98『劣等感』

 美寧がジムで筋トレをするときは、いつも学校で使用しているジャージをそのまま流用している。

 運動しているときの服装だから、そのまま使えば良いだろ、くらいの感覚である。

 それで今までは特に問題はなかった。

 当たり前である。間違いなく学校指定のそのジャージは、運動に適した服装なのだから。

 さて、ジャージに着替え終わり、スクールバッグを棚に押し込んで、スマホとタオルを持って更衣室から出てきた美寧は、改めてジムの中を見渡した。


 ジャージ姿のような人は、1人としていなかった。


 皆、薄手の服装だ。

 膝までもないハーフパンツやショートパンツ、脚にフィットしているレギンスパンツなど。少なくとも、足首までだぼっとしたモサいズボンスタイルの人は皆無である。

 上は男性ならばタンクトップが多いだろうか。次に女性を含めて半袖シャツ。筋肉を見せつけているスタイルだ。美寧にとっての筋トレ先生は常にヤベぇボディラインはっきり分かるぴちっとした長袖のコンプレッションシャツだが、それは少数派のようである。

 皆、それぞれにカラフルなウェアに身を包んで、真剣な表情でトレーニングに励んでいる。

 思わず自分の姿を見下ろした。

 ジャージ姿が、急に恥ずかしくなってきた。


「……ううん」


 もやりと湧いてきた羞恥心を振り払うように、美寧は顔をぷるぷると左右に振る。

 他人は他人。

 自分は自分。

 気にしない、気にしない。

 そう自分へと言い聞かせる。


「あ、水」


 その気持ちから目を背けるように、美寧は入口近くの自動販売機へと近づいた。

 良かった、電子マネーが使えるタイプだ。スマホの決済で天然水を1本買って、ちらりと美寧は隣のテーブルへと目を落とす。

 入会キャンペーンの説明と、無料体験の説明のチラシが置かれている。先程の少年が説明を受けていたものであろう。

 先生とはどんな関係だったんだろう。甥御さんとか、同僚の息子さんとか?

 妙に関係性が気になっている美寧は首を捻った。あんな人でも殺していそうな凶悪な面をしているが、なかなかに面倒見が良いお兄さんである彼のことだ、紹介カードくらいは頼まれたらぽんぽんと作りそうな気はするので、顔見知り程度の可能性も捨てがたい。


 と、その少年が男性側の更衣室からふらりと現れた。


 少し絞まったハーフパンツに、コンプレッションの効いている半袖シャツ。

 鮮やかな赤を基調としたその服装は、下ろしたての新品には見えないことからも、明らかに場慣れしている格好であった。

 ああ、初心者さんじゃないんだな。

 どれからやろうかな、ときょろきょろしている少年の後ろ姿を、天然水を片手にしたまま美寧はぼんやりと眺める。

 何をしたら良いか分からない、という感じじゃない。

 どこかのジムからの移籍なのかもしれない。

 何故だか裏切られた気分が、少しだけ。


「……いやいや、いや」


 再度、首を横に振る。

 初心者を見つけて、マウントを取りたいわけじゃないだろ。そもそも自分自身が1ヶ月の超初心者だ。なんで裏切られたとか思ってしまったのか。

 きゅっ、と天然水のペットボトルを握り締めると、ぺこり、と軽く凹む。


 心細い。


 そんな弱音が出てきてしまう。

 いや馬鹿か。

 ここは、いつものジムじゃないか。

 心細いもなにも、今の時間は外も明るいし、周りに人は沢山居るし、スタッフの人だって居るし、先輩方の様子だって観察し放題なのだから、いつもより心強い感じじゃないか。


 確かに、先生のように親身になってくれそうな人は、居ないけど。


 心の中に、嫌な感じが広がる。

 人は独りでは孤独になれない。他者がいて初めて孤独は生まれる。

 何だったかの言葉が頭を過ぎる。


「…………」


 なんだか、今日はナイーブな感じだ。

 いやもう、筋トレだ筋トレ。

 この前、先生にマシントレーニング1周とか鬼みたいなメニューをこなした後は、頭の中はとてもクリアで、家に帰っても全くネガティブな感じにならなかった。筋トレはメンタル回復に効果的なのだ。

 まあ、そんなこと考えている余裕がなくなっただけなのだが。

 そして翌日と翌々日は筋肉痛が酷かったのだが。

 あれ、先生、あの時もしかしなくてもクソスパルタだった?

