第13話
「おい、まあ落ち着け、お前ら!」
取り敢えず声を上げてみる。何もしない、できないと嘆くよりは、まだ建設的なんじゃないかな。
すると、意外にも二人は素直に従った。摩耶は拳を下ろし、美耶は自分の腕を引いて僕から数歩、遠ざかった。停戦成立かな?
「あれだ。喧嘩するほど仲がいい、っていうだろ? ひとまず腹を割って話さないと」
そんな僕の提案に、ぎしぎしと音を立てて月野姉妹がこちらを見た。どうやら、僕の予想が楽観に過ぎたらしい。正直、慌てた。
「な、なんだなんだ?」
「いや、そんな方法を取るくらいなら、柊也を磔にしようかと」
「悪い、勘弁してくれ」
僕がぶるり、と全身を震わせると、これまた妙なことが起こった。
美耶が摩耶の方に向き直り、反対の意思表示をしたのだ。あれだけ信頼していた実姉を、毅然とした態度で睨みつける。
「お姉ちゃんのやろうとしていることは、いくらなんでも大袈裟だよ! そんなことばっかりやっていたら、今度爆弾か何かを造った時に、誤爆でたくさんの人を犠牲に……」
「そうそう、危ないったらありゃしねえ……。っておい! あたいがそんなことするわけねえだろうが!」
「ん? ああそうだね! お姉ちゃんはすぐに手が出るからね!」
うむうむ。確かになー。
あれ? でも美耶が言おうとしたことって、『摩耶が知識不足でそもそも爆弾なんか造れない』って意味合いじゃなかったのか?
「なあ柊也。今あたいについて、すんごく失礼な想像してなかったか?」
「……」
「柊也!」
「おっ、おう! ああ、そうだ! そんなことはないぞ!?」
ついでに言えば、自分が何故こんな冷や汗をかいているのかもよく分からない。
「はあ……。もういいや。あんたや弦さんが、鬼羅鬼羅通りに帰れっていうなら従うしかねえわな。こちとら食わせてもらっただけで、何にも役に立ってねえし」
「摩耶、そんなに卑屈になる必要はないんじゃないか?」
「ふぅん?」
摩耶はスリッパの爪先で、フローリング上で舞った。きゅるり、と甲高い音がする。
ちょうど僕と向かい合う位置に立った摩耶は、すっと僕の喉元に右手の先を突き出した。
「だったらさ、あんたの話を聞かせてよ」
「えっ?」
「朔柊也。あんたがどうして一人きりになって、それから何を考えて、どう行動してきたのか。あたいにも分かるように、簡単な言葉で頼む」
あまりにも無茶……ではないかもしれないが、十分斜め上方向の注文である。
正直、他人様に話して楽しい話題ではない。だが摩耶に対して、自らの過去に興味を持たせてしまったのは僕の責任だ。誰かに譲るわけにはいかない。たとえそれが弦さんでも。
僕はふっと息をつき、肩を竦めてみせた。
「ちょうど十年前の夏……そうだな、今日みたいにアホかと思うほど暑い日のことだ」
すっと目を上げると、美耶が椅子を引くところだった。摩耶もそれに倣っている。
結局お前らは、いくら罵り合っても姉妹なんじゃないか。それが可笑しくて、僕は少しだけ唇を震わせてしまった。
「まあいいや。で、僕の話だけど……」
※
僕、朔柊也は、両親と妹を海難事故で亡くしている。
寄せては返す波間に妹の春香が巻き込まれ、陸から遠ざかってしまった。それを救出に向かった両親が溺れて命を落としたのだ。
「お前はここにいなさい。春香をかならず連れて帰る。お父さんがいれば大丈夫」
救出に向かう際、母さんはそう言った。今思えば何の根拠も脈絡もない、酷い理屈だった。
父さんは海上保安庁のレスキュー隊で、ずっと難しい災害現場での被災者の救出任務にあたっていた。一方、夏場は海でライフキーパーの任務にあたり、自分が大好きだという真夏の海で、ジリジリと日に当たりながら人命救助に余念がなかった。
母さんも母さんで、父さんほどではないにしても、海難事故があった際の対応をよく知っていた。中学校から大学卒業まで、ずっと水泳部にいたのが母さんの自慢。一つのことを成し遂げ、専業主婦になった今でも、夏場は父さんの手伝いをしている。
これだけでは、今僕が暮らしている邸宅を維持するような大金を稼ぐことはできなかっただろう。だが、両親には当然ながら祖父母が存在する。父方、母方それぞれの両親は、様々な分野で成功を収めており、生活に支障はなかった。
また、『あの事故』の前に祖父母は皆他界しており、莫大な遺産は、父さんと母さん、それに僕と妹の春香に相続された。
