幽霊井戸

彼岸花

幽霊井戸

「やっぱり、一個しかないわよね?」


「一個しかないねぇ、和美ちゃん」


 友達である日菜子に尋ね、日菜子も私と同じ数を言葉にする。

 私達の前には、古井戸が一つだけあった。

 ……周りを軽く見回す。

 井戸の周囲は、とても見晴らしが良い。土壌の問題なのか、初秋にも拘らず草はあまり生えていないため、地面に何かあっても見落としはないだろう。夜中なら暗くて断言は出来ないけど、今はよく晴れた真っ昼間だ。更に古井戸は敷地を囲う塀の隅にあるため、そう遠くまで見通せるものではない。転落防止のための柵すらないのは、安全管理的にどうかと思うけど。

 そして塀の反対側には、今にも朽ちて崩れそうな廃神社がある。湿気の影響か柱が黒ずみ、所々苔むして緑色に染まりつつある建物は、井戸に日陰を作っている。ただそれだけだ。

 もしも近くに別に井戸があれば、恐らく見落とす事はないだろう。


「これも、ただの噂話かぁ。本物には何時会えるのかしら」


「そのうち会えるんじゃない? 私は信じてないけど」


「ぐぬぬ」


 私の言葉を、日菜子はバッサリと切り捨てる。否定したいとは思うけど、まぁ、出来ないのが現実だ。

 ――――私と日菜子は、高校のオカルト研究会に所属している。

 うちの高校のオカルト研究会は、会員四名という、あと一人で部活動になる程度の規模を誇る。主にオカルトを様々な方面で研究し、学祭などで発表を行うのが活動内容だ。

 やっている事はそこそこ真面目で、大体が民俗学に絡めたもの。日菜子も民間伝承とかから、オカルトを科学的に説明するのが好きだ。

 対して私は、本物を探すために活動している。研究会でも変わり者だ。まぁ、なんか信念とかがある訳じゃなくて、小学生ぐらいの時に馬鹿にされたのが未だに癪という、ほんとしょうもない理由なんだけど。

 そして日奈子は、オカルト否定派で、いるとは微塵も信じていないようだけど……私の意見を頭から否定する事もない、仲の良い友人だ。まぁ、頭ごなしの否定をしないだけで、論理的にはガッツリ否定してくるけど。でも『話』はしてくれるから、それだけで小学生の時に馬鹿にしてきた奴等とは全然違う。証拠を出せない私が悪いと、今の私なら納得も出来る。

 そんな私達は、今回此処を訪れたのはとある怪談を検証するため。

 その名も、幽霊井戸だ。


「おさらいしよっか。まず、幽霊井戸はどんな話?」


「……ある日坊主が庭を掃除していると、一つしかない筈の井戸が二つあった。奇妙に思った坊主が覗き込むと、幽霊が出てきて坊主を驚かす。坊主は慌てて神主を呼んだが、その時にはもう井戸は消えていたって話よ」


 日菜子に聞かれて、私は丸暗記した怪談を簡略化して伝える。

 幽霊井戸は、どうやら私達が暮らすこの地域にだけ残る、古い怪談らしい。

 江戸時代とかはもう少し広い範囲(厳密に言うとこの地域に隣接する『上隠山じょういんざん』周辺)で語られていたけど、今ではすっかり廃れているとか。この地域でも、今でも知っているのは年寄りぐらいしかいない古いお話だ。一応図書館に置かれている民話資料には載ってるらしい。

 歴史があるだけに細部のパターンも豊富なんだけど、大まかな話の流れは単純。「井戸が何故が二つある」「中から幽霊が出てきた」「怖くて逃げた」「神職を連れてきたがもうそこに井戸はなかった」。