 自分の恩師へとヘイトを向けつつ、美寧は気を取り直してトレーニングエリアへと足を進める。

 レッグエクステンション。使われている。

 レッグカール。使われている。

 グルート。使われている。

 レッグプレス。使える。これにしよう。

 まずは脚のトレーニングを少し挟んで、と思って美寧は丁度開いていたレッグプレスのマシンへと近づいて。


「うっ……」


 思わず、足を止めた。

 いや、別に何かおかしな状態だったわけではない。

 ただ、前の人の重量設定がそのままになっていただけである。


 100㎏。


 レッグプレスのマシンで、その重りを固定させている設定ピンが、そこに刺さっていた。

 100㎏。

 凄い。

 男の人、だろうか。

 たぶん、マッチョさん、だろう。

 驚いただけで、別にそれ以上の他意はない。ないはずだ。


「あ、使われますか?」


 と、後ろから声が掛かる。

 先程の少年だ。

 何度見ても先生の友達だとは思えない、爽やか少年だ。

 ああ、この子もレッグプレスをやりたいのか。別に美寧はどうしてもマシントレーニングをしたいというわけではない。覚えたばかりなので、少し復習がてらやろうとしていただけである。


「ああ、どうぞどうぞ」


 先のぶっきら棒な挨拶はなかったことにしつつ、美寧は慌てて少年へとマシンを譲った。

 だって、たぶん、この子の方がちゃんとやれるだろうし。

 自分が使うよりも、この子が使った方が、良いだろうし。

 少年は礼儀正しく、ありがとうございます、と笑顔で返してから、いそいそとレッグプレスの椅子へと座る。


「うわ、これ250までいけるんだ……」


 重量設定を見てから少年は少し呟き、すぐにレッグプレスのスタートポジションを取った。

 重量設定の変更なし。

 100㎏のまま。

 椅子に座って背もたれに上半身を固定させ、足の裏を目の前のいたに押しつけて膝の曲げ伸ばしを行う、言わばスクワットのマシン版。

 少年はゆっくりと息を吐いてから、脚に力を入れ。


「ふっ」


 膝を伸ばす。

 重量は100㎏だ。

 美寧の、3倍くらいだ。


 自分はこれ、30㎏でやろうと、したんだが。


 慌てて美寧はその場を立ち去る。

 ああ、うん。

 あの子は、うん、初心者じゃなさそうだし。

 ぱっと見で線は細いけど、なかなかに細マッチョだったし。

 うん。

 100㎏は、余裕か。

 そうか。

 そうだよな。

 自分みたいなクソ雑魚と比べちゃおかしいよな。そうだよな。

 何故だか言い訳みたいな言葉が湧いて出る。




 ついでに、悔しい気持ちも、湧いて出る。




 いやいや、悔しがるのは、それこそおかしいだろ。

 こちらは初心者。あちらは経験者。

 重量設定に差はあって当然だ。

 そのはずだ。


「あー……バーベル」


 マシントレーニングのコーナーはなかなかの人気であり、逆にフリーウエイトのコーナーは若干余裕があるみたいだ。

 美寧は早足でマシンの群れを抜ける。

 横目で見ると、それぞれが思い思いの重量でトレーニングをしているのが見て分かる。

 ああ、あれはラットプルダウン。

 先生がしどろもどろに言い訳しながら最初に勧めてきた、背中の筋トレマシンだ。

 側面からは重量設定のピンが盗み見ることが出来る。


 70㎏。


 自分は、どれくらいだった?

 先生は、どの重量に設定してくれていた?

