04『現実逃避』
ダンジョン。
城や要塞の地下にある堅牢な区画のこと。主に地下牢を指すが、拷問部屋なども含む。
また、RPGの中舞台としてに登場する、迷路に似た構造を持つ空間。日本語では主に地下迷宮と訳される。迷いやすい構造全般をダンジョンと指す場合もある。
間違っても一般民家の地下にある代物ではない。
ない、はず、なのだが。
息も絶え絶えに梯子を登りきると、秋水は庭の上にごろりと倒れ込むように転がった。
疲れた、わけではない。
そもそも、高々4mかそこらしかない梯子を登るだけで疲労困憊になる、そんなひ弱ではないつもりである。
つもりとは言えど、現実問題として秋水は雑草茂る庭の上で死にそうになっているわけだが。
「は、はら、へった……」
理由はこれである。
空腹で倒れる、なんて漫画の中の話かと思っていたが、実際に限界まで空腹になると人間はぶっ倒れるのが正解なようだ。知りたくなかった。
だが、ここで倒れていても、周りで食えるのは雑草しかない。これが食べられるかどうかは別として。
兎にも角にも、何かを腹に入れなくては。
ぐったりした状態でも秋水は何とか立ち上がり、ふらふらしながら家の中へと向かっていった。
まずはソイプロテインと牛乳をシェイカーの中にぶち込んで、のそのそした動きで混ぜ合わせ、そいつを一気に胃袋の中に流し込む。
体が栄養を渇望していたせいだろうか、びっくりするくらい、美味い。
プレーンを好んで使っていたせいもあるだろうが、プロテインが美味いと思ったのは、正直初めてかも知れない。空腹は最高の調味料とは良く言った。
キッチンまで辿り着いた秋水は、ここでようやく大きく一息ついた。
しかし、少しでも腹に何かが入ると多少は落ち着くかと思ったが、むしろ空腹感はより強まった気がする。いや食べろ、もっと腹に入れろ、これだけじゃ圧倒的に栄養不足だ。プロテイン牛乳を飲んだことにより、逆に体の受け入れ準備が整ってしまったのだろう、秋水の腹からもっと食い物を寄越せと大合唱である。
「えーっと、まずはとにかく吸収の良い液体で凌いで……」
冷蔵庫から取り出すは、コップ一杯で一日分の野菜が取れると謳っている野菜ジュース。余計な果物が入っていない分、割材としては丁度良い。
それをミキサーにドボドボ注いでから、キッチン棚から慣れた手つきで様々な粉末が収められた各種保存容器を取り出していく。
まずはプロテイン。
すりごま。
きな粉。
イヌリン。
シナモンの粉末。
モリンガの粉末。
大麦若葉の粉末。
それぞれをスプーンを使って目分量で、しかし全く迷うことなくテキパキとミキサーに順次投入する。
そしてミキサーの電源を入れ、最後にエゴマ油と黒酢を回し入れた。
各種粉末が野菜ジュースに良く混ざったのを確認すれば、秋水特製のゲロ、もとい、栄養満点の謎ジュースの出来上がり。
栄養素最優先で味付けは二の次。もはやその人となりを表現したかのようなゲテモノドリンクを、秋水は迷うことなく一気に飲み干す。
うん、マズい。
マズいが、飲み慣れた味である。秋水にとっては。
「あとはギリシャヨーグルトに、納豆、卵、豆腐……ああ、サプリメントも、じゃねぇ、とりあえず30分は待機して、血中アミノ酸の濃度を……」
ぶつぶつ呟きながら、使ったシェイカーとミキサーをさっさと洗い、続いて冷蔵庫からヨーグルトなどを取り出してキッチン台に並べていく。なるべく常温近くに戻すためだ。
とりあえずは目眩がする程の空腹感を不味さで強引に黙らせた。
いつも飲んでいるゲテモノドリンクへの安心感もあるだろう、極度に腹が減った感覚は急激に峠を越した感じである。
栄養価としてはこれで問題ない、本来ならば。
だが不思議パワーのポーションで傷が治ったことにより、どれだけの栄養を消費したかが分からない。
ヨーグルトやら納豆やらを取り出したのは、普通ならば過剰な栄養補給でしかないのだが、一応の保険だ。タンパク質信者に片足を突っ込んでいるので、食材のセレクトがだいぶ偏ってはいるが、今のところ秋水の家の冷蔵庫から即座に即座に食べることが出来る食材のラインナップがそれしかない。