 実際には幽霊が出ないパターンもあるし、恐ろしい声が聞こえるとかいう場合もある。割とバリエーションは豊かな、言い方を変えれば適当な怪談だ。

 そして私達が今回訪れた廃神社も、その幽霊井戸が出ると言われている場所……だった訳なんだけど。


「その幽霊井戸さんは、現状何処にもない。つまり今回も、ただの言い伝えね。証明終了」


「ぐぬぬ……い、いや。もしかしたら、一人で来ないと出てこないとか、夜にならないと現れないとかあるかも知れないわ」


「それはまた、シャイな怪談ね。というか夜の古井戸とかただの危ないトラップじゃん。目の前のあれだけで十分怪談になるでしょ、行方不明者続出で」


 苦し紛れの反論は、ジョークっぽい物言いで言い返されてしまう。確かに、なんでオカルトは一人とか夜じゃなきゃ出ないんだとは私も思う。

 いや、ぶっちゃけ理由は分かる。

 幽霊とかのオカルトは、つまるところ殆どが見間違いなのだ。一人であれば、見間違いはそのまま真実になる。でも二人いれば? 勿論二人とも見間違いをする可能性はあるけど……「あれは枯れたススキだよ」と誰かが一言指摘するだけで、幽霊は消えてしまう。夜も暗さから見間違いを誘発する。

 信じない人がいると出ないなんてのも、典型的な『言い訳』だ。信じてないから見間違いなんてしない。枯れ尾花を、ちゃんと枯れたススキだと思う。

 それはそれで、科学的・民俗学的には意味がある話かも知れない。でも、こんなのは本物じゃない。

 本物は、人間が二人いても、信じない奴がいても出てくる筈だ。


「……まぁ、うん。此処も外れね。ええ、その通りよ」


 不本意ながら、この話も偽物と認めるしかない。本物に会いたいからこそ、事実はきっちり受け入れるべきだ。

 ……幽霊井戸がいない以上、私の目的はもう果たしたと言える。私は何時か、本物に会いたいのだ。いない場所に留まっていても仕方ない。

 それでも、また空振りと思うと、ちょっと気落ちしてしまう。オカルト研究会に入ってもう一年。活動と称して何十ヶ所も見回ったけど、こんなに出会いがないと、やっぱり心に来るものがある。


「……うぅ」


 尤も、気落ちした私ではなく、何故か日菜子の方が変な声を出していたけど。内股になって、もじもじしている。


「どしたの?」


「いやー……ちょっと水飲み過ぎたかなー、その……」


「あー、トイレね」


「もうっ! ハッキリ言い過ぎ!」


 私が指摘すると、日奈子は顔を赤くして怒る。ハッキリ言い過ぎも何も、アンタが何時まで経っても言わない所為でしょーが。

 まぁ、そんなのは一旦置いとくとして。


「行きたいならさっさと行きなさいよ。近くにコンビニあったでしょ」


「……まぁ、うん。そうだね。ちょっとダッシュで行ってくる」


 促せば、日菜子は観念したように答える。

 そして内股の全力疾走でこの場から走り去ってしまう。

 ……いや、そんだけ我慢してたなら、さっさと言いなさいよ。


「ほんと、面倒な奴よねぇ」


 そういうところに呆れはするけど、如何にも女の子らしくて可愛いとは思う。

 ……さて。一人になってしまった。

 当たり前だけど、此処から勝手に移動すれば日菜子を困らせてしまう。だから待っていなければならないが、何もする事がないので退屈だ。

 それに廃神社で一人というのは、ちょっと気味が悪い。

 オカルトに会いたい癖に、と言われそうだけど、気分の問題なのだから仕方ない。それに私だって女子高生。こういう治安の悪そうな場所に長居するのは本意ではない。オカルトには会いたくても、オカルト以外の怖い目には遭いたくないのだ。

 まぁ、移動するという選択肢がない以上、気を紛らわせるしかないんだけど。

 こういう時に役立つのは、スマホだろう。此処は廃神社だけど、場所自体は(ちょっと小高い山にあるけど)住宅地のど真ん中。普通に電波は来るので、暇潰しをするのは難しくない。


