第3章 人間の国で(下)

第14話 一夜明けて

 『ガスハイム』の町の中心部にある貴族用の邸宅の中で。

 湯浴みを済ませたマルティンは自室で葡萄ぶどう酒をたしなんでいた。


 くだんの女エルフを追って西門から出て行く騎士の一隊を見送った後、マルティンは仮の陣地を後にしてこの居宅に戻っていた。

 彼は騎士達が女エルフを捕らえて連れ帰ることを微塵みじんも疑っていなかった。

 『ザルツラント辺境領』で最強の騎士であるレオンハルトを筆頭に、腕利きの騎士がくつわを並べて追跡しているのだ。

 この布陣から逃れられる者など、この領地はおろか、この大陸中を探したとしてもいないだろう。マルティンはそう思っていた。


 マルティンが杯を傾けていたその時、居室の入口の扉からノッカーの音が鳴る。


「マルティン様」


 その声は、この屋敷で家宰を任されている老執事のものだった。

 何か用があるらしい。


「入れ」


 マルティンが応えると、家宰が扉を開き、室内に一歩足を進める。


「騎士レオンハルト殿と、騎士トビアス殿が参っております」

「おお、戻ったか!」


 マルティンはしらせを聞いて喜色をあらわにする。


 マルティンは早速、騎士達を出迎えるために屋敷の玄関に赴いた。

 トビアスとレオンハルトはそこで直立して待機していたが、マルティンの姿を視認すると頭を下げる。

 マルティンは彼らに対し、ブラブラと手を横に振った。


「楽にしてもらって構わんよ。――それで、あの女エルフはどこだ?」


 そう問われた瞬間、騎士レオンハルトが眉をしかめたのが視界に入り、マルティンの脳裏に嫌な予感が走った。


 騎士トビアスが仏頂面のまま回答する。


「申し訳ありません。取り逃がしました」


「……なんだ、と……?」


 マルティンは、まるで目の前に暗雲が立ち上ったかのように感じた。



「……さすがに、森の中までは追ってこないか」


 二名の女性を背に乗せ、旧『フィダス』村へと続く林道を走っていた栗毛の牡馬ぼばは、レティシアが掛けていた魔法を解除すると大きく速度を落とした。

 森の中の闇は深いが、レティシアは弱い魔法の光を放ち、牡馬の進路を照らしていた。


「魔法ってのは便利なもんね! あの騎士達が全く追いつけないなんて」


 とは、レティシアの目の前で牡馬の手綱たづなを握るイザベラの言だ。


 森に入る手前で騎士達に追いつかれそうになったレティシアは牡馬に風の魔法を掛け、速度を大きく上げた。それによって、騎士らを引き離すことができたのだ。


「そうだな。ノアに色んな魔法を習っていて良かったと思う」


 レティシアがそう応えた後、イザベラはゆっくりと馬の足を止めた。そして、上体を捻ってレティシアの方を振り返る。

 彼女のはしばみ色の瞳の中に、レティシアの顔が映る。


「ノアって誰?」



 レティシアとイザベラはそのまま牡馬の背に揺られ、かつての『フィダス』村があった場所まで辿たどり着いた。


「――じゃあ、そのノアってエルフが行ったであろう町に行きたいのね」

「ああ」


 道すがら、レティシアはイザベラに自分の旅の目的を語った。


「どこか、人間の大きな町に心当たりはないか? こちら側に来ていないとすれば、おそらく森の南側だと思う」


 レティシアはこれまでの道中でノアの気配が全く掴めなかったことから、『ガスハイム』町の方面にノアは来ていないだろうと考えていた。

 イザベラは指先を顎に当てながら答える。


「森の南、ね。……そうね。比較的近い所なら、川を挟んだ向こう側の『ランスバッハ』かな。その先だと『ベラウ』の町は栄えてるって聞くね」

「『ランスバッハ』に『ベラウ』か……」


 レティシアは、『ランスバッハ』という町の名に聞き覚えがあった。

 先刻、『ガスハイム』の町に入った際に、商人のゲラルトが出した町の名がそれだった。


「街道は目に付きやすいから、避けた方がいいわね。森を抜けて『ベラウ』の方から行ってみるのがいいんじゃないかしら?」

「そうだな……」


 イザベラの提案は妥当なものと考えられた。レティシアはその後、彼女から二つの町の場所や特徴について更に詳しく聞き出した。

 一方のイザベラも、レティシアからエルフの集落の話やノアとの思い出話など、あれこれと話を聞き出した。こと話がノアの話題に及ぶと、レティシアの饒舌じょうぜつぶりに対して初めこそ微笑ほほえましく見つめていたイザベラだったが、終盤では気疲れを感じるほどだった。


