第10話
※
「これで二回目ですな。鼻血を噴出なさったのは」
「ふ、噴出……。まあそうですけど」
フローリングの廊下でモップ掛けをしている弦さんを捕まえ、処置を頼んだ時のこと。
僕の鼻腔内の傷は既に閉じていたようだが、その傷がまた開く可能性がある。それが弦さんの見立てだった。
「病院に行った方がいいですかね、僕……」
「いえ、只今傷口の縫合は終わりましたので、様子をご覧になられた方がよいでしょう」
「ありがとうございます」
弦さんはさらっと言ったが、僕が受けた処置というのは、なかなか恐ろしいものだった。
言葉にすれば、通常の医療分野で施されているように、麻酔をかけて傷を縫い合わせるというものだ。しかし、問題は処置を施す場所である。
――そう、鼻の穴の深部だ。
きっと、弦さん以外の人間が裁縫キットを握っていたら、僕は振り返って必死に逃げ出していただろう。
とにかく出血は止まったし、痛くもなんともないので助かった。
気にかかるところがあるとすれば、摩耶と美耶がもたらす面倒事、厄介事を弦さんに押しつけてしまったことだ。きっと頭部に麻酔を施したからだろう、僕は深夜まで睡眠状態にあった。その間、あの姉妹が大人しくしてくれていればいいのだが。
僕がいないとなれば、あの姉妹は弦さん経由で僕の過去を知ろうとするはず。どうして僕がこんな邸宅に住んでいるのか、それだけの資本がどこにあったのか、それに――僕の両親はどうしているのか。
どう答えたのかを直接弦さんに訊くわけにもいくまい。あの二人の、僕に対する接し方の違いから推し測るしかない。
「ご安心ください、柊也様。ご両親は海外でお仕事をなさっていると申し上げておきました」
「えっ?」
「わたくしめも、伊達にあなた様の成長を間近で見てきたわけではございません」
それで僕の考えが読めるようになったということか。にしても、返答するまでのタイムラグが短すぎるんじゃないかなあ。
ああ、それが伊達じゃない、という意味なのか。
「まだ麻酔が残っている可能性がございます。入浴と睡眠導入剤のご使用はお控えなさいますよう」
僕は思わず、うげっ、という呻き声を上げた。カエルが潰されたらこんな声で鳴きそうだ。
「じゃあ弦さん、代わりに話を聞かせてくれませんか」
「話、と申しますと?」
「えっと……。まずは、どうして摩耶と美耶を連れてきたんです? あなたなら岩浅警部補とも面識がある。そうはいっても、警察に知られたらマズいんじゃないですか?」
弦さんは目を糸のようにしながら、こくこくと頷いている。
「どうして連れてきたんです、二人を?」
僕がやや語気を強めると、弦さんはゆっくりと語り出した。
「わたくしがお連れしたのではありません。あなたの意志がそうさせたのですよ」
「……は?」
僕は全身の筋肉が弛緩するのを感じた。喧嘩腰に戦闘体勢を取っていたので、ギャップがすごい。全身の器官、組織、細胞のそれぞれが、呆気に取られるのを感じた気がする。
「しばしお一人でお考えになられるのもよいでしょう。わたくしから申し上げられるのは。ここまでのようです」
「そう、ですか」
足の裏から生命エネルギーが地面に吸い取られていくような感じ。いや、ここの床はリノリウム製だけど。
「いずれにしても、今日はありがとうございました。あとで摩耶と美耶にも、お礼を伝えるように言っておきます」
「いやいや! そこまでなさらなくとも」
「僕一人だけでは、いろいろと伝えきれない部分ってあると思うんです。だから……」
すると、弦さんはいつもより深く腰を折り、無言でお辞儀を始めた。やっぱり頑固すぎるのが玉に瑕だよな、この人。
「僕はもう寝ます。それじゃあ」
それだけ言って、医務室から廊下に出る。振り返ってみた時も、弦さんはまだお辞儀を続けていた。
※
僕はひとまずパジャマと下着を取り換えて、さっさと自室のベッドに潜り込んだ。
が、案の定。
「……眠れないな」
今日はあまりにも、たくさんの事物に触れすぎた。そして、いかにたくさんの事物を知らないのか、ということを心底思い知らされた。
鬼羅鬼羅通りの連中のことも、ヤンキーに身を落とさなければなかった理由も、彼らを取り巻く環境のことも。
音のない、しかし長い溜息をつく。
ちょっとまだ鉄臭いかな……。仰向けで寝るのを諦め、僕は身体を反転。真横になれば、僅かな出血もなくなるだろう。
そう思った矢先のことだった。
僅かな光の筋が、僕の目を軽く揺らした。僕の部屋の扉がだんだん開かれている……?