「SNSでも見てよっかなー……」


 ぼやきながらスマホを取り出し、片手で操作する。

 そんな時の事だった。

 もぞもぞと、何かが動くような音が聞こえてきたのは。


「……? 何……」


 なんとなく音がした方に目を向ける。

 最初は、猫かなんかだと思った。野良猫なんていくらでもいるし、ネズミとかも、多分いるだろう。アライグマとか、そういう外来種が畑を荒らして問題になっているとも聞いた事あるし。

 だけど私の目に映ったのは、そんなあり触れた動物なんかではない。

 日菜子と一緒に見た古井戸のすぐ隣にぽっかりと空いた、だった。


「……………」


 目をパチパチと瞬かせてしまう。それから目を擦ってもみる。漫画やアニメで見た仕草を、まさか本当にしてしまうとは。

 そしてこのお約束行動をしても、井戸のようなものは消えない。

 いや、井戸のような、ではないとは気付けた。周りが畝のように少し盛り上がって、その中心に『穴』がある。その大まかな見た目が井戸に似ていたから、つい井戸があると誤認してしまったのだろう

 ……なんて納得しようとしたけど、やっぱりおかしい。

 だって、私と日菜子が調べた時、古井戸の周りには二つ目の井戸なんてなかったのだから。確かに、よく見れば井戸ではなくてただの穴なんだけど、『二つ目の井戸』を探していた私達がこれを見逃すとは思えない。穴がある場所も、井戸のすぐ隣だ。草なども生えてなくて、だからこうして目にしている。

 そもそも、あんな大きな穴を早々見逃す訳がない。

 見たところ、直径一メートルぐらいはあると思う。横にある井戸より一回り大きいぐらいだ。古井戸が見えて、この井戸っぽい穴は偶々見えなかった? 別に、自分の目がとびきり優秀だとは言わないけど、そこまで節穴なつもりもない。

 ただの穴じゃない。ただの穴じゃないなら、やっぱりアレは……


「……まさか、本物の幽霊井戸……」


 言葉にした途端、自分の心臓が強く跳ねたのを感じた。

 待ち望んでいた、本物のオカルト。それが今、私の目の前にいる。

 でも本当に、本当に本物なの?

 もしかしたら幽霊の正体見たり枯れ尾花の如く、何かの見間違いではないか。だってあんな、井戸に見えなくもないけど、所詮はただの穴にしか思えないし。

 確かめないと。

 何があるか分からないけど、でも、もう二度と出会えないかも知れない。

 小さい頃から誰も信じなかった、本物のオカルトに会えるのは、これが最初で最後なら……


「っ!」


 そう考えたら、身体が勝手に動いていた。

 恐る恐る、私は穴に向かって進む。近付いていけば、穴の全容が少しずつでも見えてくる。

 一メートル近い大きさの穴だが、どうやらただ陥没しただけのものではないらしい。かなり深い、それこそ井戸のように垂直な縦穴になっている。多分真上から覗かないと、底は見えてこない。

 手すりとかあれば怖がる必要もないけど、本物の井戸と違ってそれは本当にただの穴。畝のような盛り上がった地面も、身体を支えるには心許ない。むしろ足場とするには不安定過ぎる。

 それに、いきなり空いた大穴だ。もしもこれがオカルトでなく自然現象なら、多分地盤とかが脆くなってる。いきなり足下が崩れて、なんて事も起きるかも知れない。

 慎重に、少しずつ。そうして私は穴の傍まで歩み寄る。

 近くに寄ると、一つ気付きがあった。


「甘い、香り……?」


 良い匂いが穴の中から微かに漂っている。花や果物に似た、私的には好きな匂いだ。

 でもなんで穴の中から? 疑問に思いながら、私はついに身体を乗り出し、穴の中を覗き込む。盛り上がった部分が妙に幅広く、そこに足を乗せないと覗き込めないのが不安を煽る。

 心を落ち着かせるよう、静かに呼吸をしながら、少しずつ顔を穴の上まで移動させる。

 ……穴は、底が見えないぐらい深い。

 懐中電灯とかで照らさないと、底がどうなってるか分からない。それにここまで深いと、うっかり落ちたらそれだけで危ない。

 あと、どうやら幽霊って感じじゃない。

 どう見ても、ただの穴だ。覗き込んでも寒気とかは覚えないし、なんかの気配も感じない。不気味な顔がこっちを見ているとか、呻き声が聞こえる事もなかった。確かに突然現れたのは不気味だけど、幽霊とかが出そうな感じは全然しない。


