メルチアッチョイニコチャカス

エリー.ファー

メルチアッチョイニコチャカス

 私は川を見つめていた。

 岩には蟹がいて、私の方を見つめているようだった。

 喋りたい気分になる。

 しかし。

 蟹は口をきけない。

 寂しい限りである。

 私は今日も、景色の中にいることを自覚しながら景色との距離を受け入れている。

 私には、山があり、島があり、権力がある。

 唯一、川を持っていない。

 失われるべき権利とも言えるかもしれない。

 いかにして、私は川以外を手に入れたのか。このことについて説明する気は全くない。

 私の人生は、私にとっては退屈なものである。たとえ、多くの人が望んだとしても、私の口から説明が行われることはない。

 今日は何日だったか。いや、何月だった。

 今、何時何分なのか。

 何も分からない。

 何も頭の中になくても生きていける立場であることだけは確かである。

 もしかしたら、私には自分の立っている場所を知覚する力がないのかもしれない。

 私と私以外の差が存在しない幻覚に襲われる。

 どこに境界があるのだろう。

 私と蟹に違いはあるのか。

 私は立ち上がって川の中に入っていく。

 その時、蟹が私の髪を掴んだ。

「もしもし、あなた、川に入ろうとしていらっしゃる」

「そうだ」

「何故、川に入るのですか。冷たいですよ」

「冷たくてもいいのだ。いや、むしろ冷たいからこそいいのだ」

「冬ですよ」

「冬なら、なおさらだ」

「死にますよ」

「死ぬかもしれないな」

「蟹として忠告します。命は大切なものです。大事になさった方がいい」

「大事に扱い過ぎたんだ。確かめたいんだ」

「何をですか」

「生きているかどうか」

「あなたは生きていますよ」

「分かっている」

「分かっているなら死ぬ必要はないのではありませんか」

「何でもかんでも正論を言うな」

「正論を言われて困るような生き方をしていることに問題があります」

 蟹は煙草を吸い始めた。

 泡が弾ける音が聞こえる。

 私も吸おうかと思ったがやめておいた。

 地球は人間にとって禁煙空間であるべきだ。

「もしも、もしもですよ。あなたが蟹だったら、川に入ることを止めなかったでしょう」

「当然だな」

「ただ、あなたは何者ですか。人間ですね。間違っても蟹ではありません。はさみもないですし、前に向かって歩くこともできますからね。そうですね」

「あぁ、もちろんだ」

「人間の生命の価値は揺らぎやすいものです。それは、文化や社会に強く依存するからです。しかし、それ故に人間は人間であることに悩み、蟹と会話をするような幻覚を見ます」

「これは、幻覚なのか」

「もちろんです。冷静になって下さい。蟹が本当に喋ると思いますか」

「思わないな」

「蟹に説教をされる人間がいると思いますか」

「思わないな」

「いいですか。あなたは生きようとしています。そして、特に悩まなくても、どうにかなりますし生きていけます」

「本当か」

「というか、かなり恵まれてますよ。あなたは、あなたが気付いていないだけで、かなり良い所にいます」

「足りないんだ。何もかも足りないんだよ。いや、足りていないわけではない。欠けている」

「満ちますよ」

 川が消えた。

 蟹も消えた。

 私は自動販売機の前にいた。

 缶コーヒーを買ってホールへ入っていく。

 好奇の目。

 不自然な静寂。

 しかし。

 好都合。

「それでは、始めましょうか」

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