弦さんだろうか? いや、彼はこんな隠密活動をするはずがない。とりわけ僕の前では。
となると、容疑者は三人。月野摩耶か、美耶か、泥棒。
「……」
僕は瞼を閉じて気配を掴もうと試みた。だが、その三者はいずれも初対面に近い。性別くらいなら分かるかもしれないが、身長や体重はサッパリ分からない。
撃退するか? まだ麻酔が残ってはいるが、僕だって武道を学んできた者の端くれだ。
さあ、どうする、侵入者。どうする、僕。ごくり、と唾を飲む。
バタン、と扉が閉めきられ、僕は完全に視界を失った。だが、相手だって人間だ。距離感が伝わってくる。そして、性別は――女。
女泥棒のハニートラップだろうか? その手には乗らないぞ。
僕が決意(のようなもの)を新たにした直後、さっと相手の腕がブランケットに伸びた。
今だッ!
僕はブランケットを、相手とは逆方向に引いた。一瞬でだ。
相手はこちらに引っ張られ、ベッドに向かって倒れ込む。だが一足早く、僕はベッド上を転がるように回避。
素早く回り込み、床に足を着く。そして、ベッドにぶっ倒れた相手の背後を取った。
その背中に片膝を押し当て、片腕を掴んで引っ張る。
ひっ、という小さな悲鳴が聞こえた。だが、ここで油断しては命取りになる。僕は弦さんにも聞こえるように咆哮した。
「違法侵入だ! 違法侵入! 相手は一名! 身柄確保!」
うーむ、昼間に岩浅警部補に会ったせいか、刑事さんのような台詞が出てしまった。ま、それが引きこもりの矜持ってやつ。中二病の親戚だな。
相手はなにやら、もがもがと必死に何かを言おうとしている。
ああ、息ができないのか。
僕は自分の膝をどけて、片肘を押し当てた。これなら首を上げて呼吸ができるだろう。
「坊ちゃま、ご無事ですか!」
「ええ、あなたと父さんのお陰でね!」
「うわわわっ! 何だ何だ!? 深夜パーティか!?」
って摩耶、お前は寝てろよ。そんなことできやしないって分かってはいるけどな。
きっと弦さんだろう、誰かが足音もなく近づいてきた。
今回は流石に驚いた、というのが彼の正直な言葉だな。足音は消せても気配そのものは消え去りきれていない。僕だって同じだ。
だが、弦さんが電気を点け、状況が掴めたことで、僕は仰天した。
「み、美耶!? お前どうしてこんな……? えっ? 何をして……?」
「落ち着いてくれ、摩耶。まずは美耶の話を聞こう」
美耶はようやく身体を起こし、ゆっくりと振り返った。が、その拍子にベッドに背中から倒れ込んでしまった。
「おっと!」
僕は咄嗟に身を乗り出し、美耶を抱え込もうと試みる。そして、失敗した。
「きゃ」
「あっ」
壁ドンならぬベッドドン、ここに完成。
この場にいる全員の脳みそが凍りついたかのように思われる。
これだけで犯罪にはなるまい。だが、明らかに僕の属性は固定されることとなった。
摩耶の絶叫と共に。
「離れろこのロリコンがああああああああ!」
叫ぶのは分かる。でも僕を引き離すのに、跳躍回転蹴りを喰らわせる必要はなかったんじゃないかな。
※
約三分後、例の畳の間にて。
これからここで、僕と美耶の証言(という名の言い訳)が本人によって述べられる。
それから弦さんと摩耶がジャッジを下すわけだ。と、思われたのだが。
「だから言ってるじゃんか、僕はただ、ベッドに横になって寝ようとしてたんだって!」
「……」
「確かに、疑うべきところがありませんな」
「おい、おいってば! お前も何か言えよ、美耶!」
「今は黙ってろ、摩耶」
「けっ、ロリコンの意見なんか聞けるか! あたいは美耶の保護者だぞ!」
僕は眉間に手を遣って、やれやれとかぶりを振った。どうしたもんかな、これ。
美耶の罪状は、他人の寝室への不法侵入。
僕の罪状は、気不味いことこの上ない空間を発生させたこと。
「まあ、ここで司法が介入する可能性は極めて低いでしょうな。摩耶様、美耶様には、それ相応の身分、そしてその証明書が必要となります」
「弦さん、それって……?」
「わたくしが偽造致しましょう。少なくとも健康保険証と、顔写真を含む何らかの証書を」
「偽造できるんすか!?」
「お任せを、柊也様」
こうして、この裁判は尻切れトンボのまま、既決には遠い段階で朝を迎えた。
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