「……なんだ、ただの穴か」


 多分地盤沈下とか、なんかそういう現象の所為なのだろう。

 期待していただけに、ガッカリ感も倍増。ため息と共に身体の力が抜けた。

 その時だった。

 


「え?」


 身体が傾いた。そう思った時には、もう私の頭は穴の中に入っていて――――

 ……………

 ………

 …


「う……ん……」


 意識が、戻る。

 そんで、身体が滅茶苦茶痛い。特に背中が、万遍なくじんじんと痛む。なんか、知らないうちに打ったのだろうか。

 あと凄く寒い。

 寒いと気付いたら、もの凄く身体が冷えてきた。ガタガタと震え出す。ぼんやりしていた意識も戻る。

 そして目を開けたら、辺りは真っ暗。

 あと、なんか水のようなものに身体が浸っている。冷たい。まだまだ残暑の厳しい時期なのに、この水は湧き水みたいに冷たい。底が浅く、溺れる心配がないのが唯一安心出来る事か。


「な、ん……ど、何処、此処……?」


 訳が分からない。なんで私はこんなところに?

 手を伸ばし、手探りで周りを調べる。そうすると、すぐ壁に触れた。ざらざらとした、何か、木でも触っているような感じの手触りだ。

 右も左も、全部その壁に覆われている。手が届く範囲で空いているのは上だけか。

 どうやら私は、狭いところに閉じ込められたらしい。


「う、ううん。違う、多分……」


 そこまで考えて思い出す。自分が意識を失う前、覗き込んでいた穴に落ちた事に。

 すぐに頭上を見上げる。ところが何も見えない。目を凝らしても、全然光はないように思う。

 まさか、気絶している間に夜になったのだろうか?


「ど、どうしよう……」


 昼間なら、大声を出せば助けを呼べたかも知れない。だけど夜になったら、あんな廃神社の近くを通る人なんてろくにいない。

 夜ならうちの家族が警察に通報して、今頃探していると思うけど……此処は寒過ぎる。それに水に浸かっている状態だと、人間は体温を奪われて長く生きられないと聞いた覚えがある。何時間も待つのは無理かも知れない。