 その手前のローロー。プレートが10枚か12枚か、それくらいが浮いている。プレート1枚5㎏の設定だったから、目測で50㎏から60㎏。別口の、中学生くらいの、少年。

 アブダクター。あれは80㎏くらいか。先生程ではないが、ムキっとしたおじさまだ。なら仕方がない。しかたが、ないのか。

 チェストプレス。50㎏。自分と同じく女性じゃないか。ああ、くそ。

 ロータリーソー。ほとんどマックス重量じゃないか。くそ。

 何故か湧き続ける悔しさを押し殺しつつ、フリーウエイトのコーナーに辿り着く。

 パワーラックは、1基空いている。良かった。

 混んでいる中でも、自分が1番使っている機具が空いていたことに美寧は少しだけ複雑な胸の内をほっとさせつつ、その空いていたパワーラックへと近づく。

 すると、隣のパワーラックの様子が目についた。

 ベンチプレスだ。

 みんな大好き筋トレビック3の、ベンチプレスを行っている。


「ふぅぅ……っ!」


 パワーラック内のベンチに仰向けで転がっているその人は、今まさに胸に下ろしたバーベルを持ち上げるところであった。

 その人、と言うか、その子、である。

 小学生くらいの子だろうか。中学1年生かもしれない。

 それくらいの、女の子だ。

 その女の子が、ベンチプレスを行っている。

 バーベルを、持ち上げている。


 35㎏だ。


 また、足が止まる。

 女の子は歯を食いしばり、ゆっくりとバーベルを持ち上げる。

 腕がぷるぷるしている。

 本気だ。

 本気でトレーニングしているんだ、あの子。

 どうにか持ち上がったバーベルは、それがセットの最終だったのだろう、震えながらもゆっくりとラックへと掛けられる。




 恥ずかしい。




 不思議と、その光景を見た美寧の胸中に、ぶわりと羞恥心のような感情が吹き荒れた。

 悔しさよりも、恥ずかしさが圧倒的に上回った。

 カラフルなウェアの人ばかりの中に、モサいジャージ姿の自分がいることを自覚したときに感じた恥ずかしさなど比ではない。

 同じ女子で。

 年下で。

 ベンチプレスのフォームはちゃんとしていて。

 しかも、自分なんかよりも、重たい重量でのトレーニングをしていた。


 この子の隣で、すっかすかの重量でトレーニングをするのかと思うと、急激に恥ずかしくなってきた。


 美寧のベンチプレスは、20㎏だ。

 重りなど一切付けていない。

 バーベルのシャフトだけで行っている。

 先生から、まだ止めておけと言われたから、20㎏のままだ。

 だが、あの女の子は、重りを付けている。

 プレートが装着されたバーベルで、ベンチプレスを行っている。

 そんな年下のこの隣で、筋トレをするか?

 うわ、とか思われないだろうか。

 ショボいと思われないだろうか。

 ひ弱だとか思われないだろうか。

 初心者が来るなよとか思われないだろうか。


 笑われないだろうか。


 そんなに軽い重量で何をやってるんだとか、周りから笑われないだろうか。

 馬鹿にされないだろうか。




 隣の子に比べて、こいつはダメだな、とか。




 ひゅっ、と息が詰まる。

 それは昔、何度も、何度も、言われ続けてきた言葉。

 母から。

 父から。

 周りから。

 お前はダメなんだなと、言われ続けてきた否定の言葉。




 姉と比べて、お前は。




 違う。

 ダメじゃない。

 負けてない。

 あれくらいの重量なら、やってみたら上がるかもしれない。

 1回くらいは、いけるかもしれない。

 やれるかもしれない。


 失敗したら?


