第21話 再会とノアの回想①

 ――ただいま。


 レティシアにとって五年振りとなる懐かしい声が聴こえた後、玄関からリビングまでのわずかな距離を、段々と足音が近づいて来る。

 それに伴って、レティシアの心中で緊張が高まる。


「――夫が帰ったようですね。話はまた後で」


 話しかけた言葉を飲み込んで、少しバツが悪そうな表情になったヴィンデは椅子から立ち上がった。

 彼女はレティシアをその場に残して、玄関側の出入り口に向かう。


 レティシアはテーブルの席に座ったまま、早鐘を打つ自分の心臓を抑えつけるように、胸元に手を押し当てていた。


 ずっと会いたかった。

 そのはずなのに、レティシアの胸中には、なぜか今は会いたくないような気持ちも心のうちに生じていた。彼女はそんな自分の心を整理できずに、戸惑いさえ感じていた。


 リビングのすぐ外で帰宅した夫を出迎えたヴィンデは、二言三言ほど彼と言葉を交わした後、そのままどこかへ歩き去って行く。


 そして、レティシアがこの五年間、再会を切望した人物が姿を現す。


「レティ――」


 昔と変わらない声。

 涼やかで、彼のその瞳のように、澄み渡った碧天あおぞらを感じさせる声。


「――よく来たね」


 それは明るく弾んだトーンで、深い森の彼方から訪れたレティシアを歓迎していた。


 レティシアは振り返る。

 彼女の翠玉の双ぼうに、昔のままのノアの姿が映し出される。

 ノアは明るい表情で、リビングの入口から旧友であるレティシアの方へと歩を進めていた。


 レティシアの眼尻まなじりに涙が浮かび上がる。


「ノア……」


 レティシアは未だにテーブルの席に着いたまま、立ち上がろうかと迷って腰をわずかに浮かせていた。


 もしも、レティシアがこの家に着くのがもう少し遅く、出迎えたのがノアであれば、彼女は何の遠慮もなく彼と再会を喜び合うことができただろう。


 しかし、実際にレティシアを出迎えたのは、彼女が知らぬ間にノアの妻の座を獲得していたヴィンデだった。

 その後、ヴィンデとノアの馴れ初めを聞き、その愛の結晶とでも言うべき存在を目の当たりにした。

 レティシアは、それによって自分の内面から生じた未知の感情を持て余しており、ノアとどう接するべきなのかもわからなくなっていた。


 そんなレティシアの心境を知ってか知らずしてか、ノアはレティシアの前に立つと、すっと左手を差し出す。


「……?」


 レティシアは涙をこらえながら、ノアの左手の上に自分の右手を重ねる。外の空気に触れていたからか、ノアの手はひんやりとしていた。

 ノアは重ねられたレティシアの右手を握ると、その手を引いてレティシアを立ち上がらせる。


(――!)


 少し勢いがついたレティシアの上体が流れかける。ノアが彼女の左肩を右手で受け止めた結果、二人は抱擁の一歩手前のような体勢になった。


「――訪ねて来てくれて、ありがとう」


 眼前でその言葉を聴いたレティシアの中で、押し留めていた感情の波がせきを切ってあふれ出す。


「ノア……会いたかったぞ」


 レティシアは心から感慨を込めて、その一言を言うことができた。


「俺もだよ」


 ノアがゆっくりと両手を広げる。

 レティシアがどうすれば良いか戸惑っていると、ノアはそのまま彼女との距離をもう一歩詰め、両手を背中に回した。


「久しぶり、本当に」


 懐かしいノアの息づかいを感じ、ようやくレティシアも両手を動かして、ノアの背中に触れた。


「……大変だったんだ。もう会えないかと思った……」


 レティシアの両の目からは、涙が頬を伝って流れ落ちていた。


 ノアはまるで幼い子供にするように、彼女の頭を繰り返しでた。


「……そうか。忘れられてなくて良かったよ」


 ノアは微苦笑を浮かべ、茶化すように言った。


「忘れたりなど、するものかっ……」


 そう返すレティシアの声は、涙で詰まっていた。



『大変だった』


 そのレティシアの言葉を聞いたノアはこう思っていた。


(……もうこの町にまでやって来ることは、ないのかなと思ってたけど……そうか。きっと、里の方で長老連中の許可がなかなか下りなかったんだろうな。レティシアは里長候補だもんな……)


