第10話 賭け
ルーラは心の中でため息をついた。
詳しくは知らないが、魔獣は大抵が人間に好意的ではないのだ。
人間を無視し、どこかに行ってくれるタイプならいい。だが、わざと関わり、その力を使って人間をおもちゃのように扱い、最悪の場合は喰ってしまう……こともあると聞く。
どうやらこの魔獣は、無視してどこかへ行くタイプではないらしい。そもそも、ここはこの魔獣のすみかだ。
「人間がこんな所に来るなんざ、珍しい。いや、初めてだな。いつも手前で追い返されるから、ここまで来られねぇ。根性無しな生き物だな、人間ってのは」
のどの奥で笑っている。空気の抜けるような音。
「あなたはここで何をしてるの?」
「何をしてると思う?」
からかい口調に輪がかかる。
ルーラは、ここからさっさと出たくてたまらない。初めにこの声を聞いた時から、何かいやだった。
大きな熊の魔獣を前にして、恐い、という気持ちはなぜかわかない。頭っからバカにされているような、精神的に好きになれない、という感覚の方が強いのだ。
さぁ、これからこいつで遊んでやるぞ、と言いたげな声。そのせいで、恐いと言うより腹が立つ。
図体の割に甲高い声も、いらっとする一因だ。
「さぁ」
真面目に考えるのも、答えるのもバカらしい。何となくで質問してみたが、こんな穴の中で魔獣が何をしていようと、ルーラは全く興味がない。
「さぁて、何をしようか」
ルーラとザーディを交互に見る。ザーディは、さっとルーラの後ろに隠れた。
「おい。お前は女のケツに隠れて、守ってもらおうってのかぁ?」
言外に弱虫、と聞こえる。
「この子はまだ子どもよ。年上の者が守ってあげて、当然でしょ」
ルーラはザーディをかばいながら、カグーにたてついた。カグーはなめ回すようにルーラを見る。
「お前、よく見ると、なかなかかわいいじゃねぇか」
「よく見なくても、かわいいわよ」
知り合いの前では、恥ずかしくてとても言えないようなセリフを、ルーラは堂々と言ってのける。相手が違うと、こうも変われるものか。
カグーはそれを聞いて、笑い出した。甲高い、耳がキーンとなるような笑い声。
「お前、面白い奴だ。気に入ったぞ」
「それはどうも。あたし達、ここから帰りたいの。出口はあの穴だけ?」
「帰る? どうして」
「行く所があるの。こんな所で道草くってらんないの」
「こんな所ぉ?」
不機嫌そうな声で、カグーは身体を揺らした。威嚇しているつもりらしい。
「言い方が悪かったのなら、謝ります。とにかく、あたし達はここへ来るつもりはなかったんだし、出たいの」
「いやだね。出してやらね」
まるでいじめっ子が意地悪するような言い方。その姿に合わない。
「どうしてよ」
やっぱり喰う気、かな。こんなのを相手にして、勝てるかしら。ここは魔法で、といきたいけど相手は魔獣だし、魔力は持ってるわよね。さっき、簡単に
ルーラの手のひらに、汗がにじむ。
「どうしたら出してくれるの」
「そーだなー。何をするかなー」
「変な時間稼ぎはやめてよね」
またカグーは笑った。それだけでいらっとする。もうこれ以上、この笑い声を聞きたくない。
「よーし、それじゃあ、その子どもを賭けよう」
「は? ちょっと、何言ってんのよ」
カグーがいきなりザーディを指差して、そんなことを言い出した。
「この子を賭けるって、どういうことっ」
「俺様とお前が勝負するんだ。で、俺様が勝ったら、その子どもを喰う。お前が勝ったら、俺様のそばに置いてやる」
「そんなの、賭けって言えないじゃない。あたしはあんたのそばになんて、いたくないわよ」
本当にいらいらしてきた。カグーの方は、そんなルーラの怒りにも頓着せず、また笑う。
「あたしが勝ったら、ここから出て行く。当然でしょ」
「それじゃ、負けたらその子どもは俺様のもんだな」
しまった、と思った時にはもう遅い。
ルーラは、カグーの口車にのせられてしまった。賭けをするのに賛成したも同じだ。
「……何をしようってのよ」
自分の浅はかさと、カグーのやり方に腹をたてても仕方がない。こうなったら、カグーに勝つしかなかった。
でなければ、ザーディはこの熊もどきに喰われてしまう。そんなことがあってはいけない。
「俺様を倒してみろ。殺したって構わねーぞ。俺様が降参と言うまで、どんな攻撃だってしてもいい。魔法だろうが、剣だろうがな。できなきゃ、子どもは俺様の腹の中に入るし、お前は一生、俺様のそばに
「殺すって……あたしは無意味な殺生はしないわ」
殺すのは、相手の命で自分の命を繋ぐ、つまり食べるためだ。もしくは、自分や周囲の命や環境を脅かされるのを防ぐため。
それ以外で、誰かの命を勝手に奪っていい道理はないはず。
今はザーディの命を脅かされてるようなものだが、それは「賭に負けた」場合だ。
「無意味か? へー、そんなのんきなことを言ってていいのか? お前がやらなきゃ、その子どもは死ぬんだ。それでもいいなら、俺様はどうでもいいぞ」
ふんぞり返って笑うカグー。向こうは完全にお遊びだ。自分が勝つ、とまるで疑っていない。
「わかったわよっ。で、あんたも魔法を使う訳? 森の精霊の許可をもらわなくてもいいの?」
ビクテがルーラに許可してくれたのは、食事と自分を守る魔法の二つ。この戦いは……自分を守る魔法に含まれるだろうか。
「許可? はっ、お前は何も知らんのだな。確かに精霊はおかしな魔法が使われんように監視してやがる。だが、人間の領域のように魔法力の薄い所は、あいつらの領域にはならん。ここも他と比べて魔法力が薄いから、誰の領域でもない。つまり俺様の領域だ」
うそ……そんなのありぃ?