だからこそ、自分たちは好きなことを生業にしていけるんだ。柊也も春香も、おじいちゃんとおばあちゃんには感謝しなさい。
――それが両親の口癖だった。
こうして、朔夫婦による、娘の春香を救出する作戦が立案された。
いや、違うな。作戦なんかありゃしない。父さんは父さん、母さんは母さんで、互いに連携も取れずに海に飛び込んだのだ。
それだけだったら、海と水中での救護活動に慣れている両親による、幼い娘の救出劇として、格好の美談になっただろう。
この『事件』がそんなハッピーエンドに終わらなかった理由はただ一つ。
僕もまた、春香を助けるために海に分け入ってしまったことだ。
当然、僕だって溺れる。そして不可思議な海流によって、どんどん岸から遠ざかってしまったのだ。
「柊也!」
僕の名が呼ばれたのは、まさに同時だったと思う。父母の声が組み合わさって、音の外れた楽器のような不協和音が耳を震わせる。
思いの外、多くの水を飲んでしまった。
自分もまたマズい状況なのではないか。僕はそう思ったが、それよりも両親のように、カッコいい立場というものを味わってみたかった。
とりわけ、妹のためともなれば当然である。
だが、そんな子供の僕にできることなど、何もありやしなかった。ただの迷惑行為に他ならない。
そんな僕を見つけた両親の間で、どんな遣り取りが交わされたのかは定かでない。
だが、父さんが僕の下に来て、ぐっと自分の腕を僕に絡ませたのは分かった。
母さん、春香を頼む。――そんな言葉が途切れ途切れに聞こえてきたような気もする。
これであとは、全速力で(片腕で、だけれど)砂浜に戻れば大丈夫。
海水の流入で鼻の奥が痺れるように痛かったが、とにかく自分たちは助かるらしい。
そんなことを思ったのは、純粋に僕が無知で馬鹿で、なにより力がなかったからだ。
背後からの、突然の大波。
あまりに唐突だったので、両親は呆気なく僕と春香を手放してしまった。
「お父さん! お父さん、助けて!」
どんどん沖に流される父さん。波間の騒音から聞こえてくる切れ切れの言葉は、周囲の雑音を含めてはっきりと聞こえた。――春香を頼む、と。
それで僕の泳ぎが上手くなる、なんて馬鹿な話はない。
だが、父さんは最後まで、僕と春香の命を救おうとしてくれた。なんとかして救わなければ。せめて春香だけでも。
そう思うが早いか、僕は無我夢中で両腕をぶんぶん振り回し、春香の姿を探した。
指先が何かに触れる。そこにいたのは母さんだった。春香を肩車するような姿勢で、なんとか波を切っている。だが、それも限界のようだ。
柊也、春香をよろしくね。
母さんは、そう言い放つや否や、あっという間に沖に流されてしまった。それを見届ける頃には、僕の胸には春香がしっかりと包まれていた。
それから僕は、必死だった。
両親の願いを届けたい。その一心で、砂浜に向かって泳ぎだした。両親なら無事、独力で泳ぎ着いてくれると信じていたから。
問題は、自分の腕の中の小さな命をどうするか、という問題だ。春香の身体がひんやりしている。熱を奪われすぎたのか。
僕はなんとか、沖合から砂浜へという方向で流れてくる波に自分から飲まれようとした。
しかし、何の訓練も受けていない自分ができることなど、精々限られている。
それでも春香は、僕が助けなければ。きっと、父さんと母さんにこっぴどく叱られてしまう。かといって、片腕で春香を支え、もう片方の腕で前進を試みるなど、土台無理な話だった。
やがて自分の鼻や口にも、海水が容赦なく侵入し始めた。
「くっ……。春香……」
僕が死を覚悟し、歯を食いしばったその時だった。
ほんの一瞬、自分の身体が宙に浮いたかのような錯覚に陥った。
「え」
僕の背中が何かに強く突き飛ばされた……?
原因も分からずに喚いていると、今度は無数の腕が僕を拘束しようとした。しかし、その前に僕にはどうしても確かめなければならないことがある。
「春香! 春香は!?」
「おい坊主! 落ち着け、まずは海水を吐いて――」
「春香! 春香あぁあ!!」
「お前の家族にはちゃんと救助が向かってる! 落ち着くんだ!」
「うわああああああ!!」
それからしばし、僕の記憶は跳ぶことになった。
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