だが、一通りの栄養は取れた。
その栄養が体に馴染むのを待つ間に、今度は服を脱ぎ始める。
ずたぼろのジャージだ。
上も下も汚れて解れて破れて裂けて、もはや着ることが出来る状態ではない。
ヤバい、学校のジャージなのに、と秋水は悲しい気持ちになりつつも、肌着もパンツも靴下も全部脱ぐ。靴下だけは辛うじて無事だが、肌着もパンツも駄目である。あのクソウサギめ。
まだ使えなくもない靴下もまとめて全部ゴミ箱へ投げ捨ててから、秋水は全裸のまま自分の部屋へと向かう。
質素な家の、質素な自室。
ローテーブルと布団。そして幾つかあるコンテナボックスには、教科書と鞄、数着の衣類、少量の小物、ととりあえず突っ込んでみた感が滲み出ている。
掃除が行き届いているように見えるのは、そもそも物が少ないからか。
そして、そこにある不釣り合いな姿見は、元々母の物であった。
その姿見の前に、秋水は立った。
鏡には全裸の少年。
正月も早々から何が悲しくて自分の全裸を拝まねばならないのだと思いつつ、秋水は自分の姿をまじまじと観察する。
身長は180㎝を少し超したほど。同年代よりも一つ抜けた背の高さは変わらずだ。
筋トレで鍛えた体。ボディビルダーのように極端な筋肥大を狙ってはいないが、それでも隆々とした筋肉である。
黒髪は丸刈りで切り揃えて、いや剃り揃えている。何なら昨日の大晦日に年末厄払いの断髪だーい、とバリカンできっちり3㎜で剃り上げたばかりである。
そして顔つきは、変わらぬヤクザ顔。いや、厳つく無骨な感じは許容範囲としても、目つきが悪い。人を殺しそうな目をしている、といつだったか妹に酷評されたことがある。少なくとも中性的なイケメンとは真逆である。
ふむ、と秋水は首を捻った後、左腕を見るようにポーズを変える。左腕と言うよりも左肩を見せつけるようにサイドチェストのポーズになったのは無意識だ。
左腕に、傷はない。
ないが、うっすらと傷跡がある、ように見えるのは錯覚か。
ポーションの噴水、と勝手に名付けた所でへたり込んだ後、秋水は他にもあった細々とした傷口にポーションを振りかけてみたが、姿見で見る限り、ほぼほぼ完治しているように見える。
流石に今のように全裸になって浴びた訳ではないので、小さな痣やら傷やらが少し残っているが、それでも大怪我と言えるような状態ではない。スプラッター&グロテスク、ではなく、普通に見れる体だ。今の姿を見られても困るが。
だが、角ウサギに抉られた左腕の傷は、若干ながら跡が残った。
怪我が治ると共に腹が減る、あれと絡めて考えても、やはりあのポーションは自身の自己治癒能力を爆発的に底上げする代物、と考えて良さそうだ。
魔法みたいにパーっと治らない、という点が嫌にリアルだが、それでも魔法のような品である。
これが腕の切断、みたいな人間の治癒能力ではどうにもならないような負傷に対しても有効なのかどうかは分からないし、怪我を治すだけの栄養がそもそも体になかったらどうなるかも不明だが、それらを差っ引いて考えても、あのポーションは現代医学を遙かに凌ぐ。
しかも、あのポーション、飲んでも効果がある。
そう、飲んだのだ。
今のところ腹は下っていない。
気分不快はあったが、あれはどうやら腹の減りすぎが原因で、泥みたいな謎の液体を流し込んだら気持ち悪さは落ち着いた。
遅効性の毒なら諦める。そもそもあのポーションがなければ、遅かれ早かれ命を諦めねばならない状況になったかも知れない。
それらデメリットと引き替えにして体感したポーションの効果は、地味にエグい効能であった。
ただ単に、疲れが抜けた、だけである。
疲労回復効果だった。
文字にすれば、そこら辺のコンビニやドラッグストアに売っている栄養ドリンクの謳い文句と同じだ。
そして秋水は、それらを試したことがない。
ないが、それでも分かる。
この効果が次元が違う。
飲んだその瞬間に、疲労が一気に消え去った。
死ぬ程疲れていたにも関わらず、だ。
疲労がポンと抜ける、と書くと滅茶苦茶に誤解を受けそうだが、その 『誤解される品』 を疑うレベルである。
