令嬢はとてもとても怒っている


「怒っていることは分かったよ。分かったけれど、少し離れた方が」


 男は耳を赤らめながら、懇願するようにそう言った。

 しかし令嬢は澄ました顔で微笑むばかり。


「婚約者ですもの。これくらい普通ですわ」


「いや、まだ婚約者だから。節度あるお付き合いをしないとね」


「殿下。ですからわたくし怒っておりますの」


「…………そうだね。では部屋を移動しよう。皆、今日もこの場を良くしてくれて感謝する。後片付けはよろしく頼むね」


 お茶のお礼を言って後片付けを頼む王子などこの世に他にいるのかなぁと。

 ぼんやり考えながら、侍女は粛々と頭を下げて食器を下げるのだった。



 確かに王太子らしくない気質だ。


 心が弱く、重度の心配症である。


 それだから周りの者たちに嫌な想いを感じさせまいと先に動いているのだ。

 するとその言動は周囲には心優しい王子様として映る。


 たとえそれが身近にいる者たちにちょっと嫌われた末にある自身や配偶者の未来を憂いての行動だったとしても、周囲には知ったことではない。


 身分差なく誰に対しても優しく礼を持って接してくれる王子様。

 誰よりも聡明であり、問題を早くに解消し、平和な世を築いてくださる王太子。


 王になるべくして生まれた男。

 王太子の御代は、稀代の素晴らしき時代となることだろう。


 斯様に評価され期待されてしまうのだから。可哀想な男ではあった。




 この心の弱き男は、移動しながらも、なお婚約者に叱られている。


「殿下。わたくし怒っておりますからね?嘘であっても婚約解消は傷つきましてよ」


「君ならば本気にしないとは分かっていたんだ」


「それでも耳にしたくない言葉というものがございますわ」


「ごめんね。今回は君に甘えてしまった」


「まぁ、それは良きことですわ。どんどん甘えてくださいませ。それでも婚約解消だけはいただけません。おわかりでして?二度目はありませんことよ」


「そうだね。二度目があるとしたら、それこそ王国の危機に──」


「殿下」


「……」


「二度と言わないと約束してくださいませ」


「……」


「殿下」


「うん。なるべく」


「んもう!」


 令嬢は怒りながら、男の腕にさらに身体を寄せるのだった。



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