 笑われる、かもしれない。

 隣の女の子が上げられる重量で、潰れてやがると笑われるかもしれない。

 いや、場違いなイモ臭いジャージで来てる段階で、すでに笑われているような気がしてきた。


「…………っ!」


 踵を返し、ベンチのコーナーに向かう。

 いや、逃げる。


 やはり、あの子の隣でトレーニングをするのは、嫌だ。恥ずかしい。


 ダンベルだ。

 ダンベルをやろう。

 なんの種目をやろう。

 頭がごちゃごちゃしてきて、ダンベルで行う種目がすぐに思い出せない。と言うか、トレーニングしたい部位が思いつかない。

 胸か。脚か。腕か。肩か。それとも苦手な背中の種目でも。

 ダンベルのラックに辿り着く。

 1㎏から10㎏までのダンベルが2個ずつ縦に並べられた、ダンベルのラックだ。

 全種類ある。

 使われていない。

 低重量のダンベルは、使われていない。

 隣のを見れば、12㎏から50㎏まで、2㎏刻みのダンベルが2個ずつ並べられているダンベルラック。

 そちらの方はいくつか使用されて抜けていた。

 ちらり、と近くのベンチに座っている男性を見る。

 24㎏のダンベルだ。

 そのダンベルを右手に持ち、ベンチに座ったその太ももに右肘を固定して、ゆっくりとダンベルを持ち上げる。

 ダンベルで行う筋トレでは有名な、上腕二頭筋を鍛える種目、ダンベルカール、その1種だ。

 名前は、なんと言っただろうか、ダンベルコンセントレーションカール、だったか。

 そのダンベルカールで、24㎏。

 横目で見てから、美寧は10㎏のダンベルを1つ手に取る。

 重たい。

 脚に力を入れ、腹に力を入れ、ダンベルラックからぐいっと持ち上げる。


「ふっ……!」


 そのダンベルを、さらに持ち上げようとする。

 肘は下ろしたまま。

 その肘を曲げ、前にダンベルを持ち上げて、肩に向かって弧を描く軌道になるように。

 力を入れる。

 入れる。


 上がる、はずが、ない。


「に……ぃっ!」


 それでも諦めずにダンベルを持ち上げようと、さらに力を振り絞る。

 少しだけ肘が曲がる。

 僅かに、ダンベルが持ち上がる。


 いや、肘が後ろに、逃げているだけだ。


 上がらない。

 持ち上がらない。

 そもそも、ダンベルカールは有名所なのに、今までやったことがない。

 なので、自分の適性重量が分からない。


「……はぁ、は……」


 ダンベルを持ち上げようと入れていた力を抜けば、一丁前にも息が軽く上がっている。なにも出来ていないくせして。

 向こうのベンチでは、24㎏でダンベルカールをしている。

 自分は、その半分にも満たない重量ですら、出来ない。

 悔しい。

 恥ずかしい。

 なんだこれ。

 深夜のジムでは、こんな気持ちは少しも湧き出てこなかったのに、周りに人が居た途端に、周りのことばかりが気になって仕方がない。


「……邪魔になっちゃう」


 呟き声が漏れる。

 ああ、先生が大声はマナー違反ですよと、何度か言っていた意味がようやく分かった。

 こんな、誰も彼もが真剣に筋トレをしている環境で、何も考えないではきはき喋ってったらただの迷惑だ。そりゃそうだ。当たり前だ。

 ダンベルラックの目の前で突っ立っていた美寧は、ふらふらと空いているトレーニングベンチへと、10㎏のダンベルを1つだけ持って近づいて、すとん、と腰を下ろす。

 座ってから、固まった。


「……なにしよ」


 何も考えてなかった。

 頭がごちゃごちゃしている。

 なんの筋トレをしよう。

 どの種目にしよう。

 それを考えてすらいないのに、なんで自分は10㎏のダンベルを持っているんだろう。

 馬鹿じゃないのか。

 ああ、馬鹿だったか、自分は。


 ベンチに座った美寧の背中は、随分と小さくなっていた。




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 自尊心、べっきべき。


 他人の目線に過敏に反応したり、人の顔色を窺うのが癖だったり、誰かと比べられるのが当然だったりする人がジムに来ると、大抵こんなスタート。

 そして、それを克服した人はだいたい化け物みたいなパワーリフターになるまでがワンセット。

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