さあ、そこを目指した旅の末に何があるのか。それがそんなに素晴らしい世界なのか。

 それを見極めよと、我が身の指し示す先に行くがよいと……この剣に、そんな囁きを聞かされているような気分になる。そこには、何か好ましくない結果が訪れる予感も混じっている。


 剣を鞘に戻した。

 どうあれ、今から探索を中止するなどできない。中止したところで、他の選択肢があるのでもない。


 頭上にはうっすらと濃い灰色の雲がかかっていた。いつの間にか月は雲間に隠れ、か細い星明りだけが地上を照らしていた。

 生ぬるい風がふっと一吹きする。それは悪意ある何者かの吐息だった。

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