 なら自力で、とも思ったけど、壁に掴めるほどの出っ張りはない。仮に掴めたところで、この暗さでは何処にどう手を伸ばせば良いか分からなかった。

 助けは呼べないし、待てない。自力での脱出も無理。

 どうしよう、どうしたら……


「ひゃっ!?」


 考え込んでいたところ、不意に電子音が響いたものだから驚いてしまう。

 どうやら制服の胸ポケットにあったスマホが鳴り響いているらしい。すごい。確かに防水で、お風呂でも使えるとかいう触れ込みだったけど、これでも壊れないんだ……

 なんて感心してる場合じゃない。スマホが鳴ってるという事は、誰かが電話してきている。つまり助けを求められる。

 胸ポケットに手を突っ込んで、スマホを取り出す。

 ピカピカと光り輝く画面には、日菜子の名前が表示されていた。


「ひ、日菜子!」


【わっ】


 大声で名前を呼ぶと、スマホの向こうの日菜子は驚いたような声を出す。


【どうしたの? そんな大声出して……というか今、何処にいるの? 井戸のところに戻ってきたのに、いなくなってるし】


 日菜子は落ち着いていて、何時も通りの口調で尋ねてくる。

 どうやら、私がいなくなってそんなに時間が経った訳ではないらしい。


「あ、穴に落ちちゃったの! だから、助けて!」


【え? 穴……え? 井戸に落ちたの!?】


「井戸じゃない! 穴! 井戸の横に大きな穴があるでしょ!」


 身体が冷えてきた焦りもあって、ついつい怒るような声で言ってしまう。

 言った後に自分の失敗に気付き、少しの間、何も言う事が出来なくなる。その間に日菜子が、怪訝そうな口調で言う。


【……井戸の横に、穴なんてないけど】


 私の言葉を、根本から否定する『事実』を。


「……何、言ってんの?」


【そっちこそ何言ってんの? オカルトを信じてるからこそ、こういう悪ふざけはしないと思ってたんだけど】


「う、嘘じゃない! 本当なの! 日奈子がトイレ行った後に、穴が出てきて……!」


 必死になって説明する。スマホの向こうにいる日菜子がどんな顔をしているか分からない。どうにかして信じてもらわなければ、ここまま冷たい水の中に取り残される。

 何か証拠は出せないか。日菜子が電話を掛けてきたのがあの古井戸の近くなら、大きな音を出せば気付いてもらえないか。例えば壁を叩くとか……

 そう思ってあちこち触っていて、ふと、違和感を覚える。

 この壁、こんなにだろうか?


【……どしたの?】


 日菜子の声がする。だけど答える余裕がない。

 気の所為だと思いたかった。何かの間違いだと。だからあちこち触って、自分の感覚が間違いである根拠を探す。

 しかし壁に当てた手に、押し返してくる手応えを感じてしまう。

 探すのを止めて、数秒だけ壁に手を押し当てる。そうすればハッキリと、力強く圧が返ってくる。少しずつ、だけど私にも分かるぐらいの速さで迫っている。

 間違いない。

 この壁は、私の方に近付いてきているんだ。どうして壁が動く? ホラーゲームの変な仕掛け部屋でもないのに……ああ、でも、これがなんであるかは些細な事だろう。

 私が押し潰される事に、変わりはないのだ。


「……や、やだ……助けて! 助けてぇっ!」


【か、和美ちゃん……? どうしたの? ねぇ、ちょっと】


「ねぇ! こっちの声が聞こえないの! ねぇ! ねぇっ!?」


【ま、待って。落ち着いて……】


 私が叫べば、日菜子の声も動揺を露わにする。こちらを落ち着かせようと、宥めるように話し掛けてきた。

 その言葉さえ、悠長に思えて私の気持ちを逆撫でする。

 壁は今も迫っている。真っ暗で見えないけど、壁の『圧』が感じられるようになってきた。もう、間近まで迫っているかも知れない。このままだと潰される。

 怖い。

 怖いけど、でもどうにも出来ない。壁は私がどれだけ力を込めてもびくともしなくて、今もどんどん迫っている。それでいて日菜子は私が何処にいるかも分かっていない。それとも私が何処か、普通じゃない場所に移動しているのか。

 もう、助からないのか。


【か、和美ちゃん、落ち着いて! 信じるから、だから場所を……】


「私は! 今! 此処にいる! 此処にいるわ!」


 日菜子がそう言うから、大声で叫び、壁を叩く。私の大声、ばしゃばしゃと跳ねる水音、壁をバンバンと叩く掌……何処までも届くなんて言わないけど、かなり大きな音を立てたつもりだ。

