魔法をかけた子守歌
碧衣 奈美
第1話 気弱な竜の子
今は、朝日がのぼる少し前。深い霧が山々を包み込む。
ほとんど音もなく、静かに流れる豊かな川の水。
時折、細い枝や葉を揺らす風。しっとりと冷えた空気。
ここは、人間の住む所とは似て非なる、竜の棲む世界である。
人間の世界との境界には濃い霧が漂い、地続きではあるがあたかも異次元に存在する世界のようだ。その霧がどこまで広がっているのか、人間はもちろん、竜さえも恐らく知らない。
竜の世界は果てしなく広い。
誰もが予想できるのはそれだけだ。
人間がここへ来るには、方法は二つ。
一つは、人間の世界にいた竜と共に、境界の霧を超える。竜と同行することが、竜の世界へ入るためのいわば通行証だ。
もう一つは、自身が魔法使いであるか、もしくは魔法使いと共に進み、自力で境界の霧を超える。
言葉にするだけなら
なので、竜と同行することは非常に難しいが、自力はさらに難しい。
境界の霧には、何が
強力な力を持つ魔法使いでさえ、ほんのわずかでも魔法を失敗すれば命取りだ。
また、入ることに成功しても、竜の逆鱗に触れるような行為をすれば死が訪れる。
竜は多くの古い文献に書かれているので、その存在を頭から否定する人間は少ない。だが、出会うことが少ないために、心の底から信じている人間も少ない。
竜の世界への入り方については伝説のように語られたりもするが、人間はそれが真実なのか想像なのかも知らなかった。
これは……あくまでも、人間側の話。
竜の世界に棲む竜にとっては、どうでもいい話だ。
その広い竜の世界の、とある湖のほとりにて。
ある水竜の夫妻が、その湖のそばに棲んでいた。仲睦まじく寄り添って、今は共に夜明けを待っている。
だが、夫の方は少し落ち着かなげな様子で、あまり眠っていない。
やがて、山と山の間から太陽がゆっくりと顔を出した。
「朝か……」
光の暖かさを敏感に感じ取り、水竜はゆっくりと首を上げた。
朝の光が辺りの霧を払い、青みがかった銀色の鱗をきらきらと美しく照らす。
「あなた」
水竜の妻ルシェリは、自分が守っているたまごの方を見ながら夫ラルバスを呼んだ。
彼女の胸元には、三つのたまごが守られている。さらにそのルシェリの身体を守るように、ラルバスはその長い身体を重ねていた。
「一つ目が割れてきましたわ」
ラルバスがそっと覗き込むと、たまごに小さな亀裂が入っている。彼は静かに微笑んだ。
「ずいぶんと待たされたな」
たまごの孵化が遅れた訳ではない。
ラルバスが初めての子ども達の誕生に、ずっとうずうずしていたのである。
それを知っているルシェリは、くすくすと笑った。
一つ目のたまごから小さな竜が出ようとする頃、待っていたように二つ目のたまごにヒビが入った。
☆☆☆
たまごから出たふたりの子ども達は早速動き回り、湖のほとりでキャッキャッとはしゃいで遊んでいた。
見る物全てが面白い。動く物を
最高種の竜族とは言え、まだ子どもなので親は目が離せない。
一方、太陽が高くなり、やがてその太陽も少しずつ傾き始める時間になったが、最後のたまごはまだ沈黙を守っていた。
「どうしたのかねぇ、この子は。そんなに中は居心地がいいのか」
ラルバスは、一本のヒビすらも入らないたまごを軽くつついた。
それをルシェリがたしなめる。
「駄目ですよ、あなた。焦らせてはかわいそうですわ。この子はきっと、のんびりした性格なのですよ」
「すまない。つい……心配になってな」
ラルバスは、照れ臭そうに苦笑した。
ルシェリは愛しそうに、残ったたまごを抱える。
「ふふふ……可愛い子、あなたの父様が待ってますよ。中にいるのもよいけれど、外にも顔を出しておくれね」
夫妻がたまごを見詰めていると、ようやく小さなヒビが入る。
陽がほとんど山の向こうへ隠れるという頃になって、最後のたまごから竜の子がそっと顔を出した。
深い青の瞳を大きく見開き、外の世界を怖々見ている。
末っ子が生まれたのを知って、兄と姉が走り寄って来た。珍しいものを見るように、遠慮なく弟の顔を覗き込む。
末っ子はキャッと小さな悲鳴を上げて、殻の中に頭を引っ込めた。まだ頭だけしか出ていなかったので、殻の中へ隠れるように引っ込んだのだ。
兄姉は不思議そうに、末っ子の震える頭を眺めていた。
「おやおや、どうも恥ずかしがり屋さんみたいだねぇ。道理でなかなか出て来てくれない訳だ」
「きっと優しい子になりますわ」
親はそう言って笑ったが……笑ってばかりもいられなかった。
この末っ子は、竜にしてはどうも軟弱な性格をしていたのだ。
母親に終始くっついて回り、自分からひとりになろうとしない。
兄姉と一緒に遊ばせると、少しからかわれただけですぐに泣く。
