第2話 斉信&公任、闇夜であやかしを待つ

「…流れが止まった水は、行き場のない負の魔力がよどむっていうからな。悪さをしないとはいえ、斉信、用心に越したことはないぞ」

子の刻(午前0時頃)少し前、二人を乗せた牛車は、十七夜の月に照らされた五条高倉のあたりをゆっくり歩いていた。

やがて、件の前越前守邸に到着する。

牛車を泊めて、供の者たちに松明の火を絶やさないように申しつけ、二人は暗闇の中、さらに黒く浮かびあがる邸内にザクザクと入り込んでいった。

賀茂川が近いせいか、ゆるやかに吹き抜ける風が涼しく頬をなでていく。昼間の温気は払拭されていた。

歩きながら、斉信は独り言のようにつぶやく。

「但馬守に黙って来てしまったが、よかったのかなあ」

「だめに決まってるだろう。だから出したゴミはきちんと持って帰るんだな」

「?なんだい、そりゃ」

言われた意味がわからず、怪訝な声で斉信が問うと、公任は栓をした瓶子を、どうだといわんばかりに懐からチラリとのぞかせた。

「ハ!なんだいそりゃ!ずいぶん気がきいてるな」

仕方なしにつきあってくれたのかと思っていたが、案外公任もノリノリで楽しんでるんじゃないか。こいつの考えてる事は、表情から本当に読みにくいな、まったく。

そう思うと斉信は、急に気が楽になった。

建築途中の、材木がそこらに置きっぱなしになっている間を注意しながら通り過ぎ、母屋とおぼしき広間の前面に出ると、暗闇の向こうに大きな池が、月を映して広がっていた。問題の池である。

改築する前の、東西に釣り殿を抱えるたいそう見晴らしの良い景色が想像できたが、今は、西側の一部を埋め立てるために土山で堤防をつくり、水を堰き止めている。その堤防の右側に、池から切り離された水たまりがあった。池の方は賀茂川から水を引いているため、水をたたえた姿をしているが、分断された水たまりはすっかり泥色になっていた。

「あれだな。うるわしき水の精が棲んでいる水たまりは」

斉信は火を消さないように慎重に持ってきた紙燭を、階(きざはし)のすぐそばの石燈籠に置いた。たいそう弱々しい明かりだが、すでに暗闇に慣れた眼にはなんとか耐えられる明るさだ。

「階に座って待つのは、目立つなあ。かといって明かりから離れてるのも心細いし」

「では縁側の下だ。階の裏で待ち伏せしよう。石燈籠のそばだし階の影で我々の姿は見えないはずだ。行こう斉信」

二人は階の裏に回りこんで、縁側の下の土の上にしゃがんだ。ちょうど階の真後ろになり、明かりのつくる階の影に入り込んだ状態で、二人の姿はほとんど見えない。

「なんというか…少しおまえに対する見識が改まったよ公任。土の上に座るのを厭わない性質だったとはねえ」

詩歌管弦を見事にこなす柔軟さと、プライドが高くてなかなかスキを見せない慎重さを併せ持つイメージだが、公任の今夜の様子は少し違う。

「郷に入っては郷に従え、というだろう。おまえにつきあうならおまえに従え、そういうことだ」

「それは何か?私が好んで土で汚れるのも平気な無作法者だとでも言われているみたいだな」

ふふん、と機嫌よく笑いながら、公任は懐から瓶子と二つの小さな盃を取り出した。

「ゴミを出すなっておまえは言ったけど、この紺瑠璃の盃を置き忘れて帰ったら、但馬守は狂喜乱舞するだろうなあ。とてもきれいだ」

「瓶子の栓も持って帰ることを覚えておいてくれよ。酒の肴がないのが少々もの足りないが、ま、酔いにきたのが目的じゃないからほどほどにしよう」

公任がゆっくりと盃に酒を注ぐ。

「さて斉信、状況を整理してみよう。人間に害をなさないとはいえ、金縛りになるんだろう?そのあと、異形の女が水たまりから出現して但馬守をじっと見たあと、やがて元の場所に消えていく」

「気の毒に。ただ見つめるだけで悲しそうに瞳をふせて帰っていくうるわしき水の精。何か頼みごとがあるに違いない。私だったら何でも言うことをきくのに」

「まぜっかえすな。但馬守は土をケチッて、埋め立てるべき場所がこの初夏の日差しで干上がるのを待っていた。水際が、堰き止めた堤防から相当離れているということは、順調に干上がっているということだ。そして徐々に体が透きとおり始めた異形の女」

「…なんとなく整合するぞ。論理的だな公任。但馬守は水の精の透け具合だけを気にしてたけど、透け具合と水たまりの干上がり具合が比例するとしたら、完全に干上がった時その気の毒な水の精は」

「水たまりも、もうほとんど底が見えているしな」

「なるほど。ああ!いてもたってもいられないぞ。何とかしてさし上げようじゃないか。きっと毎夜毎夜、心細さと不安とで嘆いているに違いない。自分だけではどうしようもない運命のいたずらに、この身がはかなくなってしまうのをおびえているんだよ。

白くきゃしゃなその両腕が、流れる美しいその髪が、次第に淡く透けていくさまは、たとえようもなく恐ろしい心地だろう。私が救いの手をさしのべないで何とする!」

「……」

身もだえしながら一人芝居モードに入り始めた斉信を、公任は冷静に眺めていた。

やっぱり始まったな。

朝、蔵人の宿直所で、うるわしき水の精とかほざき出した時から、何となくいやな予感がしていたんだ。こいつの、自分に酔いしれるクセにつきあっていられるか。

黙っている公任に賛同を求めるどころか完全に無視して、さらに斉信の自己陶酔は続く。

「早く彼女の苦しみをとりのぞいてあげたい。そして不安におびえていた美しい瞳から涙が消え去ったとき、私の姿が瞳に映しだされるんだ。

『ああ、なんてお美しい公達さま。あなたがわたくしを助けてくださったの?』

『ご無事でよかった姫君。淡くはかないあなたもお美しかったが、やはり柔らかく抱き心地の良さそうなこのほうゲホゲホ…いえ、失礼』

『あなたさまが救いの手を差しのべて下さらなければ、今のわたくしはありませんでした。この身はすでにあなたさまのものでございます』

『…姫君』

水の魔神の呪縛から解放された水の精はもとどおりの生身の姫君になって、私の腕の中に飛び込んでくるんだ、えへへー」

斉信はそう言いながら、両腕で己の体を抱きしめている。

公任はあまりの脱力感でめまいがしそうだった。

斉信の妄想はさらにエスカレートしたようだ。

いつのまにやらこいつの頭の中では、高貴な姫君が魔物に魅入られて、とらわれの身にでもなっているらしい。ど阿呆め。

「早く現われてくれないかな~」

「おまえの自己陶酔癖に、少将たちを付き合わせないでよかったよ」

空になった盃に酒を注ぎながら、公任はあきれたようにつぶやいた。

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