第2話【第一章】

【第一章】


 はっとして目が覚めた。なんだか、とても嫌な夢を見ていた気がする。

 予知夢や未来予知といった現象を信じていない僕からすれば、突然、見知らぬ土地に放り出されたような気分になる。


 まあ、生きていればそういうこともあるよな。

 何かトラブルがあったわけではない。そういう風に身体ができてしまっているのだ。父さんの厳しい躾の賜物と言える。


 念のため、枕元の目覚まし時計を覗き込む。


「午前四時五十五分……」


 口に出して読んでみると、ようやく自分は起床したのだという実感が湧いてくる。

 窓の外では、群青色の夜空と乳白色の朝日が押し合いをしていた。今日も天気はよさそうだ。


 今は八月の上旬。冗談みたいな熱波によって、日本列島は照り焼きにされている。こればかりはどうにもならない。

 ううむ、地球環境に対する人類の営みなど、実に矮小だ。そう理解して、受け入れるしかないのだろう。人生、諦めが大切だ。


 そんなことを考えながら、僕はベッドの上で上半身を起こした。足をフローリングについて背伸び。

 軽く上半身を捻りながら腰を上げ、箪笥の上の鏡で自分を観察してみた。


「う~ん……」


 今日も今日とて寝癖が酷い。早く直さなければ。

 そんな義務感を覚えるのもまた、父さんの影響かも知れない。


 ひとまず姿勢を正し、直立不動の姿勢を保つ。そして自分の、自分による、自分のための状況判断をする。


 朔柊也。二十歳。一年浪人の後、国公立大学理学部に入学。絶賛引きこもり中。


「はあ……」


 この親にしてこの子あり、という言葉があるが、あれは嘘っぱちだ。父さんが存命だったら、息子が引きこもり生活に甘んじることなど許しはしなかっただろう

 が、実際に精神疾患として認定されるだけの心理状態に陥ってしまっているのだから仕方がない。


 気づいた時には、鏡の中の自分はがっくりと肩を落とし、ぐしゃぐしゃと髪を掻き回していた。


「坊ちゃま、柊也坊ちゃま、おはようございます」


 ノックと共に、明朗な声が響いてくる。


「はあい、もう起きてますよ、弦さん」


 僕が自室の扉を押し開けると、そこには長身の、上品な老紳士が立っていた。

 彼の名前は上村弦次郎、通称は弦さん。僕の身の回りの世話をしてくれる、ハウスキーパーである。

 今は腰から上を綺麗に折って、深々とお辞儀をしている。しかし――。


「あの、弦さん、今は真夏ですよ? その燕尾服では、いくら冷房が効いてても暑いんじゃないですか?」

「何を仰いますか、坊ちゃま。これはわたくし上村弦次郎が、心身を以て柊也坊ちゃまにお仕えするという覚悟の現れでございます。どうぞお気になさらず」

「はあ」


 僕はつい、中途半端な声を漏らしてしまった。

 そんな大したことはやっていないんだけどな。父さんや母さんと違って。

 僕は、豊かな白髪と品のいい白い口髭を携えた自称・執事をじっと見つめた。


 僕の記憶が正しければ、弦さんは元々父さんに仕えていた。その父さんが亡くなったから、息子である僕に主人をシフトした、ということらしい。

 確か今年で八十歳になるはずだが、とてもそうは見えない。燕尾服で隠されてはいるが、彼の身体は筋骨隆々としている。


 純粋に尋ねたことがない、というだけなのだが、経歴もあまり判然としない人物だ。

 まさか、某国の諜報機関の人間だとか? まさかな。

 それでも信頼できるのは、それでも信頼できるのは、彼の仕事ぶりに人柄の良さが表れているからである。


「朝食は既にご用意しております。お着替えになられましたら、どうぞダイニングへ」

「あっ、はい。ありがとうございます」


 僕が慌てて礼を述べると、弦さんはにっこりと笑顔になって、その場を辞した。


         ※


「う~ん……」


 さっきと同じ調子で、僕は溜息をついた。

 弦さんの料理は天下一品である。それは出来立ての朝食でも、外出に合わせて準備してくれている弁当でも変わらない。


 ダイニングのテーブルの上にあった朝食を平らげた僕は、ご馳走様でした、とはっきり述べて手を合わせた。


「お粗末様でございました。ところで坊ちゃま」

「はい?」

「今日も大学の方はお休みになられますか?」


 訊かれ慣れた質問だ。事実、僕は大学に通えていない。

 何故かと言われても困るのだが、一言で言えば精神疾患のせいだ。

 僕の場合は、やっと大学に合格したまではよかったものの、厄介な病態に陥ってしまった。


 完璧主義の度が過ぎる。目標を達せられないと、自らを責め立ててしまう。そのダメージが、ダイレクトに心の中央に響いてきてしまう。