 ぐずっと鼻をすすっては涙を流し続けるレティシアに対し、ノアは彼女の背を撫でつつ、頭に浮かんだ質問を投げ掛ける。


「里の方は変わりないかい? フラヴィやシモンさん達はどうだい?」


 何気なく発した問いだったが、レティシアの返事は意外なものだった。


「……わからん。こっちが聞きたいぐらいだ」


「え?」


 ノアの動きが止まる。


 ノアはレティシアの両肩に手を置くと上体を引き離し、彼女の顔を正面からまじまじと見た。

 目を真っ赤にした彼女は、今更泣くのを我慢しているのか口をへの字に結んでじっとノアを見つめ返していた。


(……もしかして――? いやいや。まさか、さすがにそんなことはないだろう)


 そんな考えを頭に浮かべながら、ノアは核心に迫る問いを発する。


「レティ、里を出たのはいつ……?」


 レティシアが若干むくれたような表情でそれに答える。


「……五年前だが、それがどうかしたか?」


 何を当たり前のことを訊いているんだ、とでも言いたげな様子だった。


「五年間もいったい何やってたんだよ……」


 ノアは思わずがっくりと項垂うなだれた。


 二人の様子を見守っていたシャパルは、訳知り顔でうんうんとうなずいていた。


**


 ――転生したら、エルフだった。


 そんな、創作の世界でしかあり得ないような出来事が、自分の身に起こった。


 高校二年生だった俺は、両親に連れられて行ったフランスのとある森の中で、足を滑らせて湖に落ちてしまい、帰らぬ人となってしまった。

 そこで学んだことは、窒息死は非常に苦しいということだ。

 次に人生の終わりを迎えるときは、溺れて死ぬのだけは絶対に避けたいと思っている。


 死んだはずの俺が次に目覚めて気がつくと、目の前で自分の様子を覗き込んでいる美形の男女二人がいた。


 ――父さん、母さん、そんなコスプレして何やってるの?


 咄嗟とっさにそんなことを口走りそうになったが、実際には、


「あうあうあー」


 と、わめいただけだった。


 その時には俺はエルフの赤ん坊になっていて、目の前にいたのは前世の両親とは似ても似つかない、エルフの夫婦――今生での俺の両親だった。


 それから五年ほど経った頃だろうか。

 俺にとって忘れられない出来事となった、あの事件が起こったのは。



 『サン・ルトゥールの里』の北の外れの方にあった当時の俺の家は、この里の名前の由来になった『帰らずの谷ヴァル・サン・ルトゥール』に比較的近い位置にあった。


「あまり谷に近づいてはいけないよ」


 両親にはそう言われていたが、特に魔物が出るわけでもなく、谷の景観が好きだった俺は、よく一人でこっそりと崖際まで行って、谷を見下ろしていた。

 そこでは自然の魔力なのか、はたまた精霊のいたずらなのか、ところどころで川の水が重力に逆らって動き、ぐるぐるとジェットコースターのような螺旋軌道を描いている箇所もあった。

 よく晴れた日にはあちこちで虹が見られ、娯楽の少ないこの世界では珍しい、天然のアミューズメントパークのようだった。


 後から聞いた話では、そんな川の水の動きは災いが起こる前触れだったのだそうだ。

 俺は幼い子供だったから、何の説明もされなかったのだろう。


 ――数百年に一度、『帰らずの谷ヴァル・サン・ルトゥール』に溜まった魔力が、怪物を産み落とす。


 そんな伝承を知ることもなく、呑気に谷の景観を楽しんでいた俺は、本来ならその怪物に食べられてしまうはずだった。


 ――――ノア‼


 何かが急速に近づいて来るような感じがしたかと思えば、俺は父の腕の中に抱えられて、崖際から五〇メートルほど離れた位置まで移動していた。

 父の反対側の腕は半ばから千切れ、ぼたぼたと血が流れ落ちていた。

 青ざめる俺を母の手に託し、怪物に立ち向かっていく父の背中が、強く俺の目に焼きついている。


 優秀な森番だったという父でも、一人ではあの怪物に抗うことはできないだろう。ましてや、片腕を失った状態では。

 母は谷の出口まで俺を逃した後で、父を助けるために来た道を引き返した。


 俺はただ、呆然とそれを見送ることしかできなかった。


『待ってなさい。お父さんを連れて、すぐに帰って来るから』


 母のその約束が果たされることはなかった。



 怪物はやがて討伐された。

 シモンさんを含む森番達や、アンブローズ様を筆頭とする魔導師隊が総出で相対し、三日三晩に及ぶ激戦の末に怪物の息の根を止めたという。


 その戦いで、怪我人もたくさん出たそうだけど、亡くなったのは俺の両親だけだった。


 エルフ式の葬儀で両親を見送った後、憔悴しょうすいしていた俺は、父の弟にあたるシモンさんとその妻のグレースさんに引き取られた。

 二人は俺に、実の両親と同じだけの愛情をもって接してくれていたと思う。


 それから俺は、もっとこの世界のことを学ぼうと思った。

 もう二度と、大切な人を失わなくて済むように。

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