 スマホでも、その大きな音は聞こえたと思う。難なら日菜子の動く音が、微かにだけど聞こえてきた。

 でも、それだけ。

 日菜子が私の居場所を、見付けてくれる事はない。


「見付からない……なら、やっぱり此処は……」


 もう、何も期待出来ない。

 私が悪足掻きする中で、この怪現象は変わらず私を追い込む。

 底に溜まっていた水が競り上がってきたのだ。

 これは心霊なんかではなく、単に壁がこちらに迫った結果だろう。紙パックを握り潰せば、少ししかない中身が溢れるのと一緒。

 昇ってきた水が、私の身体を沈めていく。胸も首も冷たい水に浸り、体温がどんどん下がっていくのが感じられる。だけどその寒さが辛いとは思えない。

 私の身体は、もう限界が近い。

 尤も、力が完全になくなるよりも、上がってきた水で溺れる方が早いだろうけど。


「ごぶ、がっ、うぶ……!」


 水が口許まで迫り、息を吸おうとすると入り込む。暴れると跳ねた水が鼻に入り、ますます息苦しくなる。スマホもうっかり手放してしまい、日菜子との連絡も取れなくなった。

 もう、息が続かない。

 苦しい。死にたくない。帰りたい。

 様々な考えが頭の中に浮かんでくる。走馬灯と呼ぶには、随分喧しくて、懐かしくもなんともないものばかり。溺れ死ぬのって、こんなに怖いんだって、今更ながら思う。

 ああ、だけど。

 この世から綺麗さっぱり消えた私が、私の声が残された通話記録が、みんなが否定するオカルトの実在を証明するのは……

 それだけが、私の中では救いだった。





















 それは、古来から山に暮らす生き物だった。


 植物の一種、ヤブガラシ(ブドウ科の蔓植物)に近い種である。ただしヤブガラシと違い、それは葉だけでなく根も持たず、形態的には茎だけしかない生物だ。

 人類未発見の植物であるため和名はないが、ここではアナカコイと呼ぶ。


 アナカコイで特筆すべき点は、地中に向けて茎が伸びていく事だろう。


 地上に落ちた種子は、空ではなく暗い地面に向けて芽吹く。大地を掘り進みながら探すのは、セミの幼虫が出た際に開けたものや女王が死んだ後のアリの巣など、自然界で空けられた小さな『穴』。

 運良く穴を見付けると、ぐるりと囲うように茎を伸ばす。側枝なども積極的に生やし、まるで網でも張るようにくまなく展開するのだ。

 生育の最初期はほぼ土中の水分だけで育ち、凡そ数センチ程度の範囲を囲うだけ。そこまで育つと、アナカコイは一旦成長を止め、ただ待つようになる。


 待っているのは、穴に入り込む小動物。


 特にナメクジやダンゴムシなど、動きの鈍い生き物が来るのを待つ。豊かな自然界であれば、これらがやってくる事はそう珍しくない。数日もすれば一匹ぐらい入ってくる。

 それを感じ取るや、アナカコイは茎を縮めていく。

 穴の中は、アナカコイの茎で敷き詰められている。茎が縮まれば、あたかも穴の『壁』が迫るように、穴自体が狭まっていく。危険に気付いて慌てて逃げ出せば助かる可能性もあるが、動きの鈍い生き物は危険を感じると大概その場で止まってしまう。

 そのまま穴は閉じ、生き物は身動きを封じられてしまう。ナメクジのように柔らかな生き物なら潰され、穴の底に水が溜まっていれば迫り上がってきた水で溺れ死ぬ。


 そして穴を閉じた後、アナカコイは『消化液』を出す。


 アナカコイは食虫植物なのだ。小さな虫を栄養にして、アミノ酸などの有機物を十分に得たら更に枝を伸ばす。穴を広げ、より大きな生き物が入りやすくし、また獲物がやってくるのを待つ。

 そうしてゆっくりと成長し、十〜二十年ほどが経った頃に花を咲かせる。ただし花は穴の中に咲くため、観察どころか発見も困難であるが。

 小さなハエやハチなどにより受粉した花は小さな果実を作る。果実はゼリー質で甘く、アリなどに運んでもらう事で拡散する。大抵果実を食べた後の種子はアリ達のゴミ捨て場に捨てられ、そこで種子は芽吹き、手頃な穴を探して伸びていく。一度開花・結実した個体は、その後枯死する。

 そして新たなアナカコイが芽吹き、また小さな生き物を食べて育つ。


 ……という奇妙ながらも地味な暮らしをしている。


 丁度いい大きさの穴が必要な事、大量の水分が必要な事、穴が崩れるので雨があまり当たらない事、拡張が可能な粘り気のある土壌である事……と、生育環境をかなり選り好みする種であるため、個体数はあまり多くない。

 また現代では生息地の山周辺が開発され、住宅地や都市部に囲まれてしまった。都市の土壌は乾燥しやすく、野ざらしのため穴は雨風ですぐ崩落してしまう。このためアナカコイは定着出来ない。しかもアリ頼りの種子拡散方法であるため、アナカコイは長距離の移動が不得手。これ以上の分布の拡大は、最早自然には起こらないだろう。