 病気としての呼び方はいろいろある。

 ただ端的に言ってみれば、僕は自分の扱いがひどく下手なのだ。

 やっぱり父さんの教育方針は、僕には荷が重すぎたのではないか。最近は、そんな考えに囚われることが多々ある。

 死人に口なしという言葉があるが、その逆もあり得るのだろう。死者に僕たち生者の声は届かない。どうしようもないのだけれど。


「お心加減よろしくないのですか、坊ちゃま?」

「え? ああいえ、ちょっと考え事を」

「左様ですか。どうか考えすぎになられませんよう」


 そう言ってゆっくり後ずさる弦さん。

 僕はいつものように、鞄に弁当だけを入れて、弦さんの丁重なお見送りを受けながら家を出た。


         ※


「やっぱり暑いな……」


 僕は低い声で呟いた。大学まで続く、緩やかな細道を上っている。

 日光は眩しいし、セミはうるさいし、道端の雑草は通行妨害に忙しい。どうしても好きになれないな、夏っていう季節は。


 このまま大学に行けばいいんじゃないかって? 冗談じゃない。

 あんなに多くの人間が一部屋に集って、効きの悪い冷房の下で頭を使う。

 今の僕には、とても真似できない。


 なんというか、心が圧潰されるような気分になってしまう。ぐしゃり、と握り潰される音が聞こえるようだ。

 冷暖房に限った話ではないが、どれだけ好条件が揃っても、この心理状況は変わるまい。


 まったく、精神安定剤の処方もなく生きている人々の気が知れない。皆、どうやってストレスケアを行っているのやら。

 早朝ながら、僕は今日何度目かの溜息をついた。


「さっくん!」

「……」

「さっくん! さっくん、ってば!」

「……え? あ、はい?」

「おはよ!」

「あ」


 後ろから肩を叩かれて、僕はゆっくりと足を止めた。

 今の声は――。


「おはよう、さっくん!」

「お、おはようございます! 瑞樹先輩!」


 振り返った先にいたのは、一人の女性だった。

 瑞樹理沙。僕と同じ、文学部古典研究科の先輩だ。また、非公認サークル『近現代文学研究部』の部長でもある。

 といっても、部員は僕と瑞樹先輩の二人しかいないのだが。


 だから僕は、副部長やら会計やら書記やらを兼任することにすることになってしまった。多忙な身の上だと言ってもいい。


 しかしそんなことは、僕にとっては些末な問題だった。

 理由は単純。僕が瑞樹先輩に恋心を抱いているからだ。


 それに瑞樹先輩は、僕にとって数少ない理解者でもある。大学という一種の檻の外で、僕との交流を持ってくれる。

 もしサークルの活動拠点が大学の敷地内にあったなら、僕はとても活動に参加できなかっただろう。


「み、瑞樹先輩! 今日の活動場所はどうしますか?」

「えーっと、そうだね……」


 顎に手を遣る瑞樹先輩。

 僕はその立ち姿を、思わず凝視してしまう。


 一言で言えば、凛としている。小動物を思わせる体躯に、くるくると忙しなく動く大きめの瞳。それでいて鼻や口、目元は細い。

 これだけで十分魅力的だと言ってもいいが、何故かファッションセンスがないところがまた麗しい。いや、センスの問題というより、先輩は無防備なのだ。


 この人、大学に通うのにどうして純白のワンピースなのだろう?

 僕は外見で人を判断することを良しとしない。だが、今の先輩の服装では、いくらでもファンがつくだろう。そして先輩も、いつか選択をする。

 その時になって気づくのだ。朔柊也などという軟弱者ではなく、もっと相応しい人間が自分のそばにいることに。


 だが、今はまだその時ではないらしい。僕の下へ駆け寄って来た先輩は、歩調を合わせて言葉を続けた。


「そうそう、この前に駅裏にできた喫茶店、行ってみない? 飾りっ気のないところが素敵だなあって思ったんだけど」

「あっ、いいですね! それじゃあ、先輩の受講科目が終わったら――」

「そうね、じゃあ、大学正門前に午後四時半くらいでどうかしら?」

「了解です」


 それからは、特になんとはなしに会話が続いた。

 先輩は巧みに学内の情報漏洩を防いでくれる。もしかしたら、負い目を感じている僕に気を遣ってくれているのかもしれない。大学に通えずに休学している僕のことを。

 

「ところでさ、さっくん」

「はい!」

「さっくんの自宅って、すごく由緒正しいよね」

「そ、そうですか?」

「うん。まず門構えからして凄いもん。和風建築はこうあるべし! って豪語しているみたいで」


 ふーむ、実際そうなのだろうか?

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