 『フィダス』村の跡地に残された廃屋の一つの中で二人が眠りに就いたのは、夜もかなり更けてのことだった。



「すごいじゃない。こんなに早く馬に乗れるようになるなんて」


 翌朝のことだ。

 二人で持ち合わせていたわずかな携行食を食べ終えた後、イザベラがレティシアに乗馬の指導をしていた。

 馬上にまたがり、栗毛の牡馬を任意の方向に歩ませるレティシアの姿は、とても今朝初めて手綱を握ったエルフとは思えなかった。


 イザベラは自身が一人で馬に乗れるようになるまでに掛かった年数を思い返し、才能の差のようなものを感じていた。


「この子が素直なおかげだ」


 イザベラが牡馬の首筋に触れると、彼は短く鼻を鳴らした。


「エッツィロっていうの。良くしてあげてね」

「ああ」


 その時、何を思ったか、唐突にイザベラの胸から降りたシャパルが牡馬――エッツィロの後頭部に登りだした。エッツィロはブルブルと鼻息を立てながらも、されるがままになっていた。


「こら、シャパル」

「あはは。可愛いじゃない。別に嫌がってはいないみたいよ?」


 シャパルはどこか得意げに胸を張る。彼を頭に乗せたエッツィロは口を半開きにして、半ば呆れたような顔つきをしていた。



 その日の午後、レティシアがエッツィロの手綱をり、同乗したイザベラと共に森の中を移動していた。

 二人は『フィダス』村の跡地から北東の森の切れ目まで馬を進めた。 


「本当にここで良いのか?」


 馬を下りたイザベラに対し、レティシアがたずねた。

 ここから来た道を戻って南の『ベラウ』へ向かうレティシアに対し、彼女は単身でこの近くにある『ノイホーフ』という村に向かうという。


 イザベラは快活な笑みを浮かべてうなずく。


「妹夫婦がいるから、ほとぼりが冷めるまでかくまってもらうわ。あなたこそ気をつけて」


 レティシアも馬を下りると、彼女と抱擁ほうようを交わす。


「……世話になった。この恩はいつか必ず返す」

「彼と再会できるように祈ってるわ」



 森と草原の境目でレティシアを見送ったイザベラは、『ノイホーフ』村への道をのんびりと歩きながら、昨夜体験したスリル満載の逃走劇を思い返していた。


(この国の騎士たちはみんな化け物だって思ってたけど、エルフってのも大概だねぇ)


 そして、その回想が逃走劇を引き起こすきっかけとなった、レティシアとマルティンの一幕に至ると、自然と彼女の口角が上がった。


(あの時のアイツの顔といったら、傑作だったねぇ。あたしにとっちゃ、最高の意趣返しだったよ)


 そんな回想を経て、やがてイザベラは妹夫婦が暮らす家の付近まで辿たどり着く。

 時刻は昼下がり。二人の姿は畑に見られなかったので、きっと家にいるのだろうとイザベラは思った。


「カーヤ、いるかい?」


 イザベラは玄関の扉越しに妹の名を呼んだ。すると、すぐに家の中から物音がした。


 ――扉を開いて現れた者の姿を見て、イザベラは硬直した。


「『夜蝶の館』に勤めていたイザベラだな。話を聞かせてもらおうか」


 そこには鎧に身を包んだ兵士が立っていた。

 おそらくは『ガスハイム』町の守備兵か、または騎士に仕える従士だろう。その兵士に手首を掴まれ、イザベラは胃の中に何か冷たい物が下ってきたように錯覚した。


(――レティシア、ごめんよ)


 彼女は家中に引き込まれながら、胸中で先刻別れたエルフへ謝罪の言葉を捧げた。

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