 もしも人間がアナカコイを認知していれば、絶滅危惧種と指定したに違いない。


 ……そんなアナカコイに、ただ一体、特別な個体がいた。


 それは花が咲いても、枯れないという突然変異を起こしていた。開花後に発現する遺伝子に異常があり、実を付けてからも枯れずに生き残る。

 つまるところ長寿を手にした個体だった。


 大昔に生まれたそれは、長寿だけでなく運にも恵まれていた。


 偶々アリに運ばれた先は、とある神社の敷地。

 放棄されたアリの巣に茎を伸ばし、棲家とした。程々に拓けた、それでいて木々も多いその場所は、湿り気と餌が共に丁度良くて棲みやすかった。

 それはアリやダンゴムシなどを次々と食べ、大きく育つ。十年もすれば繁殖可能なほど大きくなり、花や果実も付けたが、遺伝子変異で枯れない。実を付けるには多くのエネルギーを使うが、豊富な獲物がその消耗を補っていく。むしろ花の甘い香りが、より多くの獲物を引き寄せる。


 強いて不運を挙げるなら、遺伝子の異常で種が不稔、つまり発芽しない事。

 このため子孫は増やせなかったが、個体としては延々と存続し続けた。


 何十年と成長したそれは、やがて犬猫さえも飲み込むほどとなり、犬猫を喰らってまた育ち……


 ついには、人をも飲むまで大きくなった。


 勿論人間相手でもそれは躊躇わずに食う。

 虫や犬猫と同じように、入ってきたものを潰し、溺れさせ、溶かし、吸収するだけ。


 そしてそれは賢かった。

 知能などなかったが、生理的な反応が極めて賢かった。


 相手が一人の時だけ穴を開くのだ。


 厳密には、歩いた際の振動がある程度大きい時、穴を閉じてしまう。これは獣などの天敵に、花や果実を食い荒らされるのを防ぐための性質。大きな振動を感じ取ると茎を動かし、入口を閉ざしてしまう。


 その習性を知らない人類から見れば、大勢で訪れた時には穴が消えたように見える。


 神社の裏に、他に誰もいない時だけひっそりと現れる大きな穴。

 これが幽霊井戸の正体なのだ。


 ……『幽霊井戸』であるアナカコイは幸運だ。


 神社の敷地に芽生えたがために、開発で棲家を奪われる心配がない。廃神社となった後も、住民感情や宗教観の影響で、その土地は今しばらく残り続ける。


 更にアナカコイという種は、このまま人類に見付からない。

 希少過ぎるその生物を発見する前に、人類文明は栄え、やがて衰えていき、この星から去るがために。


 故に幽霊井戸の伝承は消えない。

 真実が明らかにならねば、オカルトは存続し続ける。


 そして伝承があれば、人は集まる。


「おー、ここがウワサの神社か!」


 オカルトを信じないからこそ軽んじ。


「肝試しにはぴったりだな!」


 自らが万物の霊長だと疑わぬからこそ油断し。


「なんでもここは十年前、一人の女子高生が行方不明になったとかなんとか」


 世界の全てを知り尽くしていると過信しているがために。


「じょしこーせーって、うちのねーちゃんぐらいの歳か?」


「そーそー。そんで残された一人も精神崩壊して病院送りとか」


「ぜってーウソじゃん。そんな話あったら、もっとニュースなってるだろ」


「いやー、十年も前の話だよ? 僕達まだ生まれてすぐぐらいだし、知らなくても不思議じゃないでしょ」


 今の人間達は、例え齢十の幼子でも幽霊を恐れない。恐れを知らぬが故に、恐れに近付く。

 その無謀な輩を『怪異』は食らう。


「じゃ、一人ずつ入って、井戸のところで写真を撮る! 俺から行ってくるから待ってろよな!」


 今宵も一人、獲物がやってくる。


 恐れを忘れた人間達に、怪異を避ける術は残されていないのだ。

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