水竜の子なのに、湖に入れるとその泳ぎ方はほとんどおぼれているようにしか見えない。
好奇心はあるのだが、それ以上に恐怖心の方が大きい。
一ヶ月以上経っても、こんな調子だ。
さすがに両親も、我が子の行く末が心配になってきた。
他の子どもは危ない物とそうでない物はしっかり見分け、食事も自分でとれるようになってきている。眠る以外は親のそばを離れ、自由に遊び回っているのに。
同じ兄弟でずいぶんな違いだ。こうも差がありすぎると、心配になりもする。
末っ子を兄姉達と一緒に無理矢理遊びに行かせ、ラルバスはルシェリと相談した。
「どうしたものだろうね。あの子はあまりに臆病すぎる。このままだと、独り立ちできないのでは、と思ってしまうよ」
「まだ一ヶ月ですもの。こんなに早くから心配しなくても、よろしいのでは?」
「だが、こうもきみに付きっきりだと、私が困るよ」
夫の冗談めいた口調に、ルシェリは笑った。
「とにかく、このままでは独り立ちするのに時間がかかるだろう。何かするのなら、早い方がいいと思うのだが」
ラルバスは自分の考えをルシェリに話す。
ルシェリはそれを聞いて、あの子には少々厳しすぎるのではないか、と思ったが、末っ子がベソをかきながら帰って来たのを見て、小さくため息をついた。
「その方がいいかも知れませんわね。あなたのように、優しく強い子に育ってほしいもの」
☆☆☆
水竜夫妻は、ザーディス=ザインと名付けた末っ子を連れ、竜の世界を出た。
ゆるやかな飛翔で霧の壁を越え、人間の世界へ向かう。
ザーディスはまだ飛ぶ力がないので、母竜の手の中に抱えられ、初めて見る空からの眺めに震えていた。
「高所恐怖症の竜というのも珍しい……」
父竜は小さくため息をつき、苦笑しながらつぶやいた。
「早くおりようよぉ」
実際、飛翔する時間や距離は親竜にとって大したものではなかったが、初めての飛翔を経験した幼子にとっては、ひどく長いものに感じられた。
竜の世界を出てからは、眼下にずっと森が広がっている。その森の端の方に、親竜は降りた。
ザーディスは、地面に足が着くとほっとする。親竜はそのままの身体では木々をなぎ倒してしまうので、人型に姿を変えていた。
「ねぇ、こんな所で何をするの?」
クルクルした青い瞳で、それでも何か不安を感じているのか、心配そうな色を浮かべてザーディスは親竜を見上げた。
「ザーディス、ここから自分の力で、竜の世界へ戻って来なさい」
父がそう告げたが、ザーディスは意味がわからず、きょとんとしている。
「私達はあなたを愛してるわ。でも、このままだとあなたは弱い心のまま大きくなってしまう。あなたには優しく、でも強くなってほしい。あなたの父様のように」
母がそっと、ザーディスを抱き締める。
「ここから真北へ向かえば、お前の生まれた世界がある。竜であればわかるはずだ。そこへ帰っておいで。再び竜の世界に足を入れる時、お前は今よりずっとたくましくなっているはず」
「ぼくだけここに置いてくの? や……やだよぅ。一緒に連れてってよぉ」
それを聞いたザーディスは、一気に青ざめる。
母の手をしっかり握り、離すまいと力を込めた。顔はほとんど泣きかけている。
だが、父はあえてその声を無視し、続けて話す。
「お前はまだ飛べないから、歩いて帰ることになる。その足なら……昼夜歩き続け、何の障害もなければ十日程で着けよう。だが、期限は決めまい。半年でも一年でも、お前の好きなだけ費やすがいい」
父が言い終えると、母は自分の手をしっかり握っているザーディスの手を離す。
「お前にも、魔法が使える。自分の力は、自分で見付けよ」
「ぼく、わかんないよ。魔法なんてわかんない」
とうとうベソをかきながら、ザーディスは離された母の手にすがりつこうとする。だが、母はもう抱き締めてはくれなかった。
「護りの印をつけておきます。あなたの力でも自分の命を守れない、危険な状況に遭った時だけに発揮される魔法です。だから、後は自分で自分を守らなければいけませんよ」
母の指がザーディスの額に触れると丸い印がつき、すぐに消えた。
「己のみで行くもよし、道連れを見付けて共に行くもよし。お前が強い心になって帰って来るのを、私達は待っている」
その声と同時に、ザーディスの目の前から両親の姿は消えていた。
「や、やだよー、やだよー! 連れて帰ってよーっ」
ザーディスは泣きながら、周りを見回した。両親の姿を追って、あちこちを走り回る。
ふと上を見ると、木々の間から美しい竜達が飛翔しているのが目に映った。
「いやだよー、父様、母様ー! ……うわーん!」
ザーディスはその場に座り込むと、大泣きし始めた。
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