うまくすれば、森の精霊が来てこの賭がおじゃんになる、と期待していたルーラは、それを聞いて愕然となる。
「まぁ、下手な小細工はやめるんだな。ちょっとくらいなら、手加減してやってもいいんだぜ。ほんのちょっとだけならな。もっとも、そんなくらいじゃ、お前が勝てる訳はねぇけどよ」
ムカムカムカムカ
挑発されてる。のって理性を飛ばしちゃいけない、とわかっていても、やっぱり腹が立つ。
ここに落ちてしまったのは自分のミスだし、カグーが休んでいたところだったのなら申し訳ない、とは思う。
でも、こうまでバカにされるような言い方をされると、ルーラだって黙っていられない。
堪忍袋の緒は、もともとかたい方ではないのだ。
「わかったわよ。やればいいんでしょ。何よ、あんたなんて、たかが熊もどきじゃない。人間のいる所へ出て来たら、猟師に撃たれるのが関の山よ」
ほとんど売り言葉に買い言葉。遠慮する気もなくなった。
「ほっほー、元気のいい娘だ」
その言葉が終わる前に、カグーの前脚がルーラに向かって振り下ろされた。鋭い爪が空を切る。
間一髪で、ルーラは飛びのいた。まともに当たっていたら……考えたくない。手加減すると言っていたが、今のも手加減されていたのだろうか。
どうすればいいんだろう。あたし、こんな獣と戦ったことなんてない。それに、この魔獣の弱点ってどこなのよ。ここで魔法を使うにしても、どんな魔法を使えばいいの? とにかく、あたしが何とかしなきゃ、ザーディが喰われちゃう。あたしだってその後、何をされるかわかったもんじゃないんだ。負けられない。
カグーは間をおかず、その前脚でもってルーラに攻撃をしかけてくる。それを避けるだけで精一杯だ。考えてる暇なんてほとんどない。
周りが暗いままだからどこへ逃げられるのか、見えないしわからない。
それがルーラをパニックにしてしまう。思いっ切り横飛びでもして逃げても、壁に当たってしまいそうな不安があるのだ。
だから大きく逃げられず、カグーの次の攻撃をギリギリでよけなければならない。
「へっへっ、いつまで逃げられるかな」
カグーはもて遊んでいるような表情で、楽しそうに攻撃してくる。ルーラが疲れるのを待っているのだ。
このままだと、いつか避け損ねてあの爪でやられてしまう。
逃げ方によっては、ルーラは真上に飛び上がることもある。だが、その程度では、この穴の出口には程遠い。
ゆっくりと振り仰ぐ暇もないが、さっきの落ちていた時間を考えればこの穴はそれなりに深いはず。戦うふりをしつつ、ザーディを抱えて飛び上がり……なんてことはまず無理だ。
ルーラに限らず、人間の足にそこまで強いバネはない。
妄想のようなことを考えていたルーラだが、飛び上がった時にわずかながら顔に風を感じた。
あれ? どうしてこんな所に風が吹くのかしら……。穴の中に風が吹き込んでる?
「あ……」
ルーラの耳に、ザーディのつぶやきがかすかに聞こえた。
「きつね」
「へ?」
今、きつねって言った? どこにいるのよ、きつねが。
そう言いたいが、ルーラは息が切れて聞けない。そんな余裕なんて、とてもない。
「何だと?」
ルーラより先に、カグーが動きを止めた。
ジロリとザーディを睨む。今までにない程、恐ろしげな眼で。初めてカグーを恐い、と思ったかも知れない。
「下らんことを言うな。俺様はきつねはでぇっ嫌いだ。二度と言うなっ」
この魔獣はきつねが嫌いなのか。それなら、さっきの
ルーラがそう思った時、異常に激怒したカグーがザーディに襲いかかった。
長く伸びた鋭い爪で、ザーディを引き裂こうとする。ザーディは恐ろしさのあまりか、逃げることもできず、その場に立ち尽くしたまま。
「やめてっ」
勝手に身体が動いていた。頭の中が真っ白になり、ルーラはザーディにタックルしていた。
そのすぐ後ろで、ブンッと音がする。カグーの前脚が、あと一歩というところで空を切っていたのだ。
その音のすごさに、背筋が寒くなる。
今までとは勢いが違う。ルーラへの攻撃は、本当にお遊びだったのだ。
しかし、ザーディへの攻撃は、本気でしかけている。
カグーは、そんな本気の攻撃の手を休めない。何度も風を切る音をさせながら、襲い続けた。
ふたりに向かい、その大きな口を開けて突進してくる。このまま一緒に喰うつもりだ。
「ザーディ、離れてっ」
一直線に向かって来るカグーから遠ざけようと、ルーラはザーディを突き飛ばした。
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