これはラリって疲れが分からなくなっただけでは、と考えるよりも先に、飲んだ次の瞬間に秋水は倒れ伏せることとなったが。
疲労という、実は現代医学でも良く分かっていない症状だけが綺麗さっぱり消え去って、後に残ったのは猛烈なる空腹感。腹が減りすぎて吐き気まで催してきた。
結局これが庭まで梯子でよじ上ったとき、秋水が息も絶え絶えになっていた原因である。
しかし、現在冷静になって考えてみると、疲労の完全回復というのは、地味にエグい。
どんなに疲れても一発リセットできるとか、筋トレ中に飲めばほぼ無敵のトレーニーになれるということだ。誰得ではない、全ボディビルダー得だ。筋肉痛のような超回復に対しての効果も是非検証しなくては。
実のところ、怪我が治った魔法のような効果より、疲労が回復する効果の方がテンションが上がる。
あのポーション、ペットボトルに詰めてトレーニングジムで売り捌けば一気に儲けられるのでは、とか考えてしまう程に。
「……は、現実逃避だよな」
姿見の前でフトント・ダブルバイセップスのポーズをとりながら、秋水はぽつりと呟いた。
流れるようにバック・ダブルバイセップスに移行して、その格好のまま大きく溜息を吐き漏らす。
「確かにあのポーションは凄ぇ。ジムどころか、病院に売れば巨万の富って奴だろうけど」
そして、利権を狙う奴等が群がるだろう。
秋水はその手の輩がいることを、身に染みて良く分かっている。
「問題はそこじゃねぇ、ダンジョンだろ」
ダンジョンというか、あの角ウサギだ。
傷が癒え、疲れがなくなり、腹にものを詰め、冷静になって改めて実感する。
あれは、ヤバいだろ。
ダンジョン定番のモンスター。
人間を襲う化け物。
防具があれば受け止められるだろう。武器があれば倒せるだろう。警察の拳銃ならいけるか。自衛隊が装備持って出てきたら即対処出来るだろう。
だが、一般人はどうだ。
子供はどうだ。
確かに秋水はあの角ウサギを素手で退けた。『どうにか』 した。体を鍛えている側の人間とは言えど、秋水だって年齢的には子供で、分類的には一般人には変わりない。
しかしながら、あれは偶然だ。
タックルを避けたのも偶然だし、角を掴まえられたのはギャンブルに勝ったようなものだ。そして振り回して壁に叩き付けられたのは、今まで筋トレしていた賜物で、筋肉が裏切らなかっただけである。
じゃあ、体を鍛えてない、そこらの子供だったらどうだ。
いや、鍛えてないなら大人でも同じか。
あんなのとエンカウントしようものならば、
『どうにか』 される。
「……いや、これも現実逃避か」
『どうにか』、ではない。
『殺』 される。
だから、秋水は、『殺』 したのだ。
明確なる 『殺』 意に対して。
明確なる 『殺』 意を持って相対した。
そして 『殺』 した。
ぞわりと、秋水の体に何かが走る。
今更ながらに、あの感触がよみがえる。
ボロボロになった手で、角ウサギのその角を握った熱くて冷たい感触が。
それをぶん回し、何度も壁に叩きつけた、生々しい感触が。
そして思い出す。
あの角ウサギが息絶えて、光を噴き出しながら消えていく、幻想的とも言えるその末路を。
どれだけ体を鍛えても、どれだけ顔が怖くても、秋水は平和な日本で15年しか生きていない少年に過ぎない。
生き物を殺したことなど、今まで一度もなかった。
そして、殺されそうになることも、一度もなかった。
本当に今更ながらに思い出す。
角ウサギに出会ってからの一連の流れ。もはや命のやりとり。
綺麗に治った両手を見ると、ふるふると小さく震えている。
傷が癒え、疲れがなくなり、腹にものを詰め、落ち着いたはずなのに、心臓がバクバクと高鳴っている。
「ああ、なるほどなぁ。これは現実逃避すべきだったか」
自分の中に渦巻いているその感情を前にして、秋水は諦めたように独り言ちる。
少年は、やはり、笑っていた。
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良いものを食べよう、と、美味しいものを食べよう、は別物。
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